【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第12話
部屋の戸がノックされる。その音でようやく目を開いた。
秒速465メートルの世界が、一気に押し寄せてくる。
「カールから連絡があって。すぐに病院に運び込まれて、命にも別状がないって」
キャシーの言葉を聞きながら、私はシーツの皺を眺めていた。
真空状態を作り出すNNSA所有の世界最大の真空チャンバー施設で、倭は訓練を行っていた。予定ではEVAの最中であった時間帯だった。
「EVAの後に体調不良が続いたようだから、急きょ訓練内容を変更したらしいわ……。イト、これはカールもまだはっきりしたことが分かっていないらしいんだけれど、彼の後遺症について……」
キャシーが何事かを深刻に説明してくれていたようだが、そこからの記憶はほとんど失っていた。申し訳ないくらいに私は動揺していて、早退をして部屋で休んでいたというのに、ベッドの上で気絶したらしい。
それからのことは、私の心よりも世間の騒がしさの方が深刻なようだった。
『日本人宇宙飛行士、天道倭の復帰は絶望的か?』
経済誌の一面を右手で握り潰し、事故から一週間、アールグレイの紅茶しか飲めなかった私が向かっていたのは、NJPL施設内の応接室だった。
倒れ込みそうになる私の足取りにキャシーは必死に引き留めようとしてくれていたが、彼女はついに私の肩に手を回してくれた。私の中に渦巻く衝動を止めることを、今だけ目を伏せてくれたのだ。
私は応接室に入り、アルミ製のごみ箱を蹴り上げた。中に入っていた赤色の輪ゴムが中を舞う。
「宇宙服に亀裂なんて、ふざけるな……!」
テロリストでも見るかのような顔つきで男達が私を見た。最初に喉を鳴らし、口を開いたのは委員長のリング・ノードだった。
「何をいきなり……ノックもせずに入室をするな。話し合い中だぞ、使用中のマークを見なかったのか?」
私はノード氏の目の前まで大股で近付き、その青白い顔に額を寄せて睨みつけた。
「宇宙服の改良の必要性があったことは分かっていました……会議で決まった決議を頓挫させたのは委員会です。あなた方が事故を起こした」
「黙れ。強制的につまみ出すぞ」
ノード氏が手を挙げると、背後にいた黒いスーツ姿の男が立ち上がる。ノード氏のSP兼秘書の男だ。
私は構わず食い下がった。
「劣化が原因で宇宙服が破れるなど、そんな事故が起こらなければ話し合いさえしないのですか……!」
「部屋を出ろ。入室の許可を出した覚えはない。本当にクビにされたいか」
秘書の男に腕を掴まれる。だが私はノード氏から目を逸らさなかった。くたびれた作業服を強引に引っ張られ、首が詰まる。キャシーが入り口側で待機しながら、私を守るために抗議の声を上げる。私は男の手を振りほどいた。
ノード氏が冷たい眼差しで私を睨んだ。
「トキワ、本気で解雇を望んでいるようだな……」
「スペースインダストリー社と共同で開発している再利用型ロケット、低コスト化を理由に3Dプリンタで全部品を製作するそうですね……安いロケット作りには熱心で、リスク面は後回しですか」
「事故が起きたのは、EVA訓練時ではなかった」
「は……?」
「真空チャンバー内での事故はこれまで一度も起きたことがない。不慮だった。テンドウじゃなくても事故は起きたかも知れないし、テンドウじゃなければ事故は起きなかったかもしれない。起きたことをいつまでも責めるな。事故はわざと起きたわけじゃない」
「今、なんと言いましたか……」
「これまで何人の命が犠牲になってきたと思っている。ロケットの爆発事故、地上での火災、たしかにNNSAトップの判断の誤りで起きた事故はいくつかある。だが、今回は違う。訓練前は亀裂がなかった。訓練中の偶発的なミスだ。不慮の事故だ」
私は激情のままに叫んだ。
「見逃しがあったからでしょう! これが月面だったら死んでいた!」
倭は真空状態の中で口腔内を焼かれ、まだ言葉が発せない。
だから、今更NJPLにやってきて話し合いなどをしている彼等に、私が叫びを上げなければならないのだ。
