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■映画『マッドマックス:フュリオサ』今度は「物語」だ!
■『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の超絶V8祭りから9年。
その前日譚としてフュリオサの物語が語られるといったら、もう行くしかないでしょう!
前日に『マッドマックス 怒りのデス・ロード』をアマゾンプライムで見返して、すっかりウォーボーイズ気分となってV8!V8!と心の中で叫びながら映画館に突入!
しかーし!
マッドマックスといいながら、『フュリオサ』はぶっ壊れていなかった!
そう、ちゃんとした映画だったのだ。
■物語はフュリオサが母親が目の前でバイク野郎どもの犠牲になり、連れ去られ、いつか故郷に戻ることを腕の入れ墨に刻みながら、生き抜いていく姿を描く。
ハードなアクションは、『怒りのデスロード』のあざとさ(誉めてる)を洗練させ、さらにエッジが効いたものになっている。むしろ原点の『マッドマックス(1979年)』のそれを思い起こさせるところも端々にあって、バイクの暴力性をしっかり見せてくるところがツボにはまる。
148分をノンストップで駆け抜けるスピード感も健在。
■しかし、V8!V8!と胸を高鳴らせながら期待してしまうと肩透かしをくらってしまう。
フュリオサの「物語」なのだから当たり前なのだけれど、バイク集団のボス、ディメンタスにしろ、ご存じイモータン・ジョーにしろ、言葉の通じる人格を持っているのだ。
いや、そりゃマッドマックスの住人だからまともじゃないんだけど、やっぱりまともなんだよな。そうしないと物語にならないから。
■物語としての『フュリオサ』はうまく作られている。
師匠であり信頼して好意も寄せていたジャックも、帰るべき場所を刻んだ左腕も失い、復讐に燃えるフュリオサは、ある意味マックスの移し身だ。
一瞬差しはさまれるマックスとインターセプターのカットがそれを示唆する。
しかしながら第1作でマックスが暴走族に目の前で家族を奪われる理不尽な暴力性は、理解不能のものだった。
理解不能の恐ろしさというものがあって、当時、絶対死んでるだろこれ、という理解不能のアクションとが合わさって第1作の『マッドマックス』は成り立っていた
■『フュリオサ』での暴力性は、理不尽ではあるものの、暴力を行う側の背景を婉曲的に描きこむ。子供へのプレゼントだったクマのぬいぐるみを象徴として、冒頭の核戦争後の混乱でそれぞれがそれぞれに理不尽な暴力の中で生きてきた過去をにおわせる。
暴力描写は思いっきりハードではあるものの、こういう人間へのぬぐい切れない優しい目線がどうしても感じられて、ああこれが現代なのかな、とも思う。
■2015年の『怒りのデス・ロード』は、そういった優しい目線が一切ない。
イモータン・ジョーにしろ、ウォーボーイズのニュークにしろ、人物造形がしっかりしているから薄っぺらにならないのだけれども、徹底した乾いた、ソリッドな作風が原点としてのマッドマックスを感じさせ、気持ちを盛り上がらせたのだと思う。
■だからといって、『フュリオサ』の評価が下がるわけではない。
これはこれで魂を揺さぶる傑作だ。
ディメンタスの持つ、残虐性と軽薄さと知性と優しさが矛盾しながら存在する複雑さがフュリオサを翻弄する。
幼いころのフュリオサにとって母親の仇でありながら、同時に父親的存在でもあったディメンタスの末路は、フュリオサの新たな誕生を表すものであり、しっかりと『怒りのデス・ロード』の結末につながるものなのである。
■いずれにしろ確かなのは、フュリオサの子役がかわいかったってことだ。
これは間違いない。反論は認めない。
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2024年 ジョージ・ミラー監督 オーストラリア映画
原題 Furiosa: A Mad Max Saga
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