【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第11話
ロサンゼルスに戻り、NJPLの女子寮に辿り着くとキャシーが待っていた。
キャシーは何も言わずに私をハグした。紅茶の感想を言う前に、飲む暇さえ無かった事を帰って来てから思い出した。重い足取りで職場に行くと、奇跡的にデスクは残されていて、椅子に上着をかける。ノートパソコンにLANケーブルを繋ぐと、刺激的なシナモンの香りが近付いた。
「災難だったね、トキワ」
「ああ、リアン……」
インド人の同僚のリアンだった。インド宇宙航空研究機構(ISRA)の事務方からNNSAへと転職した、天才肌の技術者だ。
「予定より4カ月も早く戻って来ちゃったよ……」
「そうみたいね」
彼女は忖度なくはっきりと物を言う。そういうところに信頼を置いている。
「でもデスクが残っていてよかった。クビを覚悟していたから……」
私がジョーク混じりに苦笑すると、彼女は真面目な表情で首を左右に振った。
「イマジネーションの相違よ。人が想像できるものはすべて実現できるもの。オンサイトの開発は数年後の惑星探査に必ず役立つものだよ。VR技術が進歩すれば、実用化なんてすぐよ。ソフトウェアの開発は順調なのだし。気にすることはないわ」
「課題は日々増えていくけれど……リアンの言うとおりだね。手探りでもやるしかなさそうだ」
「トキワ、本当はロケットを作りたいんでしょう」
「え、」
「ふふ、きっとローバーより刺激的よ。生きた人間を乗せるんだからね」
私は何も答えずリアンを見つめる。
「その時はわたしにも声を掛けてね。わたしは楽しいところに行きたいから」
有能な同僚から肩を叩かれ、私は「ありがとう」と返した。そうなればよいと思っているが、今はあらゆる自信を喪失している。
リアンが去ってから、パソコンのデスクトップ画面に『共通管理カレンダー』を表示させた。NNSAに所属するすべてのスタッフのスケジュールが確認できるアプリだ。自己管理用のシステムの為、不真面目な者はほとんど空白のまま更新されていない。
『YAMATO_TENDOU』の今日のスケジュールをチェックしながら、マウスを握る手は震えた。
「EVAなのね」
「キャシー……午前はテストルームじゃなかったの」
「今日のテストは中止になったわ。というか、U・M社からオンサイトが返ってこないし」
キャシーが隣で画面を覗き込んでいた。手元には、苦過ぎるコーヒー入りのカップが握られている。「7月16日」をクリックしている事を示す電子カレンダーの赤い点滅を見ながら、キャシーは鼻を鳴らした。
「動画配信、見たわよ」
「……うん」
「昨日の夜で300万回くらい再生されていたわね。ヘルメット越しのテンドウは辛そうだったけど、彼のことが好きな女達は愛している男が苦しんでいる姿に興奮するサドらしいわね。ついでに、我が組織の上層部も」
その表情が怒りに歪んでいた。私はキャシーを午前休暇の同僚の席に座らせ、「あまり大きな声では言えないんだ」と小声で囁く。
「なにが?」
「組織のやり方を非難することをだよ。キャシーはただでさえ声が大きいんだから、もう少し気をつけて……」
「どうして言えないの? アイドルみたいに彼をスーパースターに囃し立てるのはいいけれど、どう見たって本人に限界がきてるじゃない。今日の訓練でもカメラを回すようなら、私がコンプライアンス室にコールしてやるわ」
「……今のNNSAは、1900年代に戻っているような気がする。おかしいことを、おかしいと言えない空気というか」
「どういうことよ」
「倭のことも対岸の火事だと思って皆遠巻きに眺めている。中にはいい気味だと思っている人もいるんじゃないのかな。いや、ごめん、今のは性格が悪かった」
「いいえ、イトが言いたいことはなんとなく分かったわ」
デスクの半数は空席状態だった。別室で作業をしている職員が多い為だ。私は周りを確認し、頭を低くしながらキャシーに懇願した。
