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ひとりカラフルハイライトクリスマス
何故か昔からカラフルなものが好きだった。
自分に美的センスが無いことは知っているがそれでも、カラフルなデザインが好きだった。
中学の頃に、
「俺はカラフルなものが好きなんだ!」
と自認した時のことをぼんやり覚えているので間違いない。
しかし不思議なことに、カラフルなものが好きな理由だけは、何故かずっと分からなかった。
この「好き」はどこから来ている感覚なんだ?
そういう疑問が10年ほど自分の中にあった。
クリスマスの夜までは。
20241225。
クリスマスの夜。
僕はファミレスのココスにひとりでいた。
21時頃に入店し、閉店間際の24時までドリンクバーで粘りながら3時間ほど滞在した。
その間に何をしていたかというと、「平成っぽさ」について調べていた。
何故「平成っぽさ」について調べていたのかといえば、最近、小津安二郎の映画『東京物語』をたまたま観たのだが、その時に、
「昭和っぽさ」はイメージを言語化出来るが、
「平成っぽさ」はイメージを言語化しにくい。
と感じたからである。
「昭和」にはレトロな雰囲気があり、文化も技術も今とはまったく異なる印象を受ける。
しかし「平成」にはレトロな雰囲気をさほど感じない。文化や技術もやや古いとはいえ、今と地続きになっている印象を受ける。
だから「平成」は個性として分かりにくい。
パッとしないと感じていた。
それがおそらく、「平成っぽさ」を言語化しにくい要因。
そんなことを『東京物語』を観て考えていた(もっと他にも考えることがある映画だが)。
そしてその上で、
「マジで平成っぽさって一体なんなんだ?」
と思い、ココスでそれを調べた。
クリスマスの夜に。
Google先生に
「平成っぽいとは?」
と尋ねると、このような答えが返ってきた。
「平成っぽさ」とは、昭和のアナログ感とは異なり、デジタル化が進みつつあった時代の、明るく前向きな雰囲気や近未来感のことだと。
そして、前向きな雰囲気と近未来感によって、デジタルカメラや、J-pop、Y2Kファッションに見られるキラキラしたスタイルが生まれ、新鮮で洗練された雰囲気や、自由さ、派手さが感じられると。
それが「平成っぽさ」だと教えてくれた。
それを知った時、
「たしかにそうだなあ!」
と、強く膝を打つ感覚が個人的にはあった。
というのも僕は小学生の頃テレビっ子だったのだが、その頃のテレビの映像はとにかく派手で、色使いが鮮やかだったなというイメージがある。
明るくてキラキラしていた。
テロップやセットの美術の光や色が、脳にダイレクトに叩き込まれてきた感覚がある。
色が強かった感覚がある。
一方で今のテレビは、相変わらず派手な演出がされている場面もあるが、その印象は柔らかく、平成より色を強く感じない。
僕は平成20年辺りからバラエティ番組を見始めた。
その当時のバラエティの映像を、「平成っぽさ」を調べた時に思い出した。
『ヘキサゴン』のセット。
『歌うま王座決定戦』の照明。
色と光がカラフルでギラギラで強かった。
良い意味で。
そしてそれがそのまま、僕が感じている「平成っぽさ」なのかなと推論した。
前向きな雰囲気と近未来感。
キラキラしたスタイル。
新鮮で洗練された雰囲気。
自由さ。
派手さ。
平成バラエティの色の強さがイコールで「平成っぽさ」だと気づいた。
また同時に、あの頃にテレビを見まくっていた影響で、カラフルに惹かれるという美的感覚が植え付けられて大人になったのか。とも気づいた。
だから、カラフルなものが好きだったんだ。
ルーツは平成後期のバラエティにあったんだ。
腹落ちした。
クリスマスの夜にココスでひとり。
ここまで読んでくれた方の脳内には、ある疑問が浮かんだに違いない。
それは、
「お前、クリスマスにひとりで何やってんの?」
である。
それは、
「いや平成感とか色が強いとかそんなのはどうでもいいんだよ!それより何故そんなことをクリスマスの夜にわざわざココスで調べてんだよ?」
である。
つまるところ、
「クリスマスの夜にやることじゃないだろ」
である。
そういう指摘が飛んでくることは予想がつく。
僕だって馬鹿ではない。
それにその指摘は確実に正しい。
ぐうの音も出ないような指摘だ。
しかし、僕も分からないのだ。
なぜわざわざひとりで、クリスマスの夜にココスで「平成っぽさ」について考察を深める必要があるのか?
