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【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第9話

 スカイラブ宇宙センターに、陽気な声が朝から響き渡る。眠気覚ましにはもってこいのソプラノ声が「ハロー」と周囲の視線を集めた。

『Here’s exactly what NNSA Training is like for astronauts!』  

 インディゴブルーのパーカーを着た女性が、観客達に宇宙飛行士達の紹介を始める。とは言っても、彼女は宇宙飛行士達の友人じゃない。  
 7月4日。倭を含めた8名の宇宙飛行士たちは、翌年のロケット搭乗に向けて着々と準備を押し進めていた。月面に向かうにはまだ2年かかる。2020年春にISSでの6か月間の長期宇宙滞在を予定している倭は、今最もアメリカで注目されている大型ルーキーだった。

『宇宙で電球を一つ変える為に、さて、宇宙飛行士は何人必要ですか?』  

 進行役の女性の質問に、賑やかな声がいくつも重なる。  
 本日はアメリカ独立記念日。イーストリバーでは花火が打ち上がり、レストランなどの店は早めに閉店する。午前11時、テキサス州ヒューストンでは、特別なイベントが開催されていた。
 明日の早朝から、シミュレーション訓練で水深12mまで潜ってロボットアームの動きを訓練する予定の倭が、参加者達に向かってにこやかに手を挙げた。 一人の少年が、興奮して拳を突き上げる。

「Hey! My HERO!!」
『ヤマト宇宙飛行士はあなたのものではありませんよ』  

 司会者の台詞にどっと会場が湧いて、子供達が次々に手を挙げる。倭はすべてのリクエストに応えているようで、会場の熱がおさまらない。

「ヘイ、トキワ。ローバーの動作確認は済んだかい」

 カールが私の隣へやってきて、手元を覗き込んでくる。

「カール。……まあ、オンサイトの実用化検討会までには、なんとか修正できそうだと思うけれど」
「そりゃよかった。向こうでキャシーがキレてなかったかい」
「エラーが出ると見込んで、修正用のプログラムも組み込んであるから……でも、本番当日まで何が起こるか分からないかな」
「それはどんなことだってそうさ」

 私はキャシーとの通話を切ったPHSを、ポロシャツの胸ポケットに仕舞う。

「プールをもう一度見ておくかい?」
「いや、もう大丈夫。……それにしても、賑やかだね」

 カールは交流会の会場を見て、「ヤマトがいるからね」と私の肩に手を置いた。   
 火星探査用のローバーの実験でヒューストンに来ていた私は、訓練施設の一部を休憩中のカールに付き合ってもらい見学して回っていた。火星探査用ローバー『オンサイト』は、ユニオン・マイクロ社との共同開発で実現した次世代型のローバーで、VR映像を使用して火星探査を実現させる目標を掲げている。

「実物を前にしたらびっくりしたんじゃないかい。750億ドル以上かけて建設したISSの模型が、そのままプールの底にあるなんてさ」

 カールが鼻の下を指で擦る。私は宇宙開発最前線の施設の規模に、「ほんとうに」と頷く。

「火星用ローバーのオペレーター訓練も、2名の宇宙飛行士が立ち会ってくれるみたいだけれど。彼等が過労で倒れないか、ちょっと心配かな」  

 136kgの宇宙服を纏って、宇宙飛行士達は深さ12mのプールの底に沈めた疑似ISSで宇宙遊泳の訓練を行う。宇宙ステーションのメンテナンス作業を行うための船外活動――通称〝EVA〟は過酷なシミュレーションで有名だ。  
 小さなボルトやネジを開け閉めするだけでも、宇宙飛行士達はグローブの中で数千回拳を握り締めなければならない。果てのない反復訓練が、EVAの本質的な辛さだ。だが、実際の宇宙空間はそれよりも熾烈な環境であると彼等は心得ている。

「バッテリーのアップグレード作業もヤマトのミッションだ。彼には特に気合いを入れて頑張ってもらわないとね」  

 ファンに取り囲まれた倭を見たカールの言葉には、尊敬の念が込められていた。数年前から天道倭のファンになったということらしいが、ヒューストンに来てからというもの彼とよく一緒にいるところを見かける。「ジャパニーズサムライはベリークール」ということらしいが、倭の存在はアメリカ人からすると『激シブ』らしい。  
 一般公開されている宇宙飛行士訓練施設の隅から、盛大な拍手が起こる。倭達がいるところだ。カールが口笛を吹く。