「キャシー、知恵を貸してほしい。EVA管制室にはカールがいるけれど、もっと上が撮影を許可しているはずなんだ。……君やカール、倭にも迷惑を掛けずに事態を改善できる策があれば、私はここをクビになってもそれを実行したい」
「迷惑を掛けずに? テンドウにも?」
キャシーが片側の眉だけを九の字に曲げる。
「だって、倭は月面着陸計画の宇宙飛行士に選ばれているのに、ここで彼の心証を悪くするようなことは」
「自分さえ犠牲になれば、あのテンドウを守れるって、そう言いたいの?」
「そ、そういうわけじゃ」
キャシーはエメラルドグリーンの瞳に少しだけブルーを揺らめかせ、私を見つめた。机に手をついて、椅子から立ち上がる。
「キャシー?」
「イト、こっちへ来て」
赤毛が舞って、くるりと背を向けられる。
「いや、話はここでも……」
「いいから」
ゴールデン・レコードのレプリカが展示された廊下を抜け、連れて行かれたのは第三資料室だった。いくつもの組み立て棚が等間隔で設置され、天井からは埃の被った白熱灯が釣り下がっている。薄暗い部屋の中で、キャシーは一番奥に仕舞われていた一冊の黒いファイルを手に取った。
私にも見覚えがある重いファイルだった。それどころか、何度も中を確認しに訪れた苦い思い出がある。
「キャシー、それは」
「……イトがアメリカに来てから最初に出したアイデアだったわね。あなたはスペースデブリの事を特に気にしていたから、再利用可能なロケットにデブリ回収システムを搭載させる案は斬新であなたらしいと思った。それを気に入らない人間が、ブラックリストに乗せちゃったみたいだけれど」
黒いファイルの中に入っているのは、過去に「厳重注意」を受けた設計図や発案資料たちだ。多くの技術者達は、NNSA有人宇宙飛行センターのVIPルームで固唾を飲んでスペースシャトルの行方を見守る事を夢見ながら、その夢に敗れてきた。宇宙を目指す椅子は限られている。
埃が舞う資料室の隅で、私は眉間を押さえた。
「私はいつも空回りしてばかりだね……」
「ちがうわ」
キャシーがすぐに反論する。
「この国じゃ図々しく声を上げていかないとチャンスなんて巡ってこないわ。今はオンサイトの開発優先だけど、ロケット開発に携わりたいならいずれ上司に言うべきよ」
「それはできないよ」
「なぜ?」
「2年後の月面着陸計画のロケット候補、EAROを再利用したロケットがほぼ確定しているって聞いた……ロケット開発は、低コスト化を競い合うようになる。今じゃ飛行機を作るよりも安い」
「そうね。再利用回数が数十~百に上がれば、低価な宇宙輸送としてEAROがスタンダードになる日も近いかも。でも、今の技術力じゃまだ10回が限度よ。NNSAやスペースインダストリー社がこの道を進むなら、イトの作りたいロケットはますます実現不可能になるでしょうね」
「キャシー、何が言いたいの……?」
「再利用型ロケットそのものはもうブルーオーシャンじゃない。デブリ回収システムが搭載されるくらいしないと、革新的じゃない」
「何を言って、」
キャシーは挑発的な笑みを浮かべ、ファイルを持っていない手を腰に当てた。
「NNSAは官僚的な組織体制だから、イトの個人的なやりがいを満たすのは難しい職場かもしれないわ。でも、さっきクビになってでもテンドウを助けたいって言ったわよね」
「あ、ああ。言ったけれど……」
「オンサイトは、宇宙飛行士を危険な目に遭わせなくても宇宙探査が出来るようにって、そういうコンセプトで開発がスタートしたでしょ。イトが誰より熱心だった。何があなたの原動力だったの。オンサイトだけじゃなく、これまでのことすべてを通してよ。なんのためにアメリカに来たの?」
「これまでのこと、すべて? なんのために……?」
「そうよ。あなたの原動力はなに?」
「原動力……」
「あるのね」
キャシーがファイルを持ったまま腕を組む。
「悪夢を、」
「悪夢?」
言うべきか迷った。だが、口が勝手に動いていた。
