京都国際写真祭を巡る5-やはり自身の世界観を大切にするべきだ-
京都国際写真祭は5/14で閉幕した。全ての会場を巡ることはできなかったが、とても良い刺激を受けることができた。最終回のこの記事では『京都国際写真祭を巡る』シリーズの総括をする。
第一弾で書いたように、当初この写真祭を巡るつもりはなかった。圧倒的なものを見てしまうと、自分が小さい存在に感じ、萎えてしまうのが怖かったからだ。しかし、今回巡ってみて感じたのはこれとは全く逆で、むしろ自分の背中を押された気がした。
これまでシリーズの中で紹介した展示の他にもいくつか巡ったが、どれも共通して言えるのは、写真家の世界観や世界との接点が写真に出ているということである。表現の方法や被写体のスケールは様々あった。コーヒーフレッシュの蓋を被写体とした写真家、身近な風景や肉親を撮った写真家、何日も山に篭り自然を撮影した写真家、京都の伝統ある家の子供を撮った写真家、社会問題を題材にカメラを握った写真家、写真を素材として作品を作った写真家、旅で見た風景や人々を撮影した写真家などなど…
どれも圧倒的であったが、自身が気圧されることはなく、むしろお前はお前の世界で写真を撮れば良いんだよと言われた気がした。何者かに成ろうとして、他の人の世界観を自身の世界観に無理に入れ込む必要はない(自身の世界観にマッチしていれば別だが)。加えて他の人の世界観に気圧される必要もないのだ。
無理に背伸びをしようとすると、身近なものを見失う。自身を取り巻く身近な世界から手をつけていけば良いのではと思った。最近投稿している『帰省概念』もこれを実践しようと取り組んだものだ。自身の生活や興味、疑問などに「写真を撮る」という行為で応える。このスタイルをしばらく続けていこうと思う。
加えて、一枚の写真には現れない背景の部分も大事にしようと思った。これも展示を巡って感じたのだが、写真を撮るに至った経緯や撮っている時の心情など言葉で説明されて初めて見える部分がとても多かった。その背景を説明するか否かは写真家に、それを知るか知らないかは鑑賞者に委ねられるが、そこに宝があることに間違いはない。むしろこの背景が作品の独創性を強化している。
「今」自分の手の届く範囲で写真を撮る。これを大切にしていきたい。