さて、具体例とは何かと尋ねられた場合、何と伝えるべきなのだろうか?
このような定義を踏まえて、高校生の小論文添削をしてみると面白いことが分かる。
それは「私の中での具体例」がなんて多いことか。
最近、添削を見てあげた高校生であればこのような意見文があった。
ツッコミどころ満載で読んでいて面白かったのだが、肝心なのはコレを「具体例」として生徒が認識していることが面白い。
(でも、このような生徒が現代には蔓延っていると考えるとおぞましい。)
何がダメなのか考えてみよう。
(※あくまでも個人の見解に過ぎず、もっとこうしろよ!といった老害発言は求めていないのでご理解頂けると幸いです。)
①自分の実体験に基づいて書いていること
「どのような実体験で、それが根拠になるのかは異なる」と言えば、この話は終わりになってしまう。
じゃあどうすれば実体験をより具体例に見せるようにできるのか。
それは社会と結びつけることではないだろうか。
先の定義の通り、具体例とは事実に基づき現実の物事に即すものである。そうであるのなら、そこから敷衍し社会的事象を結びつけるだけでも、具体例として、自分の意見の根拠として価値を持つはずだ。
例えばこんな感じ
またはこんな感じ
このように、自身の例から社会的事象にスポットライトを照らすことでそれっぽく見えることがある。
この時に「〜にだけにとどまらない」等と書くと効果てきめんだ。
(ちなみに私は大学のレポート等はこれで凌いでいたタイプである。)
②例は1つにスポットライトを当てる。
さっきと言ってること矛盾してるやんと思われたかもしれないが、まぁ読んで欲しい。
そもそも、例なんて1つ挙げるだけで充分だろと私は思うタイプである。
(そうじゃないタイプもいるよね。ね、ハム太郎?)(へけっ)
例が大事なのではなく、
何故その例が主張を裏付けるのか明確化することが大切ではないだろうか。
ひとつの例だけで何か書くのであるのなら、こんな感じ
まぁ、オリエンタリズムの話は蛇足っぽいけど、大筋は国民国家の共同体と宗教的な共同体は異なるという例として日本の国家総動員法を提示しているだけ。
私は特に以上の2つを意識して具体例は書いて欲しいと思う。
余談だが、具体例という表現が悪いとも思うよね。
だってさ、具体って言ったら絶対本論は具体例じゃないと!みたいな固定観念つくし、具体例といって漠然としたもの提示されるしと。色々ある。
では、本論をより綺麗にするにはどうするか。
次回は余裕があったらそこに注目したい。