「〝不慮だった〟とは言わせません。宇宙服なんて、宇宙飛行士を守る最も根本的なことを……トップのあなた方が……!」
「黙れ! 我々にだって、予測できないことはあるッ。失敗から前に進むのがNNSAの理念だ。すぐにすべての宇宙服をチェックし始めている。君が以前申し立てた生命維持装置の改良案は、900万ドル(9億5千万円)を一度ゼロに戻すことと同じなんだぞ。……意味が分かるか? 秘書や掃除婦、各職員達の給料を削って我々は合わせて1000万ドルを捻出するッ! それでやっと1着だ。理想論だけで宇宙開発などできるか。それに何故君に文句を言われなければならない? 部外者だろうが!」
「…………ッ!」
身体が宙を舞って、そのまま床に押さえつけられた。右腕が背中に回され、側近の大男がその上に馬乗りになる。キャシーの悲鳴が聞こえた。肺が潰れるほどの圧迫に呼吸が困難になり、私は唸りながらもがいた。
ノード氏の革靴が、目の前にやってくる。
「……治療費は出す。彼も裁判を起こすつもりはなく、慰謝料も望まないと弁護士に伝えたそうだ。誠意は見せている……組織としても胸が痛い事案なんだ」
上体を起こされて、私はようやく深く息を吸った。ソファに坐したノード氏と目が合う。アンバーの瞳は相変わらず冷血なままで、髪も服も顔面もぼろぼろになっている私を見てその目をすっと細めた。
「食事が喉を通らないほどショックだったか。月を狙うつもりならもっと強くなれ。宇宙は、死を覚悟できた者だけが挑めるフロンティアだ」
歯を食い縛り過ぎて、奥歯の一部が小さく欠けて、それをぷっと吐き出す。そんな私を見て、青白い手が小さく横に振れる。その合図で、ノード氏の秘書がようやく私の身体を解放した。カーペットの上に転がった私に、キャシーが駆け寄ってくる。
「テイラー、部屋まで担いで帰れ。……月面着陸まではもう2年を切っているからな。アールグレイ以外のものを摂取するよう指南もしておけ。日本人はただでさえ貧弱で脆い」
曜子に似た怒鳴り声が聞こえて、ああ、彼女が怒っているのだなとぼんやりと考えながら、私は応接室の窓のその向こう側の景色を見ていた。まだ薄いブルーの空の中で、青白い月がぽっかりと浮かんでいる。
地球との距離、およそ38万キロメートル。上弦の月を見上げているこの時、月にいる誰かは下弦の地球を眺めていることになる。
(倭……ああ、本当にごめん)
今は同じ大陸の上にいる。日本とアメリカほどの距離もない。テキサス州とカリフォルニア州の差など、宇宙から見れば点ほどの差もない。
(だけど、あなたが遠い)
キャシーに肩を担がれながら帰る女子寮までの道のりは、驚くほどにつらく惨めだった。身体が泥を纏ったように重く、目の前が暗い。
母の姿をずっと見守り続けてきたからこそ、病室でひとり治療に耐える間の辛さや孤独は、もう大好きな人にこれ以上味わって欲しくないものだった。それをじっと待っていることももうしたくない。
「でも、ここからじゃ、どうにもできない……」
呟いた言葉は、キャシーの抱擁と共に涙に溶けた。
職場の明かりはまだ点いたままで、今もなお研究開発は進み続けているのだと分かる。秒速465メートル――新幹線の6倍以上のスピードで自転し続けるこの地球の、気がどうにかなりそうなほどまともな日常は、恐らくまた一歩人類を月へと近付けるのだろう。その一歩のために、どれほど犠牲を生み出そうとも。
それからの数か月を、私はただひたすらに無心で働き詰めた。
◆◇◆
スイートアリッサムという花は秋に咲く。
それを教えてくれた人に会いに、私は甘い芳香を放つ白い花の下で、控えめに戸を叩いた。会いたい人物はすぐに現れた。
「すみません、マリアさん」
「イト……」
「どうしても会いたくて……」
チューリップ型のランプが淡く灯り、私はマリアの腕の中にいた。出会った時と同様、白いレースのショールを私の肩に掛けてくれる。
「さあ中へ入って。ホットワインを用意してるの」
