そういえば七夕
日本で楽しめる季節の行事の中で最も好きなのが七夕。
七夕が好きと言うと大抵の人は
「はぁ・・なんで?」
とぼんやりとした表情で聞いてくる。
きっと七夕という行事が、花見や夏祭りやハロウィンやクリスマスといった行事に比べて、盛り上がりに欠け楽しみも薄いからなのだろう。
言うなら、七夕は数ある行事に比べて「弱い」のだ。
でも僕は七夕の、「弱い」感じにグッとくる。
そういうところが好きなのだ。
まずそもそも七夕は、日本人からすぐ忘れられる。
なんせ七夕当日に、
「あ、そういえば今日七夕だね」
と誰かが言っているのを毎年耳にするくらいだ。
七夕は、当日になってようやく思い出される程度の行事なのだ。
人の記憶からするりと抜け落ちる。
最早、「短冊に願いを書く」と同じくらい、「当日になって七夕の存在を思い出す」は七夕の風物詩になっているではないだろうか。
しかも、七夕を思い出したからと言って特になにかするわけでもなく、皆しれっと知らん顔で翌日を迎える。
そんな扱いを受けている七夕。
あまりに切なすぎる。
ただ、僕が言いたいのは、その切なさ淋しさが、七夕最大の魅力だということ。
日本人から忘れられ、注目を受けず、興味も持たれず、横にスワイプされていくその侘しさが、何よりの風情じゃあないか。
例えばクリスマスは風情がない。
欲しいものをサンタさんにお願いして、それが叶わないと駄々をこねる子ども。それはきっとプレゼントが届くまでの動線が子どもにとって織り込み済みだからなのだろう。願いが叶うのがクリスマスなのだと当たり前のように認識している。
でも一方で七夕はどうだ。
短冊に願い事を書くだけ。
願いが叶わなくても誰も文句を言わない。
願い事を笹に飾るだけ。
願いが叶わなくても誰も文句を言わない。
しかし、もし仮にクリスマスの日に、美味しいディナーが食べられなかったら、好きな人のそばにいられなかったら、プレゼントが届かなかったら、家族で旅行に行くはずが『ホーム・アローン』のマコーレー・カルキンよろしく家に置いてけぼりにされたら。
絶対みんな文句を垂れる。
それは大人も子どもも変わらない。
僕はそのことを、渋谷で行われていた『青の洞窟』というイルミネーションイベントに、一昨年のクリスマスにひとりで行ったからよく知っている(ひとりで行ったことを周りの人に話したら、めちゃくちゃ気持ち悪がられた)。
その場を往来する人間全員が、欲を、夢を、願いを叶えるんだという目、ドーパミンが放出されていることが丸わかりな目をしていた。自分も含めて。
そしてそんな人々を青一面のイルミネーションがライトアップしていた。
クリスマスは特に欲深い。もちろんロマンチックな雰囲気の中でハッピーなことがたくさん実現する魅力もあるが、がめつさも感じる。
そしてそれはクリスマスに限ったことでなく、花見も夏祭りもハロウィンも同じ。どこか欲深いのだ。
でも、七夕はそうじゃない。
「願い事を叶える」というより、「願い事をする」行事なのだ。
行為を表す動詞が「叶える」じゃなくて「願う」なのだ。
願いの結実、その成否がそれほど問われていない。
ゆえに、七夕は人の記憶に残らないのかもしれないが、僕はそれこそが風情だと思っている。
風情と欲は対極にある。
そして欲の無い、こざっぱりとした、風流で、慎ましく、私が!私が!と主張してこない七夕が、僕は好きなのだ。
しれっと夜の頭上で織姫と彦星がロマンスしているのが好きなのだ。
まぁ、それすらもよく雨で妨害されてるんだけどな。
でも、雨が降っても、
「まぁ、また来年だね」
と、がっかり感を引きずらないから素敵なのだろう。
願い事も、願いが叶わなかったことによる寂寥も、ぜんぶ、ぜんぶ天の川に流してしまえ。
七夕が好きだ。