地元の地理と歴史シリーズ2 大和川の付け替えと森河内

 森河内の中心を高井田駅あたりから放出駅へかけて走る長瀬川、300年近く前までは久宝寺川といい大和川の本流の一つでした。その川幅は八幡神社の前から参道どんつきの御旅所あたり(放出教会横)まで。現在の大乗寺はもちろん、新喜多公園や森河内小学校も河床にあたります。この大和川を柏原で進路を変更し西へ、堺まで抜ける今の流れに付け替えた大規模な治水工事が江戸時代中頃に行われています。当時の河内平野の土地利用を一変させる巨大なプロジェクトでした。

 当時の大和川の流れを見ればわかりますが、枝分かれして北からの流れと合流し、池を作り、上町台地をよけて東へ流れています。北へ流れる間に流れが落ち着き大量の土砂が川底へ堆積、どんどん河床が高くなり洪水が頻発する状況でした。その被害をなんとかなくしたいという願いから半世紀近くにわたって幕府に付け替えを嘆願し続け、付け替え運動を主導した人物は中甚兵衛といいます。柏原市役所前に銅像がありますが、彼は今米村(東大阪)の庄屋の息子です。

青い川筋が付け替え前 水色が現在の大和川


 反対意見も多い中、長年の嘆願が通り、1703年に幕府による付け替えが決定し、全長14.3km・川幅180mの掘削工事を翌1704年2月15日開始。その年の10月13日の付け替え完成まで、約8か月で工事がなります。超がつくほどの突貫工事です。幕府権力のすさまじさ!

 結果、380町8反の土地が新大和川の河床となり、旧大和川を埋めてできた土地は大坂の豪商や地元の有力寺院等によって開発がなされ、1,063町8反もの新田が作られます。(有名どころでは鴻池善右衛門による鴻池新田)
新田は砂地で水はけが良すぎることから稲作はできず、畑作で綿花を栽培したことで河内木綿の名で全国的に認められる太物の産地となってゆきます。

 一方、付け替えの負の側面もあります。先祖代々の土地から立ち退きを強いられた方々もあったこと、堺は港町として栄えていましたが新しい大和川の運ぶ土砂が港を浅くし、大型船の出入りを妨げ、港の機能を奪ったこと等が挙げられます。

 ざっくっと大和川の付け替え工事全体の話をしました。次回は、その付け替えによって出来た土地で森河内に関係する新喜多新田の話を整理したいと思います。
 

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