ダイニングテーブルに案内されると、りんごの甘い香りが部屋中に満ちていた。白いマグカップの隣に、カラフルなチョコレートが小皿に盛られている。それを見つけて、懐かしさが蘇ると同時に私は額を手で覆った。
「倭の、ことなんですが……」
それ以上何を言えばいいか分からなかった。
事故から2カ月が過ぎていた。倭の弁護士から連絡をもらっていたマリアは「驚いたわ」と小さく笑み、私を先に椅子に座らせた。肩に置かれた細い指に私は縋った。
「イトはヤマトに会えたの?」
「いいえ……怖くてまだ連絡できずにいます。もう二度と宇宙飛行士に戻れない状態だったら。そうしたらどうしようって……ああ、どうしようマリア」
「あなた、そんな静かに泣くのね。ヤマトがあんなにも過保護になるはずだわ」
ラベンダーの香りが私を包み込む。ホットワインの上品な香りと、キッチンに置かれた鍋の中のチキンスープ。マリアの家の匂いがしている。
「今まで耐えてきたのね」
マリアの言葉に、私は首を左右に振った。
「周りの人間にさんざん当て付けてきたんです……それからひたすら仕事に打ち込みました。提案をして、取り消されたら別の案を出して。前には進まないといけないから……倭がいなくても宇宙開発は進み続ける、だから、私もちゃんとやらなくちゃいけない」
「ええ」
「世界一安全なロケットを作りたいんです、自分自身から逃げないで、現実を見て。倭がいつでも帰ってこられるように。きっとあの人が喜んで一番に乗りたがるはずだから」
「ええ、きっとそうだわ」
「でも、倭が無事かどうか……それが怖くて聞けない。どうしようマリア。もし後遺症がひどかったりしたら。二度とロケットに乗れなかったとしたら!」
「泣いていいわ。大丈夫。あなたはやり遂げられる。だから、今は泣いていいの」
私は、思いを抑えきれずにみっともなく大声で泣いた。マリアの身体は華奢で、私がしがみつくと折れ曲がってしまいそうだった。マリアは私の耳元で「私にもそういう夜があったの」と囁いた。
「ロマンを持つ男を愛すると酷ね。私は世界で一番好きな男達が二人ともそうだったから、寂しくて溶けるほど泣いた後、自分のことは自分で楽しませなきゃいけないって、そう思ったの。車をTOYOTA製にして、若い男の子の恋路を応援して、毎日オシャレをして、得意料理を偶然出会った素敵なお嬢さんに振舞うの。私はあなた達二人を信じている。大丈夫、きっとうまくゆくわ。人生はね、どうせうまくゆくの。ほんとうよ。信じていいの」
未来の事は誰にも分からない。だからマリアの言葉だって本当にどうなるかは分からない。だが、私はその未来が訪れるようにと何度も頷いた。誰にも予測できない未来を、私達はただ信じて前に進むしかない。どんなに辛く、悲しいことが起こったとしても。
マリアは温室に置いてあったゴールデンブルースのことを話してくれた。
「ヤマトは月を見上げながらよくあの花の前に立っていたわ。特別な想いがあったんでしょうね……触れるのを恐れているようにも見えたわ。でも事故の後、日本に帰ってリハビリをしなくちゃいけないって時に、うちにあったゴールデンブルースを持って帰ったの。どこか吹っ切れているようにも見えたわ。事故のせいで何も喋れなかったけれどね。背中が語っていたわよ」
マリアはそう言って、母の顔をして私の頬に触れた。シルクのハンカチーフはここにはない。マリアは繊細な指で直接私の涙を拭ってくれた。
「あなたは私の初めての娘よ。この年で大きな息子と娘ができて、こんな楽しい人生なんて他にないじゃない? ニックとノートンにも望遠鏡越しに伝えてあるのよ。ヤマトとイトがそろそろ月へバケーションに行くから、とびきりのサプライズを用意しておいて頂戴ねって」
ウインクをしてくれたマリアに、私は鼻の下を汚したまま情けなく笑った。やわらかいティッシュペーパーがそっと鼻下に押し当てられる。そこからも花の良い匂いがした。
「柔らかい毛布で包み込んであげたいくらい、働き過ぎの真面目な子ども達……。いつでもチキンスープを食べにいらっしゃい。ホットワインは、女の秘密の会議の時だけよ。それとイト、あなた自分を過小評価しすぎね」