イルミネーション見に行けよ。
鍋パーティーとかやれよ。
チキンやケーキを食えよ。
誰かといろよ。
そういう世間一般の、「12月25日の過ごし方とはかくあるべき」という声が、爆音で聞こえてくる。
でも僕は同時に思う。
いや、ココスで「平成っぽさ」について考えてた時、めちゃめちゃ楽しかったんですけど・・。
大学2年生のGW。
僕はひとり旅で直島にいた。
直島とは香川県にある小さな島。
建築とアートが有名だ。
そんな直島に宿泊したのだが、僕はモンゴル高原に住む遊牧民の移動式住居通称「パオ」に1泊した(「パオ」は別名で「ゲル」)。
直島の宿泊施設に、モンゴルの住まいが体験出来る「パオ」があったので、
「せっかくなら!」
と思って泊まったのだった。
「パオ」は直島に10棟あった。
僕が泊まった1棟以外はすべて団体客が予約していた。
「パオ」は何人で予約しても同じ値段。
だからひとりで泊まる人は少ないようだった。
僕の両隣の「パオ」には家族連れとカップルが宿泊していた。
温かみのある声が両隣から聞こえた。
その日の夜。
ひとり旅をさんざん楽しんだ後。
僕は直島に1店舗しかないコンビニで買ったカップヌードルのカレー味をひとりで啜った。
「パオ」から歩いてすぐの砂浜に座り、真っ暗な海を見つつ、ひたすらカレー味が美味かった。
潮風が心地良く抜けていく。
幸せだなと思った。
今日は自分で自分を楽しませることが出来た。
周りの団体客が幸せそうなのは承知の上で自分はとても幸せだった。
にしてもカップヌードルのカレーって美味いな。
なんだかわからないが爆発的にうれしくて、カップヌードルを食べた後、夜の浜辺をひとりで歩きながら、
「楽しい!楽しい!幸せだ!幸せだ!」
と叫びまくっていたことを覚えている。
誰もいなかったので爆笑しながら浜辺を歩いたことを覚えている。
ざざーという波の音。
潮の気配。
口に広がるカレー味の残り香。
砂浜の感触。
真っ暗な海と圧倒的ひとり爆笑。
傍から見れば、
「あの人なんであんなに笑ってんだ?」
と自分は思われるだろう。
だって客観的に見たら奇行だもん。
でも、その瞬間が、直島ひとり旅のハイライトだった。
ひとり時間のハイライトって何だろう?
僕はその答えを持っている。
世間と他者の声が気にならなくなる地点で、自分の充実感だけを頼りに、
「今が楽しい!」
と叫べる瞬間のことだ。
直島で、ひとりで「パオ」に宿泊した時。
声が一瞬だけ聞こえてきた。
横にカップルいるけど寂しくないの?
横に家族連れいるけど虚しくならないの?
ひとりでカップ麺食って真っ暗な水平線見て何が楽しいの?
クリスマスにココスで過ごす時。
声が一瞬だけ聞こえてきた。
ひとりで寂しくないの?
何が楽しいの?
懐かしい平成を思い出して、それで何になる?
しかし、うるせぇ!と思う間もなく、そういう声は後方に吹き飛ばされて消えた。
ひとりの醍醐味は、自分の感覚に深く集中できることだ。
ふたり以上の醍醐味は、自分の感覚を他者と分かち合えることだ。
もちろん両者とも素晴らしい。
でも世界はやたらと、後者の醍醐味を味わえる奴ばかりを幸せ者として定義してくる。
一方で、「ひとりの時間の幸せとはこうだ」という定義をしてくることはない。
きっと、人それぞれだから。
でも、世界の声と目線に過敏に反応するタイプの独り者は、寂しさに震える。
心が相部屋になって休まらない。
ひとりの醍醐味を邪魔される。
ただ、そうした声と目線が侵入してこない場所は確かにあって、そこには個の充実感が広がっている。
そこにがーっと没入していく。
自分の感覚に深く沈み込んでいって、自分ひとりだけの、本当の意味で孤独な、個人的で感覚的な地点で、
「今が楽しい!」
と感じられた時、それがそのままひとり時間のハイライト。
それは直島でひとり歩いている時やココスにひとりでいる時の幸福ゾーン。
そのまんま生きている意味のようなひとりハイライト。
ハイライトを知ると、ひとりがやめられない。
もう共感とか理解とかいらねえやとつい口走りそうになる。本当はいるのに。
僕はココスで、「平成っぽさ」をより深く味わいたくなって、
『一期一会』
『きらりんレボリューション』
『IQサプリ』
『東京フレンドパーク』
『サルゲッチュ』
『ボディコン』
『アムラー』
『プロフ帳』
『自作のホームページ』
『メンズエッグ』
などをさらに調べて、ニタニタ笑っていた。
懐かしすぎるー!
楽しくて、ドーパミンが出て、ドリンクバーでコーヒーを飲み過ぎて、夜は中々眠れずに翌朝は寝不足になった。
まったくそれっぽくないが最高のクリスマスだった。
早く来い正月。