地元の地理と歴史シリーズ1    (過去の配信分)

 このシリーズでは大乗寺が寺基を構える森河内とその周辺のことを少し書こうと思います。市の資料などを見て学びつつ、歴史や地域の特徴、文化財の話などまとめてゆきます。知ってるわ!ってことも多いかと思いますが、どうぞ、ご一緒ください。

 まずは森河内という地域全体の話です。東大阪市文化財ガイドブックによると、森河内村は「旧の寝屋川に長瀬川が合流し、西は摂津国とを分ける国境堤(剣街道)にかけた川の南岸にある森河内の集落一帯は、伝えによると中世には一面の萱原の沼地で、俗に島と呼ばれ、うっそうと森が茂る台地があり、地方の武家が多くの従者を連れて狩に来た場所とも言われます。」とあります。
 
「一面の萱原の沼地」というのは、少し南西にあたる深江(大阪市城東区)が菅笠で有名であったことを考えると興味深く思います。江戸時代、大坂人がお伊勢参りのために暗越奈良街道を行くとき、深江村で頭に被る笠を買っていたそうです。落語「東の旅」でも「大坂はなれてはや玉造、笠を買うなら深江が名所」と気持ちのいいテンポで話が進みます。もしかしたら当時これらの材料として森河内の菅も含まれていたかもしれません。
 
「うっそうと森が茂る台地」とは、森河内に3か所ある地形的に少し高い場所あたりでしょうか。圓通寺さんや称光寺さん、宝林寺さんへと繋がってゆく通り周辺がその1。森河内の昔のメインストリートはここです。
 さらに、八幡神社とその北西部がその2。ある意味当然ですね。昔からの神社仏閣は村の高いところ、洪水被害を受けないところに位置している。
そして、森河内小学校の前の通りを北西・稲田方面へ行く際の、一方通行の所がその3です。

薄緑の箇所が森だったあたりでしょうか

 つまり神社と本郷・新地の地車小屋の近辺。やはりこのあたりが水はけ良く、人が住み始める前は木が多く茂っていたのかもしれません。

 あるご門徒さんからの伝聞ですが「菅原道真が左専道を通り諏訪神社で腰を下ろしたという逸話があるが、その時に東を見て『森の河内か』と言ったから森河内と言われるようになった」と話されていました。これははたして?!
 
 以上、今回はここまで。時々このシリーズを挟んでいきたいと思います。次回はこの地の歴史で外せない大和川の付け替えを確認したいと思います。

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