紀行文:滋賀県安曇川『藤樹書院』を訪れて

 3年前、京都に住んでいた頃、京都駅から湖西線に乗って40分ほど、滋賀県安曇川駅に行きました。内村鑑三『代表的日本人』を読んでから、江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹に強い関心を持っていて、藤樹の主著『翁問答』を愛読していました。その藤樹の故郷が安曇川にあるので、日帰り旅行の気分で、足を延ばしました。
 そもそも、中江藤樹に何故関心を持ったかというと、『代表的日本人』にもありますが、藤樹は、弟子の学識を著しく軽んじ、人柄や人格を重んじた、と言われているからです。普通なら、学問に携わる人間には、人柄などは関係がなく、学識が優れていればそれで良しとするはずです。そこに強い関心を持って、安曇川にある、『中江藤樹記念館』と『藤樹書院』を訪れることにしたのです。
 安曇川駅を降りると、いきなり藤樹の銅像が据えられていました。故郷の誇りということなのでしょう。そして、安曇川駅から記念館までは2キロくらいでしょうか。驚いたことに、その道程の50メートル置きに、藤樹の言葉を記した碑が設置されているのです。私は、その碑文をすべてスマートフォンで写真に収めました。そのなかで、特に印象に残ったものを幾つか紹介したいと思います。

藤樹先生の言葉(4)
善をなすは耕耘のごとし。
善行というのは、あたかも汗水をながして、田畑を耕すようなものです。すぐに収穫することはできませんが、季節になればちゃんと実り、耕した人やその家族のくちに、おいしいものが入るのです。日ごろ、藤樹先生の教えをうけた河原市の馬方又左衛門が、お客のわすれた大金を見つけ、ふたたびお客の泊っている宿屋まで走っていって、おくり届けてあげたおこないは、まさしく善行なのです。

藤樹先生の言葉(5)
それ人心の病は、満より大なるはなし。
私たちそなわっているりっぱな徳をくもらしてしまうのは、「満心」という病気が、そのいちばんの原因なのです。どの辞典にも、慢心と書かれていますが、藤樹先生はあえて満という漢字をもちいました。われこそが、というおごりたかぶる心をいいます。この心に染まっているかぎり、人に対するあたたかい思いやりの言行などは、さらさら出てきません。そのはてには、大事なものをうしなってしまうのです。

藤樹先生の言葉(2)
それ学問は心のけがれを清め、身のおこないをよくする本実とす。
そもそも学問の目的は、私たちの心のなかにある汚れを取りのぞくことと、日々の生活のおこないを正しくすることになるのです。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、まことに奇異に思うかも知れません。だが、そのような知識のつめこみのために、かえって他人をあなどったり、見くだしてしまう心の、ふかく染まっている人が多いと藤樹先生は説いています。

 特に、解説したいのは、藤樹先生の言葉(2)です。現代の学問は、「高度な知識を手に入れること」を学問と考えていますが、中江藤樹はこの学問観に疑問を呈し、むしろ学問の目的は、知識を得るというよりも、「心のけがれを清める」ことにあるとするのです。そして、「知識のつめこみのために、かえって他人をあなどったり、見下したりしてしまう心」が起こってくることを戒めているのです。
 これについては、記念館の資料のなかに、印象的な文章が書かれていました。

「儒教の『大学』には、
『物に本末有り、事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し』
とあります。
【木】でいえば、根が【本】であり、枝葉が【末】。人間で言えば、徳性が【本】で、知能、技能は【末】であり、人間を創る上ではまず徳性を涵養し、身を修めることが大事だということです。」

 これらの碑文をすべて写真に収めたあと、記念館と藤樹書院を見学しました。大変、勉強になりました。それらを見学した後、周囲を少し散策しました。水路を流れる水も澄んでいて、近所の民家では、父親が幼い娘に鍬のふるいかたを教えて、畑仕事をしていました。田舎だからという理由もありますが、それだけでなく、藤樹の遺徳が今でも遺っていることがうかがえました。


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