「ワオ! 彼女ラッキーガールだよ。ヤマトにキスなんかしてる。ヤマトはサムライだから、そういうのは皆遠慮しているのにな」
「へ、へえ。そういう感じなんだね」
「そういう感じ?」
「い、いや。なんでも……」
「それよりトキワはどうなんだ」
「どうって?」
「良い彼はいないのかい。ヤマトと同世代だろう?」  

 カールは5歳年上で、ここでは兄のような存在だ。面倒見の良いカールが私に頻繁に声を掛けてくれるので、同僚たちも少しずつだが挨拶を交わしてくれるようになった。  
 そろそろブレイクタイムにしよう、という合図の缶コーヒーが作業服のポケットから現れ、私は苦笑しながら彼と休憩室へ入った。

「で、誰なんだい?」

 カールがプルタブに指を引っ掛けながら口の端を上げる。

「誰?」
「キャシーから聞くかぎりでは、君にはすでにいい人がいるみたいだけれど」
「ブッ……!」  

 口の端から吹いたコーヒーをカールが鮮やかに避ける。白いテーブルを汚してしまって、慌ててキッチンペーパーで拭い取る。私は「勘弁してくれよ」と左手の甲で口元を拭った。

「そんなに過剰に反応するなんて思わなかったよ。普段はクールなのに、おもしろいなあ」
「面白くなんてないよ……。いい人というより、一方的に憧れている人がいるんだ。ファン1000人の中の1人だよ」  

 カールはその言葉にとても嬉しそうな顔をした。パチンと小気味よく指を鳴らす。

「へえ! それじゃあ僕にとってのヤマトみたいなものかい?」
「ああ、まあ、そんな感じかな……」  

 というより、まさしく相手はその天道倭なのだが。
 休憩室の外の廊下が賑やかになり、「イベントが終わったのかな」とカールが身体を斜めに倒す。だが、すりガラスを填めたドアの先ではまだ歓声が上がっている。

「NNSAも資金援助のスポンサー作りに苦戦しているというから、ヤマトは組織にとってもヒーローなのかも知れないね」

 そう言って、カールは放射状に剃り込みを入れた側頭部を手で撫でた。困った時に時々見せる仕草だ。

「今度、売り子でもすればいいのにね。グッズが完売しちゃうかもな~」
「労働基準法に違反するよ……。彼はただでさえ働き過ぎているから」
「ハハハ! そうだ、知っているかい? 今度土産売り場で、3Dプリンタで作ったEARO2のストラップを販売するらしいよ。サンプルを見たけど、なかなかだった。スペースインダストリー社の躍進劇は世界に革命を起こしそうだね」
「3Dプリンター……たしか、EARO2は第1段液体燃料エンジンとタンクを逆噴射で回収させるって」
「ああ。もしかすると、2020年には第2段部分まで回収できるようになるかもね。ロケット開発は、いよいよ「低コスト・再利用化」の時代に突入したよ」
「低コスト化か……」

 私はコーヒーを噛むようにして飲んでから、天井を見上げる。
 従来型と呼ばれる21世紀の主流大型ロケットは「使い捨てロケット」と呼ばれ、一度のみしか実使用できないかわりに、信頼性を担保したまま開発費・製造費のコストを抑えることができると見込まれてきた。
 一方で、今回のスペースインダストリー社のEARO2は、メインエンジンである第1段エンジンとタンクを逆噴射で回収し、宇宙まで到達したその他の機体部分は軌道から外れた後に「ごみ」として大気圏で処理をする。回収された第1段エンジンやタンクは摩耗度や寿命を点検後、数十回再使用される予定だ。

 ほんの数年前まで、RLVと呼ばれるこの再利用型ロケットは、技術革新がアイデアに追いつかず低コスト化の実現が困難と見なされてきた。再利用型EARO2が低コスト化を実現させるための鍵は、「再使用部品の安全性の担保と、大気圏再突入を実現させる耐熱材の開発」であった。
 カールは私の言葉に、「そのとおり」とテーブルを指でタップする。

