日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション@東京都現代美術館
■日本現代アートに初めて触れたのは2009年6月、上野の森美術館で開催されたneoteny japanだった。
そこで奈良美智や会田誠、鴻池朋子、池田学の作品に出合い、西洋絵画とまた違った、ダイレクトに感覚に飛び込んでくるパワーに圧倒されたのである。
今回は、前回の「幼生成熟」というようなコンセプトを外し、高橋さんが感じてきた日本現代アートの風景を体感する、そういう趣向だ。
■第1章は【胎内記憶】
高橋さんが昭和の時代に集めた初期の作品群が展示される。
大きく目を引くのは草間彌生。
正直、ちかちかして苦手だったのだけれども、「草間の自己消滅」(’67)という23分を超える映像作品に意識を引っ張られた。目にする対象の認識も自己の認識も水玉に覆われることで輪郭を失い、消滅していく。60年代後半(私が誕生した時期!)の空気を伝えつつも、本質は現代においても生きていて心をがっつりと引き込んでいく。
そこを補助線として改めて草間彌生の作品をみると、単純な眩暈の向こうにまた違ったものが見えてくる。
少し、草間彌生の見方が変わった。
■第2章は【戦後の終わりと始まり】
90年代後半、バブルがはじけ価値観が迷走して現代に至る、その始まりの時期の作品群である。
西尾康之の巨大な「Crash セイラ・マス」(’05)がお出迎え。
村上隆は「ズザザザザ」(’94)など色彩にセンスを感じさせる系統で意外といいね、と感じました。
会田誠は、相変わらず何度見てもいい。
さて今回の目的、池田学の「興亡史」(’06)。
細かく見れば見るほど楽しい絵。
部分の細かい物語が積み重なることで浮き上がる全体は、
画集や写真では分からない。
じっくり堪能できました。
ヤノベケンジの「イエロー・スーツ」(’91)も、眺めていてうれしくなる作品。
この時代は、サイバーパンク系が流行りだったと思うのだけれど、このヴィヴィッドでありながら、ほっこりという感じ。
全然、色あせていない。好きです。
バカだねえ~、という方面で気に入ったのが、会田誠の奥様、岡田裕子の「或る恋人M氏とS嬢」(’99)
技術とイマジネーションが迸りながらバカを表現している。
真剣であればあるほどに笑いを生み出す、その芯を捉えた作品だと思う。
■第3章は【新しい人類たち】
まずは奈良美智。
「無題」とされた大きい作品。
やわらかい色合いとダメージ具合にとても魅かれる。
奈良美智は90年代の作品が好みです。
加藤泉は怖い。
長く見つめるといけないやつだと思うので、そっと通り過ぎることにした。
舟越圭の「言葉を聞く山」(’97)も、どうもこの空間のなかでは居心地が悪そうだ。しずかな場所でまた会いたいな、と思う。
川島秀明「roses」(’06)は、引っ張りこむ力が強い。
今回いちばん幼生成熟(neotenyu)っぽいと感じた作品。
鴻池朋子「第4章 帰還ーシリウスの曳航」(’04)は言語化されない物語が漂っていて、何度見てもいい。
塩田千春「ZUSTAND DES SEINS(存在の状態)ーウエディングドレス」(’08)。
一本一本の黒い糸のつながりと緊張に注意を向けると全体として再生されてくる感情がある。
塩田千春の大きな作品に包まれたときは、より一層それを感じる。
じーっとその場で佇みながらしばらくそのままで居たくなる。
大阪でやってる「塩田千春 つながる私(アイ)」。
ちょっと今回は行けないけど、包まれたいなあ、感じたいなあ。。。
東京でやってくれないかなあ。。。
■第4章【崩壊と再生】東日本大震災とその後の作品群。
今回の展示の中心がここだと思う。
ルーブルの「サモトラケのニケ」の如く出迎えてくれるのが、小谷元彦「サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)」(’22)
高さ6メートル弱。
大きい作品はいい。
聖なるものと世俗とが入り混じった圧倒的な存在感。
勝利の女神ニケ(ナイキ)を大海の向こうから波を切り裂いて降臨させるの感覚には、東日本大震災の復興という文脈においてどうなのか?という良識が立ち上がりかけるのだけれども、そういったぐだぐだとした思考のつけ入る隙を与えない力が、この作品にはある。
とても、いいです。ずっと眺めていられます。
小谷元彦の彫像作品の展覧会をやってくれないかなあ、と強く思う次第です。
弓指寛治「挽歌」(’16)
この作品も6メートル超えの大作
この作品、東日本大震災への鎮魂がテーマかと思ってみていたのだけれども、図録によると自らの母の死と向き合った作品らしい。
実際の苦しみから説得力は生まれる。
大切な一人へのその想いは、2万人を超える犠牲者と残された者たち、一人ひとりが抱えている物語と無理なく重なり合うということだろう。
青木美歌「Her song is floating」(’07)
鴻池朋子「皮緞帳」(’15-16)
震災前の作品だけれども、この空間に配することでより生命力を感じさせる、配置の妙。
全幅24メートルの、世界という名の体内のなかで
カエルも眠る。リスも眠る。蛇も狐も、ぐっすり眠る。
鴻池朋子の紡ぎ出す作品の物語性は、まったく衰えることはない。
被災地と自分の立っている場所が地続きであるという事実を思い知らされた東日本大震災から13年。
未だに言葉として語ることが困難なテーマで、だからこそ言語の底にある体の奥に共鳴させる力をもったアートが果たす役割は大きいのだと思う。
■第5章【「私」の再定義】
描く「私」、描くという「行為」についての探求
とても深いテーマなのだけれど、作品に対する体感としての共鳴に困難さが伴うという難しさがあって、いわゆる「現代アート」といわれるものが本質的に抱える問題なのかもしれない。
面白いね、センスがいいね、
というところに留まらざるを得ない、探求の先に見えたものが伝わらない。
見えること、感じることに閉じていて、結果としてそれが伝わる、というのが芸術だとしても、やはりそれでは寂しすぎる気がするのだ。
そのなかで、あー!と思わせてくれたのがこの作品。
水戸部七絵「DEPTH」(’17)
何十センチも厚塗りされた絵の具が重力に負けて、ついには落下してしまっている。
心を震わせる絵画は、画家が作品に線を引き、絵の具を載せる、その様を心の中でトレースすることで作家の心に映ったものを再生し、さらなる深い感覚を呼び覚ますところがある。
この作品は結果としての絵画ではなく、描くときに作家が感じていたであろう絵の具の重量感やそれが落下したときのエネルギーや衝撃が、そのまま作品となっている。
そういう描くとういうことのリアルタイムの感覚を強制的に再生させる力をもっているがゆえに、時間とか空間とか、そういう枠組みを崩しやすく、泥臭すぎるけれども、ありだなー、と思う。
■第6章【路上に還る】
発見したものを身体を通して再配置する試み。
先の第5章のもやもやに対するひとつの答えが配置される。
鈴木ヒラクの作品が持つリズム感とか、SIDE CORE/EVERYDAY HOLIDAY SQUADの映像の疾走感とか、リアルな感覚というものがもつ伝える力を改めて感じた。
■しかしまあ、お腹いっぱい。
総数230点以上の作品で1960年代から現在までを一望にする試み。
しかも一点一点が強烈な力を発しているものだから、50歳も半ばを過ぎる身にはこたえたけれど、うん、満足まんぞく。
高橋龍太郎さんの情熱・エネルギーには頭が下がります。
これは本当に宝物ですね。
外は爽やかな秋の空が広がっていました。
<2024.11.4記>