サン=ジャン=ド=リュズの初恋
フランス領ナバラを水源に
ピレネー山脈から北に流れるビダソア河はスペイン領バスクに到達すると
船も往来可能な立派な河川となり、ゆったりと大西洋、いや、ビスケー湾に
流れていく
スペインと国境を接するフランスの街
サン=ジャン=ド=リュズ。
5月の早朝は少し肌寒い。
そんなビダソア河の岸辺で2人の少年が静まり返った向こう岸を見つめている。
兄は8歳。
まだ子供なのに大人の事情を飲み込み、これから何が待ち受けているのか?しっかり理解している。
もちろん7歳の弟くんも。
ただ、弟くんは兄と違って、運命が受け入れられず不安で泣きそうだ
不安な弟くんは右手に流れていくビダソア河の先に目線を手繰る。朝日に照らされた白い砂浜が眩しいのだ。
本来ならば交易船や捕鯨船が慌しく行き交う時間帯だが一艘も見当たらない。それもその筈、
時は1526年スペイン・オーストリアを支配するハプスブルグ帝国の当主であり神聖ローマ皇帝カール5世が命令したからだ。
船の往来を禁止、いやそんなもんじゃなく、このサン=ジャン=ド=リュズを中心に半径20㎞に渡って住民を追い出し封鎖するように
向こう岸にものものしい人の群れが現れる。
「あれは父上だね。きっと。」
飛びぬけて背が高く、鎖に繋がれているからすぐ分かる。すると兄弟の背後にいた祖母ルイーズが叫んだ。
「ああ、我が息子、我が太陽、フランソワあぁ!」
兄弟は白ける。「なんだ、やっぱり祖母は、僕らよりも父上の方が、大事なんだ」
この祖母ルイーズこそが敵将カール5世と交渉し、自分達兄弟をマドリードに売った張本人だ。そして、この兄弟は間もなく異国の地スペインに捕虜として繋がれてしまう。
何故か? 祖母ルイーズにとって可愛い息子 いや、先の戦いで愚鈍にもカール5世の捕虜となってしまったフランス王フランソワ1世を、何としてでも解放する為に、王太子である我が孫二人も差し出したのだ••
「我が王国は僕達よりも父上が必要なんだ。僕達が死んでも父上は新しい母君と世継ぎをもうける事ができるから」
兄の名は父上と同じフランソワ。こんな事にならなければフランス王の後継者はこのフランソワの筈。だから、自分も王太子として、このフランスの為に犠牲を払う事を覚悟している。
まだ8歳なのに。
しかし弟アンリくんはそうではない。向こう岸で繋がれてる父上の姿を見て震え出す。ビダソア河を渡れば殺されると思ったのだ。
震えるアンリくんを後ろからそっと抱きしめ
頬に軽く接吻をした女性がいた。
ディアンヌ・ド・ボアチエ。
アンリくんよりも20も年上の27歳。美しい大人の女性だ。
彼女の抱擁と接吻で少年アンリの震えが止まる。「向こう岸に行くのが王家の責務」と覚悟を決めれたのだ。
・・
ディアンヌはこの抱擁で彼女自身の運命を変えてしまった。
アンリくんは後にフランス王アンリ2世として即位する。
王アンリ2世は最後までこの抱擁を忘れずディアンヌを愛し続けた。それも色褪せる事なく生涯に亘って。
ディアンヌはアンリ2世の愛情を利用して大出世し、フランス王宮内の権勢を欲しいままにし、あらゆるお城、財産を手に入れた。
そして結末は?いや、そもそも彼女は結婚したのか?
出来ない。ディアンヌは一介の侍従であって王妃などもっての外。
アンリ2世は別の女性を王妃に娶らねばならない。
カトリーヌ・ド・メディシス。
アンリ2世と同い歳だ。
王妃カトリーヌは夫アンリが新婚早々から20歳も年上の侍従ディアンヌに寝取られ続け嫉妬に悩む事になる。
それだけでない。ディアンヌは王妃の権力も財産も奪う手強い簒奪者だ。
そこでカトリーヌは、、、
完全犯罪を装いディアンヌではなく
夫アンリ2世を殺害する••。
これがビダソア河での美しい年上の女性からのフランス王太子の弟くんへの優しい抱擁の結末、、、
仏王アンリ2世殺害後カトリーヌはそのまま王妃の地位は剥奪されず
それどころか実質フランス王として君臨し
英国女王エリザベスと相見える。
・・
さあビダソア河に戻ろう
合図と共に、両岸から船が出た。
向こうからは父であるフランス王フランソワ1世が船に乗り込む
こちらからはフランス王太子兄弟のフランソワとアンリだ。
父上の船と兄弟の船は同時刻に両岸を離れ同じ速度で進み河の真ん中で父上と会う。
親子3人は“白けた”抱擁をし、引き離された後、父は鎖から解放され幼き兄弟はスペイン軍に囚われた。アンリくんは瞬間後ろを振り返りディアンヌ・ド・ボアチエを探す。
少年達が去った岸辺からは「王が生還されたぁ、万歳!」
雄たけびと歓声が響く
身代わりに囚われた幼い兄弟
歓声もフランスも遠ざかる。
サン=ジャン=ド=リュズ
いつの間にか太陽は真上にあがった。
肌寒い朝は去り暖かい空気に包まれた
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