「NNSAは再使用型スペースシャトルで低コスト化を図ってきたけど、オービタ部分以外は結局使い捨てだし、最終的には再整備費用に膨大なコストがかかっていただろ。トップの甘い考えのせいで凄惨な事故も何度も起きた。民間企業の衛星打ち上げ需要が高まって、スペースインダストリー社の打ち上げサービスはいまや世界シェア6割だ。それに加えて、これだよ」

 これ、と言ってカールが手渡してきたのは、黒色の欠片だった。私は受け取ったその欠片を、手の平の上に乗せる。

「軽い」
「だろ。炭素繊維の素材だよ。軽量で、耐熱性に優れているこの技術を、スペースインダストリー社はNNSAの支援を受けて開発したらしい」
「ということは、スペースシャトルを飛ばす時代は終わり、帰還カプセルを頭にくっつけたEARO3が台頭してくると」
「そういうことだな」

 カールが、すでに飲み干した缶コーヒーをテーブルの上に置く。

「帰還カプセルまで再利用可能になれば、いよいよ有人宇宙ロケットは価格戦争の時代になる。EARO2は、従来コストから3割以上の削減を達成したらしいからな。EARO3がいつ誕生するのかは分からないけど、そう遠くない未来なのはたしかさ。今後50年で民間から月へ行くロケットが作れるようになるだろうね」
「いやな時代になったなぁ……」

 向かいにいるカールが目を丸くし、すぐに破顔する。

「あっはっはっは! トキワは技術進歩の理由がエコじゃなくて、覇権争いなのがつまらないんだよな」
「エコじゃなくてもいいんだけれど、増え続けるスペースデブリの問題は誰も気にしないんだなと思って……NJPLでも、慈善事業は余所でやれって上司に言われたよ」
「まあ、少なくとも地球の軌道上は権利と金が遊弋しているだろうから。トキワはロマンチストだよな。キャシーが君を気に入るはずだよ」
「ロマン……これって、ロマンチストなのかなぁ」
「はは。ロマンといえば、太陽から海王星までをチェーンで繋いだ面白いストラップも売店で売るらしいよ。欲張りなベイビーが喜びそうな、クレイジーなやつだって。キャシーに買ってこいって言われているんだった。トキワは買うの?」
「太陽系惑星を、一列に……?」 
 
 私はふと、15歳の頃から密かに信じ続けていた惑星直列の事を思い出した。プラネタリウムを投影してくれていた佐藤さんを思い出しながら、カールの陽気な横顔を見つめる。28歳になってこんなことを本気で尋ねれば、相手をびっくりさせるかもしれない。カールの表情を窺いながら、「サンタと同じ類の話なんだけれどね」と、何でもないことのように話を続ける。

「そういえば、惑星直列はいつ起こるかなー……なんて。子供の頃から待っているんだけれど」
「What? 惑星直列?」  

 カールは器用に片眉だけを跳ね、「なんだい、それ」と首を傾げた。

「公転の周期がばらばらだから、本物の惑星が直列するのは無理だよ。ゲームか何かの話かい?」
「ゲ、ゲームは普段やらないかな……。そう、やっぱり惑星直列は起こらないんだね。いや、冗談かも知れないって最初から分かっていたけど。そう、まあ……そうだね、たしかにゲームの話だったかもしれない。うん。あはは」  

 カールは「ワオ……」と言い、それからテーブルを迂回して私の肩を優しく抱いた。冗談を言って笑わせようとコミカルに話しかけてくる彼に、私は「センキュー」と笑う。カールは、国境も人種も越えて親友や母のような顔をして「あのさ」と言った。

「トキワ、僕はね、最近よく悪夢を見るんだよ」
「悪夢?」
「そうさ。宇宙開発の最前線にいると、それが僕にとって必要なプロセスかもしれないって思えてくる。最悪の結果を想定して、最善のチャレンジをする。人間という動物は、きっと本能的にそういう「モード」が備わっているんだろうと思うんだ。これって、伝わるかな?」
「ああ、うん……なんとなく。分かる気がするよ」  

 戸惑いながら頷く私に、カールは缶コーヒーにプリントされたCの字を指でなぞりながら続けた。

「宇宙飛行士は4年に一度、5千~2万人の優秀な候補者の中からたった数人が選ばれるだろう? EVA管制官の立場だけど、僕は悪夢の中で月を夢見ている。すでにNNSAにいて薔薇色の人生なのに、僕は月面を諦めきれないでいるんだ。飛び立ったら最後、生きるも死ぬも自分の手を離れたあの刺激的な世界に、ね」
 