「……デブリが原因で、宇宙飛行士が事故に遭って死ぬ夢をよく見てたんだよ。それをどうにかしたくて、宇宙飛行士でも技術者でもいいから、とにかく宇宙を目指し続けることをやめないって決めた……」
そうだった。
宇宙開発のロマンやデブリ回収の必要性を唱えながら、この道へ進んだ動機はいたって個人的なことだった。たったひとりの男の子のために、アメリカまで来て、多くの人に迷惑を掛けて我が儘を通そうとしている。
「あは、はは……」
「イト?」
「つくづく自分は日本人だなって思っちゃった……」
「なぜ?」
「優柔不断で、何を優先すればいいのか途端に分からなくなる。再利用可能なロケットの案も、デブリのことを考えて出したひとつの答えだったけれど、今は宇宙飛行士をロケットに乗せるのも嫌だって思ってる……キャシー、デスクに戻ろう。私に余計な事を考えている余裕なんてなかったんだった。オンサイトのことを、最善の状態まで引き上げていかないと」
ひとの事より、自分の事にけじめをつけないといけない。そう言おうとした時、ピアノの音が鳴った。寄り添うように、癖のあるトランペットの音が重なる。
「……メランコリー・ブルース?」
ルイ・アームストロングの『メランコリー・ブルース』だった。キャシーの手にはブルーライトが光るスマートフォンが握られていた。「科学こどものくに」で聴いたあの曲が、あの時から止まったままの私の心に脈々と流れ込んでくる。
「私達はいつだって諦めることができる。生きているだけでたくさんの障害が起きるんだもの。なのに、地上とは比べものにならないほどの障害ばかりの宇宙を目指しているのよ。いつの時代だって奇人や変人と呼ばれるわね」
「キャシー……?」
「やらない後悔より、やった後悔のほうが納得できるんじゃないの」
私は息を飲んだ。キャシーが私の左胸に爪を立てる。
「あなたは心を殺しながら仕事を続けて、それでもまだ宇宙を好きでいられるの? 宇宙開発に挑む私達の胸には常に憂鬱が付き纏うわ。だから、心がときめくことを精一杯やるの。本当に失えないものを大事にしておくのよ。テンドウがいない世界で、まだ宇宙開発をしたいって。本気でそう思えるの?」
「倭がいないって、」
「死んだ後ということよ」
キャシーは私の返事を待たずに続ける。
「彼等は遺書を書いてからシャトルに搭乗する。きっと彼は『世話役』をあなたに指名するわよ。残った自分の家族をあなたに託して、宇宙へ旅立つの。だから、安全なロケットを今すぐにでも作りたいんでしょう。まして、地上訓練で彼を失うなんてもっての外なんでしょう。どうしてそれを素直に言わないの」
「言ったからNJPLに戻ってきたんだよ……」
「違うわ。周りを気にして綺麗事ばかり言ってるだけ」
「そんなことはない!」
「さっき言ったじゃない。テンドウにも私にもカールにも迷惑をかけずに、事態を改善させたいって。そんなの無理に決まってるでしょ。ロケットの開発は国家機密よ。日本人で、永住権もなく、たかだか数年アメリカにいたくらいのあなたじゃ、周りの人間を全員巻き込むくらい滅茶苦茶にやらないと運命が動くはずないでしょ。良い子ぶるのはやめなさい。泥臭い道を歩んできたんでしょ。あなたは口を動かすより手を動かすほうが得意なんだから」
上半身に、ばん――と衝撃が走った。キャシーに叩きつけられながら渡されたファイルは、私の心臓の真上で『再利用型ロケット試験機RLV-IT』の文字を群青色に光らせた。光っているように、この目には見えた。宛名の無い手紙と同じに、あの日飛ばした紙飛行機の残像が胸に蘇る。
「誰の人生にも踏み込まずに、誰も助けられなんてしないわよ。あつかましく自分を生きなさいよ。自分の為だけに生きて、結果誰かの為になったらラッキーって、それだけのことじゃない。クビになったら再チャレンジしなさい。再起のタイミングはいくらでもある。ここじゃなくても、ロケットは世界中のどの発射場からも飛ばせるんだから」
彼がどれだけ危険な状態にあるのか、分かるのはあなたなんでしょう?
