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左派はかつての右派の「スタートライン」に立てるか

都知事選が終わっても、その感想戦の熱は冷めない。とりわけ、その衝撃の結末の主人公となった蓮舫陣営の周囲はさながら真夏の夜のキャンプファイヤーの様相を呈している。そこに批判の火を投げ入れているのは、爆ぜる炎と敗者の悲鳴を肴によく冷えたビールを楽しむ保守陣営の人間だけでなく、苦虫を噛み潰したリベラル側の面々の姿もあった。例えば、こんな具合にかなり腰の入った一発も叩きつけられている。

いかがだろうか。立民支持層なら全員読んだほうがいいテキストである。共産支持層はまあ、うん。
筆者もぐうの音も出ない正論だと思う。それと同時に、これを読んでいて少し「懐かしさ」も感じることができた。古巣の臭いとでも言ったらいいのか。例えば以下のような部分だ。

蓮舫氏の勝利ではなく、自分たちのイデオロギーの主張を優先する支持者が一定数おり、そういったダメな支援者を批判できない空気。そんな状況が続けば無党派層はこれからも離れ続け、リベラル派はさらに孤立化していくでしょう。

自分たちと少しでも意見が違う人たちを「敵」と認識し、「自分たちVS敵」という世界観でしか世の中を見ないから、小池支持が多い=都民はレイシストとなってしまうのです。しかしそれは論理の飛躍であり陰謀論です。

歯切れが良くてわかりやすいラディカルな意見に簡単に流されず、改めて左派という基盤を整えていく、そうしなければマイナスイメージを覆せず、本当に壊滅してしまうでしょう。

これらの何が「懐かしい」って?それはここに描写される蓮舫支持者の姿が在特会全盛時代のネトウヨと同じだからだ。試しに当時の保守界隈の状況を以下に列挙してみよう。

①先鋭的なグループがその行動力と発言力で主導権を握っている
②運動本来の目的(賛同者の獲得による勢力拡大)よりも思想への忠誠合戦が優先される
③1ミリでもイシューの無謬性にケチをつけると在日認定
④先鋭的グループは運動のエンジンである一方その独善性で味方にすべき「外」の世界から嫌われ、右派全体のイメージを毀損している
⑤しかし①〜③の問題により先鋭的グループを批判できない空気があり、中道グループは力を持つことができない

いかがだろうか。どっちがよりマシなクソかは勝手に議論すればいいが両方似たようなクソであることに議論の余地はないだろう。
しかし、ここで重要なのは今の左派が過去の右派と似ているということは、今の右派が乗り越えてきたものの中に左派が見るべきものがあるのではないか、ということだ。何を偉そうに、お前らネトウヨは今もネトウヨに過ぎない、なんて声が聞こえて来そうだが確実に言えることは2つある。
まず少なくとも保守界隈は在特会とその周辺をメインストリームから切っており、これらは「限界保守」という箱の中で、もはや保守・右派に分類される勢力を牽引するような往年の力を失っていること。そして当時アングラな存在だった「ネトウヨ」の主張のうち多くのもの(特に外交・安全保障分野)が、一定の条件付きで幅広い層に浸透し、世論を二分するものの片方にまで成長していることだ。
翻って左派はあろうことか社会的に地位も権威も備えた学者や文化人が積極的に「限界左翼」をやって未だに主導権を握っているようだし、自民党がネットサポーターズクラブなどで「ネトウヨ」勢力を利用しながらその核心的要求と目されたもののうち観念的で実利が薄いイシューについてはのらりくらりとはぐらしてきたのに対し、左派野党がそうしたコントロールをしている印象は薄い。そのせいもあって掲げてきた「正義」にも多くの疑問が投げかけられ、言論空間での地位も後退傾向にある。
では何が地下の存在に過ぎなかった右派をここまで押し上げたのか。表面的なことを言えばロジックと現実の重視である。勿論その点において右派だってそんなにきちんとしている訳ではないが、論理を逸脱したお気持ちには同じ保守陣営の別派閥などから突っ込みが飛んでくるし、それにロジックと現実に基づいた反論ができなければ馬鹿にされる。そうした中で繰り返された議論はやがて論敵を打ち負かすためのまとまった解や、逆にある種の負けパターンを定着させていく。こうして蓄積したものが或いは右派内の論理やナラティブを強化し、また一般人がその一部に左派の「ただしさ」を上回る説得性を認めたからここまで形勢が変化したと言える。
では、そもそもどうしてこんな文化が右派に定着したかと言えば、最も根本的な理由は挑戦者だったからだ。実行できているかはともかくとして「現実とロジックを重視しようという意識」を広く共有できたのは「感情に訴える自明の正義」も「社会的に認められた権威」も持ち合わせず、現状を打開するには現実とロジックという開かれた武器に頼るしかなかったからである。声がでかくて横暴な力ある馬鹿を袋叩きに出来たのも、そうしないと詰むという弱さ故の危機感があったからだ。
だから、冒頭の記事の執筆者が訴えている危機感には懐かしさと共感を感じざるを得ない。今の左派とかつての右派は同じになりつつある。いや同じというより、似ているがより困難と言った方がいいだろうか。何しろ左派の「限界」には右派のそれとは比べ物にならない程の権威や組織構造があるし、右派が最初から挑戦者だったのに対し、左派はまず自分の立場と、自分のせいでそこに落ちたことを理解する必要がある。今回の惨敗はいい機会になるはずだ。
勘違いしないで欲しいんだが、筆者は左派の壊滅よりも変化を望んでいる。政府・与党の逆張りしかできず理想の空論を無責任にがなる左派は要らないが、現実的なオルタナティブを提案できる左派は必要だ。そうでないと、今度はいずれこっちが感情的な正義に凝り固まった馬鹿に成り下る番が来るだろう。
そしてそもそも、今の「ネトウヨ」たちはリベラル勢力を揶揄する時に「俺たちの方が『リベラル』なんじゃねwww」みたいな台詞を吐く程度には本来のリベラルな価値観には肯定的だ。俺たちはそもそも、今や俺たちに極左の老害呼ばわりされている世代の勝利によって彼らが憧れてきた規範を常識として育ってきた言わばリベラルネイティブ世代なのである。左派が存亡を賭け、現実的な挑戦者としての姿を模索していけば中間層、無党派層との合意形成は十分にできるはずだ。かつて右派がそうしてきたように。

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