 NNSAの委員会は一週間ほどの期間を設けて、120人ほどに絞られた候補者から40人へ、さらに面接とチームビルディング演習、健康診断をパスした数人だけを宇宙飛行士と認める。そうして選ばれた合格者たちは、飛行訓練から動物の解剖技術、軍事訓練を含んだサバイバルプログラムまで常時250種の実験やミッションを積み、2年間の訓練プログラムを経験することになる。

「7年待っても、10年待っても、もしその後に自分にチャンスが訪れなかったら……地上にいたって宇宙飛行士は偉大だよ。心から尊敬している。でも人生は一回きりしかない。好奇心ってやつは厄介なもんさ。悲劇と共に進歩してきた宇宙開発で最も死に近い花形に憧れなんて抱いてしまう。時々、月旅行を夢見る一般人と話をすると、なんて愚かなんだって思う時があるんだよ。僕と同じで、君もチャレンジャーだねって」  

 カールは「人生の岐路に立っている」と言った。だが、恐らくこのスカイラブ宇宙センターにいる多くの人間が、常に岐路に立ち続けているのだろう。理想と現実、絶望と期待、いろんなものが入り混じってロケットは地上から飛び立ってゆく。  
 1969年から半世紀後の未来いま、この時代に生きる我々に引き継がれる苦難のバトンには多種多様な色と味がある。暗く、明るく、酸く、甘く、苦く、そして時折味のしない夢をみる。

「おっと、そろそろお仕事に戻る時間だな。トキワ、午後からの会議はちょっと頭が痛くなりそうな予感だぞ。多分、NJPLにとってもな」
「Yes, Sir……オンサイトの実用化検討会がまた延期になるっていうのだけはやめてほしいね」  

 冗談で笑みを誘おうとしたが、私も会議への一抹の不安が拭えず、下手な愛想笑いをカールに向けてしまった。NNSAの予算会議に、今日から新しい責任者が壇上に立つのだ。  
 ノートンの手紙を読んでから、アポロ計画以後に続いた宇宙飛行士の事故のことが何度も頭を過っていた。技術開発には金がいる。NNSAが誕生した1960年台に爆発的に宇宙開発が躍進したのも、莫大な資金投入のおかげだった。
 そして、技術とはひとりの天才の脳から魔法のようにあらわれるものではない。戦争にも、政治にも利用されるほどの大きな力と魅力を持つ宇宙開発には、数多の天才が少ない資金を巡って山ほどのアイデアを出す。  
 ここ(宇宙開発最前線)は複雑な匂いに満ちた環境だ。何より尊いはずの人の命が、どこか遠い場所へと追いやられている気がしてならない。
 カールは「じゃあ、また後で」と手を振って、重い足取りで休憩室を出て行った。

「――糸?」  

 カールと入れ替わりで入って来たのは、さきほどまで多くのファンに取り囲まれていた倭だった。

「中、いいか?」  

 鷲色の瞳には濃い疲労の色が浮かんでいる。私は「もちろん、どうぞ」と頷く。変に声が上擦っていなかったか、頭の中でぐるぐると考えながらコーヒーを一口飲み込む。

「イベント、本当にお疲れさ――……」  

 言い終える途中で、ドンと肩がぶつかる。広い室内でぶつかることのほうが珍しい。だが、倭は敢えて私の肩に接触してから横を通り過ぎた。

「みんなに期待されるのは構わないんだよ。……ちょっと、隣いいか」  

 倭は私の返事を待たず部屋にひとつしかないベンチに横になった。隣と言われても、休憩室は立ち飲みスタイルのインテリアで、洒落たデザインに倣って私もずっと立っている。

「体調でも悪いの……?」  

 マリアの家での一件以来、倭との距離感がうまく図れないでいる……とはいえ、仕事中に接触するのは彼が稀に話し掛けてきた時だけだ。ティーンエイジャーでもない、職場では私的な事は抜きにして交友すればいいだけだ。そんな私の些細な悩みよりも、今は相手の痩せた背が気になった。

