【超短編小説】シアトル
シアトルはもちろん、雨が多い街として知られている。しかしこのところ半年間ずっと雨が降り続いて一日も降り止まないのは、どう考えても行き過ぎじゃないだろうか。ずっとここで暮らしているぼくだって嫌になる。空は朝になっても墨を垂らしたように暗く、窓はいつもびしょ濡れで、浴室にはどんどん黒いカビが生える。通りの四分の一が水に沈んだせいですっかり住民の数が減ってしまった。幸いぼくの住んでいるところはまだ大丈夫だが、人々の顔からはだんだんと笑いが消えていく。そしてぼくたちは折にふれ、憂鬱な物思いに囚われがちになる。
雨が続くと、もっと厄介なことだって起きる。その日、地下鉄を降りて家の近くまで歩いてきた時、道端で女が一人しゃがみ込んで野良猫に餌をやっているのが目に入った。傘を持たないせいで淡いベージュのコートがずぶ濡れだ。30代のはじめぐらいで、白っぽい金髪を長く伸ばし、痩せていた。目の下に寝不足みたいなクマがあって、どこか疲弊した色香を感じさせた。彼女は猫にミックスナッツを食べさせようとしていた。
「猫はナッツ食べないよ」とぼくは言った。
「そうなの? 私が飼ってた猫は食べたけど」
彼女の視線とぼくの視線がぶつかり、ぼくはふいにブリジット・バルドーを思い浮かべた。顔立ちは全然似ていないけれど、強靭な意志を感じさせる眼差しがそう思わせたのかも知れない。彼女は立ち上がり、まるでこれから対決するガンマン同士みたいにぼくと正面から向き合った。コートから水がしたたっていたけれど、全然気にとめていないようだ。その苛烈さを帯びた視線がぼくを落ち着かなくさせた。
「あのさ」とぼく。「こんなこと言うと絶対警戒されると思うけど、ぼくの家すぐそこなんだ。うちに来てシャワーと乾燥機を使ったら? 君ずぶ濡れだからさ。熱いシャワー浴びてる間に服を乾かすといいよ」
「ありがとう。行くわ」
彼女は痩せた脚をゆっくりと上げ下げする、まるでファッション・モデルみたいな優雅な足取りでぼくについてきた。一緒にワンベッドルームのアパートに入って、シャワーと乾燥機の場所を教えた。彼女がコートを脱ぐと水が滴り落ちてざあっと音を立てた。その下のからし色のセーターとジーンズもずぶ濡れだったので、ぼくのスウェットの上下を貸した。「乾かしている間これを着るといいよ」
彼女がシャワーを使っている間、ぼくはコーヒーを淹れてテレビをつけた。テレビではリアリティショーをやっていて、大金持ちの息子とかいう顎ひげを生やした男にナイスバディな金髪女達が競ってプロポーズしていた。「もしあなたが私を選んだら、毎朝ブラとパンティだけつけてベーコンを焼いてあげるわ」
たっぷりの媚態、そして微笑。ビキニを付けた女達がホイップクリームまみれになってレスリングし、富豪の息子が白い歯を見せて「ぼくはアクティブな女性が大好きなんだ」とコメントした。チャンネルを変えると、今度はアフリカの池で水浴びしているカバの群れが映った。カバ達はどこまでも広がる大平原を横切って行き、その途中で子供のカバが親カバの背中によじ登った。カバ達は足を止めて待ち、グウグウと鼻を鳴らし、また歩き出した。やがて彼らは雄大なアフリカの夕陽の中に、大小のシルエットとなって呑み込まれていった。
ガチャン、と大きな音がした。彼女がいる洗面所からで、何かが割れる音だった。行ってみると、洗面台の鏡が割れていた。粉々にではなく、ちょうど中央あたりから四方八方に向けてジグザグに亀裂が走っていた。まるで弾丸を撃ち込まれた銃創と周囲のひび割れのように。
「ごめんなさい」と彼女が言った。ぼくに怒鳴りつけられないかと心配しているみたいに首をすくめた。
「一体どうしたの?」とぼくは、できるだけ優しく尋ねた。彼女を安心させたかったし、本当に、どうすればこんな割れ方をするのかが分からなかったからだ。
