こどもの意思の尊重
先日上司から、こども家庭庁からおりてきました、ということで通達があった【障害児支援におけるこどもの意思の尊重・最善の利益の優先考慮の手引き】
一部抜粋
『(こどもが表出する感情や言動について)一見表出が非常に乏しいこどもであっても、こども一人 一人の成育環境、性格、心身の状況、成長・発達の状況、特性等を踏まえ、そのこどもの感情や意思 の表出方法に合わせ、こどもの表出することを傾聴する。
こどもが表明した内容を理解できない場合、職員は、聴き返すことはもとより、図や絵を描いたり人形を用いて遊んだりしながらコミュニケーションを図る等の創意工夫が求められる。そのこどもに一番適したコミュニケーション方法を見つけ、その内容を理解できるまで諦めずに理解しようとすることが重要になる。
「今日はどんな遊びをして楽しむか」など、小さなことであっても、こどもの思いや意見を丁寧に傾聴しながらこどもの意思表示や自己決定を促し続けること、そしてこどもが成功体験などを積み重ねることを通して、自己肯定感や自尊感情、自己効力感や自己責任感などを形成しながら自己実現を図っていけるよう、取り組んでいくことが求められる。
以下、こどもとの信頼関係の構築に関する取組例を示す。
ア、こどもと信頼関係を築くコミュニケーション
●親しみをもって日常の挨拶を交わす。
●こどもと目線を合わせて、表情を読み取りながらコミュニケーションをとる。
●何気ない会話や、眼差しなどの非言語コミュニケーションを通して「大切な存在である」というメッセージを伝え続ける。
●遊びを通して信頼関係が構築されることや、こどもが身体や表情を用いて意思を表出することにつながることを理解し、こどもと一緒に遊びを楽しむ。
●握手をする、肩に手をかけるなど、こどもの状態や年齢に応じたスキンシップをする。
●職員からの働きかけに応答してくれたら、喜んだり、感謝の気持ちを表現したりする。
●こどもの困りごとについて、適切な援助を行い、一緒に問題の解決を図る。
●対人コミュニケーションの楽しさを感じられるよう、こどもの発言に同意したり、笑いやユーモアを交えながら笑顔で明るく関わったりするなど、肯定的な関わりを心がける。
●小さな訴えでもしっかり聞く姿勢を持つなど、こどもと向き合う・寄り添う姿勢や意思を表情と言動・行動で伝えていく。
●こども自身が大変な状況にある時、辛い時などは周囲に助けを求めてよいことや、その場合どのように助けを求めればよいかを教える。
●こどもの欲求、思いや願いを敏感に察知し、その時々の状況やこれまでの経緯を捉えながら、時にはあるがままを温かく受け止め、共感し、また時には励ますなど、こどもと受容的・応答的に関わる。
●職員がこどもとの活動や生活を楽しむ。
●こどもが表出する感情や言動のみを取り上げるのではなく、理由や背景を理解する。
●こどもが意見を表明しても受け止められないと、「言っても仕方がない」となり、意見を表明すること自体を諦めてしまう可能性があるため、どんな些細なことでも、こどもが表明したものを可能な範囲で実現できるよう支援する。』
具体的な支援方法も示されていて、支援者としてだけでなく、保護者としてもとても参考になる内容でした。
だからこそ思ったのは、私は支援者でもあるので、これを目にすることができているけれど、支援者になっていなかったら見る機会がなかったかもしれない、ということ。
そんな暇ないよ、とかそういう情報は必要ないという人もいるだろうし、他のことが優先される状況やそれが必要じゃない時期もあるとは思います。一方ではいろんなこともっと知りたいと思っている状況の人もいるはずで、どのくらいキャッチするかは別として、家族がいろんな情報にもっと触れられる機会があればいいなと思います。
こういうのが示されると、国が障害児を含むこどもの支援において、今どういうところに注目してどういう方向に進んでいるのか、動向もわかります。
内容を読みなから、障害があって自分の意思をうまく伝えられないこどもでは、主に保護者の意向が優先されがちですが、本人の意思を受け取って汲み取るための努力を怠ってはいけないなと思いました。
これは支援者として関わるこどもたちだけでなく、娘に対しても。親だからこそ、きっとこうに違いない、とか、こうしたいはず、という先入観を持ちがちかもしれません。大きな意思決定や選択じゃなくても、日常のささいなことでいうと、「(前から食べたがらないから)〇〇は嫌いで食べない」と思っていたもの、久しぶりに食べさせたらおいしそうに食べたり…、きっとこれで遊びたいだろう、きっとこっちの方が好きだろう、と選択させずに玩具や音楽を決めていたり…。本人の意思を確認するための工夫、きっともっとできることがあるな、と思ったし、本人の意思を尊重する姿勢を忘れてはいけない、と背筋を伸ばしてもらえた気がします。
支援者としても保護者としても、いろんなことが本人の意向でなく私の意向になっていないだろうか、と考えさせられました。