「寝るなら仮眠室を使ったほうがいいんじゃ……」
「……あのさ、動画配信が始まったんだ」
「動画、配信?」
「事後報告だったよ。水深12mで必死にボルトを締めていたらカメラが目の前にあった。危うくネジを落っことすところだったよ……そういうハプニングを狙っていたのかも知れないけど」  

 小さな声だった。それは、倭のものとは思えないほど弱弱しかった。
 EVAは、実際の宇宙空間を想定して休憩なしでとり行われる。宇宙飛行士はおむつを装着し、すべての動きはスローモーション化され、ただでさえ体力も精神力も消耗する数時間だ。指の関節がすり減る一方、ひとつひとつの動きに対し無線越しに声を出し、確認をしながら作業を進めなければならない。  
 宇宙飛行士の動作を確認するカメラは確かにある。だが、何か嫌な予感がする。私はベンチに近付いた。

「動画配信……? 訓練の記録用のものじゃなく?」
「ああ。らしくもなく手が震えそうになったよ。世界中の人に見られていると錯覚して」  

 ゆっくりと倭が頭を起こす。そのまま手を着いて上体を上げ、人一人分のスペースを空けた。私は缶コーヒーを片手に隣に腰を下ろした。自然と、13年前の彼の親友に戻っていた。

「何故突然そんなことを」
「さあ……昨日は水圧で頭が痛くて。三半規管がちょっと弱くてね、ほとんど集中出来なかった。管制官に怒られたよ。なんて言っていたかも覚えてないけどね」  

 額を押さえて俯く横顔は、疲れた笑みを浮かべていた。倭が優秀なのは皆が分かっている。三半規管のことについては初耳だったが、『彼なら出来る』という絶対的な信頼が皆の心の中にあるのだ。  
 倭は期待高いルーキーであり、歴史的快挙を果たすスーパースターの金の卵だ。プレッシャーを適度なモチベーションに変える事ができる彼だ、致命的な負担を抱えたことはこれまで無かったのだろう。

「でも、さすがに焦ったよ。水の中で一瞬何も聞こえなくなった」  

 私は150ml缶をベンチの空いたスペースに置いた。感情が高ぶると握力を見失うと最近気付いた。

「カールに相談してみよう」

 私は、そう口にしていた。普段はもっと頭の中で次に何を話すかを順序立ててから喋り始めるのに、今の私は衝動的に口走っていた。

「え?」
「EVAは繊細な訓練だよ。こんなことを実際にISSに行くまで続けたら……あなたは、ヒーローとしての役割を求められ過ぎているような気がする。倭の人柄も含めて、多くの人に応援されているのは分かるんだけれど……カールには午後の会議でまた会うから。早めに教えてくれてよかった。新しい委員長もちょうど来るから、カールを通して何とかしてもらえないか言ってもらおう」

 倭は、饒舌な私を見ながら一瞬呆気にとられたような顔をした。それからすぐに眉をハの字に下げて笑う。

「……陸に上がって、管制官に言われたんだ」
「なにを……?」
「ISSでは、45分ごとに地球の日没と日の出の影響受けるって。カメラのフラッシュを浴びながら、オーブンミトンで手術の練習が出来るか?ってさ。予行練習だとか何とか言われたけど、俺は無理だとだけ答えておいた」  

 それ、くれる?――呟いた倭が、缶コーヒーに手を伸ばしてくる。とっくに温くなったそれを私はすぐに手渡した。上下する喉仏が一瞬止まったように見え、それが悪夢で見る『死』を連想させて、私は白い壁に視線を移した。
 非常に重要なハードウェアを扱う倭は、実際のISSの任務では足元400km下の地球も考慮して訓練に挑まなくてはならない。ISSミッションでは地球の周りを秒速7.9km、時速にして2万8千kmのスピードで軌道上を飛行している現場で任務を果たすことになる。
 45分ごとの強烈な日差しと暗闇が集中力を奪うことは分かる、だが、当事者に予告なく実験的な作業で負担を強い、訓練中に不慮の事故が起こるかも知れないというリスクは考慮されなかったのだろうか。

