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No.22 川俣(川俣本町)      地元の地理と歴史シリーズ9

 森河内と隣接する地域の川俣。特にその中心は川俣本町で、現在の第二寝屋川と旧楠根川が湾曲し戻ってゆくはざまの場所にあたります。 今回はこの川俣について調べてみました。知らなかったことが多く、面白い地域でした。

川俣と川俣本町

 この川俣はなんと言っても歴史が古いことに特徴があります。古代からその川俣の名前が記されているそうです。日本書紀に出てくる仁徳天皇(5世紀)のものとされる歌に「伽破磨多曳(かわまたえ)」とうたわれているのが川俣であると考えられているとのこと。
 奈良時代には東大寺の大仏造営時に河俣連人麻呂(かわまたむらじひとまろ)という豪族が銭一千貫を寄進したとあるようで、この地域の有力な豪族として、水上交通、漁業をはじめとする生産活動を展開していたことがうかがわれます。
      (「東大阪市の歴史と文化財」と「川俣神社の看板」を参考)
 
 今のイメージとして川俣地域はそこまで人の多い地域ではないように思います。しかし、川俣神社周辺の家はいずれも大きく立派で、地元の方々が代々と引き継いできていることがよくわかります。

 大和川の付け替え前(1703年以前)の河内国の石高調査がなされた地図を下に貼ります。 

元禄国絵図河内国

 さらに、若江郡の森河内近辺を切り取るとこうなります。 

上の図を一部切り取り

 大和川付け替え前のため、まだ現在の鴻池新田駅周辺には新開池が広がっています。そして、森河内村は西(左端)の中央付近にあり、石高499石とあります。高井田1792石、西堤414石、川俣700石、稲田1550石とあります。なるほど、この近辺では稲田・高井田は別格に大きい(広い)ですが、川俣は森河内や西堤よりも大きな村であったんですね。
          (1石はかつて大人一人が一年間で食べるお米の量)
 
 先日、少し川俣本町を歩いてみました。川俣神社の側まで来た時、何台かの大きな車が停まり、数人の4~50代の男性が大きなクーラーボックスを出して神社の蔵(倉庫?)に荷物を搬入していました。お魚釣りをした後の道具を片付けていたような様子ですが、神社が地元の方々で管理されているからこその光景やなあと、興味深く拝見していました。

 歴史の古さに少し嫉妬心も無くはないですが、様々に学べることがあるかもしれません。近くにそういった歴史ある地域がある、そのことを有難く思いたいなあと、今回調べてゆく中で感じました。

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