そのキャシーの言葉に、私は頷いた。
「大丈夫よ。生きてさえいれば何とかなるもの。おばあちゃんになってからロケット開発をしちゃ駄目なんて誰が言ったの。優先順位の答えは、もう出てるじゃない」
胸のファイルは重たく、必死にそれを抱き締めながら私は頷いた。
「倭を、助けたい」
私は、本心を呟いていた。
「……キャシー、どうか手伝ってほしい」
「勿論よ。ふふ、まったく」
キャシーが唇に拳を当てて、肩を震わせる。
「ああ、ごめんなさい。だって、イトの開発の原動力って、全部テンドウなんだもの」
「え……?」
「NJPLの同僚として、友人として、テンドウがいないと糸の面白いアイディアを拝めなくなっちゃうからね。きっとリアンも協力してくれるわ。あの人もロマンチストだからね。あら、やだ、泣くのはまだ早いわよ?」
頬が濡れた感触がして、キャシーが目の前で笑った。
「ひとりじゃ宇宙を目指せない。信頼できる仲間とだったら、もっと楽しい。そうでしょ」
私は頷きながら目を瞑った。瞼の裏に映ったのは、紙飛行機でつくった『トキワⅠ』だった。今度こそ倭に手を伸ばし、月を狙ってまた走り出したい。
身体の中に一筋の閃光が差した。何故宇宙を目指すのか、その理由がひとりの人物の名前になる。天道倭がいるから、宇宙を目指したい。
「やらなければ」
とにかく、今はヒューストンに戻る手続きを取らなければ。
唇を噛んだ私に、キャシーが提案を持ち掛けてくる。
「いえ、イトが戻らなくても向こうにはカールがいるわ。ノード委員長の考えを根本から変えるのには時間がかかるでしょう。とりあえず、EVA訓練のやり方さえ何とかできればね。訓練施設のカウンセラーは木曜に来てるんでしょ。彼女にも協力を仰ぎましょう」
「倭は三半規管が弱いって……、そもそもEVAの訓練には不安を覚えていたのかもしれない」
「そうだったの? それは、カールも知らない事実なんじゃないかしら……そうだったら、もっと早く手を打っていたでしょうし」
「誰にも言ってなかったんだと思う。小さい頃から、周りの期待を全部受け止めてきたような人だったから」
「そう……わたしも完全無欠のサムライだと思ってたわ。イトにだけは弱音を吐けたのね」
アラートが鳴ったのは、その時だった。
「緊急通知……?」
ポロシャツの胸ポケットに入れていたPHSからだった。社内で何か起こったのだろうか。デスクに置き忘れてきたキャシーに代わって、私は小さな液晶画面に表示された文章を急いでスクロールさせる。
『15:06、NNSAスカイラブ宇宙センターの宇宙飛行士訓練施設にて事故発生』
事故発生。それを意味する英単語を見た瞬間、心臓がぐにゃりと潰れたような痛みに襲われた。宇宙飛行士訓練施設で、事故――?
「イト? 何が起きたって?」
事故が起きた、だからって別に倭が関係していると決まったわけじゃない。だが、『7月16日』の赤い点滅が、脳裏でフラッシュバックする。
『事故発生現場は《真空チャンバー内》』
「EVAじゃ、ない」
事故が起きたのは、EVAじゃない。よかった。EVAじゃない。
私は心中でほっとしながら、自分が悪魔になったかのような気分だった。他人の名前が出れば、彼は無事だと確証が持てる。私は他人の名前が出てくることを祈りながら画面を見つめる。
「イト、画面を見せて」
必ず、別の宇宙飛行士の名前がくるはずだ。倭はEVAの訓練の予定だった。液晶画面をスクロールさせる。スクロールバーが止まって、最後の一文が表示された。
『訓練中であった天道倭宇宙飛行士の容態は不明』
「……は、……事故が、」
「事故、まさか訓練施設で?」
私は天井を見上げる。何度でも乗り越えられる気がした。倭が夢の間際で死にかけていたとしても、悪夢の中なら置き去りにしても何とか耐えられた。頭の奥で、妄想のアラート音の残響が響く。
1202は、起死回生のプログラム・アラートだった。不慮の事故が起こっても、宇宙飛行士を助けられるための。
「イト、見せて!」
キャシーにPHSを奪われる。手元からPHSが無くなっても、12×12ドットの数行の文字が網膜に焼き付いていた。きっと一生忘れることはない気がする。
『事故発生現場は《真空チャンバー内》。訓練中であった天道倭宇宙飛行士の容態は不明』
わかっていたことだった。現実はいつだって、人の想像力をはるかに超えて、残酷なのだ。