「……プログラム・アラーム、1202」  

 アポロ計画で無名の女性プログラマーがアームストロングを救ったコードが、ぼそりと聞こえた。倭が群青色の床を見つめて呟く。

「『宇宙飛行士はミスをしない』、1969年にアポロ11号が地上を飛び立った瞬間でさえ、多くの関係者がそう信じていた……だが、実際に操作ミスは起こっただろ?」
「倭、」 
「今になってようやく思うんだよ、機械はエラーを起こす、だが、人もエラーを起こすんだよなって」  

 目が合って、その充血のひどさにこちらの頬が引き攣る。私の予想をはるかに超えて、倭は今困難の中にいる。私は彼の肩を掴んだ。

「……会議では、たぶんローバーの話も出て、少しだけ私も話す時間がある。売店のストラップといい、やりすぎは良くないんじゃないかっておじさん達に言ってくるよ」
「ストラップ……? いや、いいよ。糸に迷惑を掛けたいわけじゃないから。話を聞いてもらえただけでなんか元気がでたよ。ありがとう。今はSNSの時代だろ。宇宙飛行士っていう存在をより身近に感じてもらうために組織も四苦八苦してるんだろうと思って頑張るよ。弱音を吐いて悪かった」
「大丈夫、喋るなと言われても話してくるから。プレゼンは苦手だけど、ここに来た当初から悪目立ちしていたからね。みんな聞き入るよ。あの態度がでかい日本人が何か言いだしたぞって注目してくれるはず」
「なんだ、それ。……糸らしくないこと言ってさ」

 倭がようやく笑ってくれて、私は強張った頬を叱咤してなんとか満面の笑みを浮かべた。
 NNSAに来れば毎夜見る悪夢も自信と共に消えてゆく――そう思ってここ(アメリカ)まで来たが、今目の前にいるのは見たこともないほど弱った倭だ。

「ああ、タイムリミットだ。まったく休憩時間もあったもんじゃないね」  

 倭は「午後からトレーニングがあるんだ」と充血した目を伏せた。長い睫毛を見つめながら、私は、ああ、とか、そう、とか適当な相槌を打ちながら頭の中をフル回転させていた。  
 ベンチに座ったままの倭を置いて、立ち上がる。

「GB……最初聞いた時は、なんだそれって思ったけど。なんか似たようなあだ名を缶サット甲子園の時に言われてたんだった……番狂わせ、とか、そういう意味の……やっぱり、私の役回りはこうなんだって神様が言っているのかな」
「糸?」
「私も、もっと強くならなくちゃいけない」  

 先に休憩室を出ようとする私を、倭が「もう行くのか」と引き留めてくる。
 私は右手を見下ろした。まだ何も掴んでいない手で、今やれることがあるとするならば。

「トレーニング、怪我をしないようにね」  

 私はポロシャツの胸元を手で握り締め、休憩室を出た。心臓が大きく高鳴っていた。映画の主人公のように格好良く去れたわけじゃない。不安のせいで心臓が震えていたのだ。足元に伸びる影と同じで、悪夢が正夢になって現実に現れるのではないかと怯えている。  
 施設の中を大股で歩きながら、甲高い警報音が「ヘルメットの中」に響き渡る。自分の身に起こったことではないそれが、頭の中で再生される。
 アームストロングの『1202』と動いた唇、アポロ11号の司令船から切り離された月着陸船の無言のエンジン音、真空の闇の中で見えたわずか330m先の月面のクレーター、それが白黒映画のごとく生生しく脳裏に過った。  
 アポロ計画で、アームストロングが乗っていた月着陸船イーグルは、残り8%の燃料で「静かの海基地」に無事着陸した。トラブルを救ったのは無名の技術者だった。当時、多くの関係者が軽視していた『宇宙飛行士はミスをしない』という盲信が、過去のあの時、再起動システム〝プログラム・アラーム1202〟をイーグルに搭載させる未来を奪っていたなら。  
 運命はあみだくじに過ぎない。不幸の確率は、予告なく巡ってくる。 背筋がぶるりと震えた。

「人前でのスピーチをもっと勉強しておくべきだったかな……」

 1969年7月20日、ヒューストン現地時間15時06分。『1202』のアラートが鳴った。  
 NNSAは失敗と悲劇を経て、確実に前進し続けている。次に月へ挑戦するのは2020年、リスクは1969年時より確実に減っていなければならない。見切り発車さえしなければ、人類は安全に月へ行ける。必ず、そうであるはずなのだ。



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