「うっかり頭がぶつかっちゃったの」と彼女。彼女の頭には尖った髪飾りとかそういう類のものは何もついていないので不思議だったが、「気にしなくていいよ」とだけ言って、また居間に戻った。
テレビ番組は、今度はカエルの生態を紹介していた。南米に生息するピパピパのメスは背中のくぼみでオタマジャクシを育てます。とナレーターが完璧なイントネーションで語った。次に映ったのはマダガスカル島のサビトマトガエルで、全身が赤い色をしていた。サビトマトガエルは、とナレーターが流暢に説明した。危険が迫ると赤い体をトマトそっくりに膨らませます。敵はトマトだと思って、サビトマトガエルを見逃すのです。ふくらんだカエルの映像は出てこなかった。そこはきっとトマトがいっぱいある場所なんだろう、とぼくは思った。
スウェットを着た彼女が入ってきたので、ぼくは新しいカップに熱いコーヒーを注ぎ、デニッシュを添えて差し出した。しばらく無言でコーヒーを飲んだ。彼女が珍しい動物でも見るようにぼくを見ていた。そんなぎこちない沈黙を、雨音が柔らかく包み込んだ。
「あなた親切なのね」と彼女が言った。「それで、私はあなたの親切に対して、どうやってお礼をしたらいいのかしら」
「何もいらないよ」
「遠慮しないでいいのよ。なんでも言って」
「本当に何もいらないんだ」
ぼくは頭を振ったが、もしかしたらそれはどこか悲しげに見えたかも知れない。
「あなたって変わってるわね」と彼女が言った。じっとぼくを見て、まだ手をつけていない自分のデニッシュを見た。「何か果物ない? バナナとかアプリコットとか」
「デニッシュしかないな。食べれないの?」
「食べれなくないけど。果物はないのね」と放心したように言った。
しばらく沈黙が流れ、その間ぼくは彼女はダイエットでもしているのかなと考えた。彼女は肩を落とし、疲れ切っているように見えた。
「じゃあ悪いけど、お金貸してくれない?」
「お金かあ。いくらぐらい?」
彼女が金額を言った。大した額ではなかった。スーパーマーケットで果物がいくつか変えるぐらいの額だ。「いいよ」とぼくは言って、彼女にお金を渡した。
「ありがとう。もうひとつ聞いていい?」
「いいよ」
「あなたが今いちばん起きて欲しくないことって何?」
「何それ。占いか何か?」
「性格診断よ。答えて」
すぐには思いつかなかった。「君は?」
「色々あるわ。医療保険費が上がること。巨大隕石が地球に激突すること。親がアルツハイマーになること」
ぼくはしばらく考えてから言った。「雨漏りかな」
コーヒーがだんだんと冷めていった。彼女は部屋を出て、ジーンズとセーターとベージュのコートを着て戻ってきた。「そろそろ帰るわ」
「じゃあ気をつけて。傘を持っていきなよ」
「いらないわ。でもありがとう」
ドアが閉まり、彼女の足音が階段を降りていった。ぼくが窓辺に行ってカーテンの隙間からアパートの出口を見守っていると、ドアを開けて一羽の孔雀が出てきた。細くて長い首の先に青く光るトサカがあり、全身は濃い藍色と紫、羽毛がところどころ剥げた、どちらかというとみすぼらしい孔雀だった。嘴が鋭く、その目にはどことなく疲れたような色があった。けれども孔雀だけが持つ独特のエレガンスが、その姿勢となめらかな動作の中にあらわれていた。鳥はたちまち雨でずぶ濡れになったが、細い脚を優雅に上げ下げし、まるでファッション・モデルのような足取りで、川のようになった通りを遠ざかっていった。
洗面所に行って彼女が着たスウェットを調べてみると、孔雀の羽がついていた。ぼくは倒れ込むようにしてベッドに横たわった。これで二度目だ、とやりきれない気分で呟いた。あんまり雨が続くと、シアトルではこんなことが起きる。