――奇跡は起こるものよ。ママの言う事を信じなさい。
マリアから託された言葉に、私はたとえNNSAで不可能であったとしても、世界のどこかからでも必ず『再利用型ロケット試験機RLV-IT』を打ち上げる事を誓った。日本人の、常磐糸でなければ作れないロケットで、宇宙の事故を未然に防ぐ。何度打ちのめされても、私はカムバックする。天道倭を、月に押し上げるために。
帰り際、マリアが小さな包みを手渡してきた。あの時食べなかった、マーブルチョコレートだった。
「あのね……イト、私とヤマトのことを誤解しているみたいだけれど、私は意外と一途な女なのよ。もうこの両手はニックとノートンの愛で塞がっているわ。あなたが手を伸ばせば、その手に繋がる誰かが必ず握り返してくれるはず」
誰かが、とマリアは言ったが、その瞳はすべてを見透かしているようにやさしかった。マリアは、私の倭への想いに気づいていたのだろう。
「イト、私はいつでもあなたの味方よ」
私は頷いた。親子がそうするようにして、私達はハグをして別れた。
歩道に出るとすでにイエローキャブが待機していて、あのサングラスが月夜の下できらりと輝いた。午後7時の空は日はすっかりと落ち、闇夜に浮かぶのは斜めに傾いた上弦の月だった。
「……お願いします。スペースシティまで」
あの時と、行き先も状況も異なる。だが、相変わらずそのグッドサインは力強かった。
7月の小雨の夜。アストロブルースの挑戦の話をした時、倭は「一緒に東南アジア初になりたかったのに」と言った。スペースインダストリー社から資金援助の話がきたと佐久間さんから知らされた時、実は私も直感的に倭のことを思い浮かべていた。
「本当に、どこまで追い掛けても遠い……」
イエローキャブのドライバーが、客の事などお構いなしに鼻歌を歌い出す。道路の先に浮かんでいる黄金の光に魅入られているようだった。
――ああ、倭。
私は窓の向こうの夜空に向かって倭に話し掛ける。
――私がロシアの企業のライドシェアを断ってスペースインダストリー社に手を伸ばしたのは、あなたが恐らく「そこ」にいると思ったからなんだよ。
……そこまでを夜空に語ってから顔が熱くなってきて、私は窓を開けてもいいかと運転手に尋ねた。
「ノープロブレム」
その言葉と共に夜風が入り、車内に秋の匂いが満ちていく。
ノープロブレム。そう、世の中には大丈夫なこともある。夜空に浮かんでいるのはまだ何かが物足りない月だった。満ちるまではまだ時間がかかる。だから今は、スペースシティへと向かう。
「――あ、もしもし、曜ちゃん?」
スマートフォンを耳に押し当て、久しぶりに親友の声を聞く。カールが提案してくれた「残念パーティ」に、日本にいる曜子にも声を掛けたのだ。ヒューストンにある倭の新居で、倭が月面着陸計画の選抜メンバーから除名されたことを勝手に残念祝いするための計画だ。きっとそれが、私達が前に進む為の推進力になると信じて。
私は曜子の声を聞きながら、半分になった月を見上げる。上弦の月は、満月に満ちる為に必要なプロセスだ。
「NICE VIEW!」
サングラスを押し上げ、陽気なドライバーが口笛を吹く。異国の地でタクシーに揺られ、ゴールデン・パブを通り過ぎ、この道の先に続く黄金の光に私は誓う。
何かが起こっても、後のことは全部思い切り楽しまなければならない。
「きっと、できる」
人生が、あみだくじであり航海であり蛇腹の道であるならば。
それでも進む以外に道はない。この世に宇宙が誕生し、銀河が渦巻き、地球が生まれ、私がここにいる以上、そうするほかない。自然界は本来都合良く成り立っている。残酷でも、それが自然の摂理だ。不都合があるとすれば、それは人間のエゴなのだ。宇宙以上に私に大切な人ができてしまったからなのだろう。
「きれいだ……」
未来の誰かへ。そちらから見る景色は、一体どんなだろう。月から見た下弦の地球も、そうきっと悪くはないのだろう。
◆◇◆
アールグレイの紅茶に、マーマレードジャムが塗られた焼き菓子。曜子と娘のいちかちゃんが芝の上で戯れている声に、私はゆっくりと閉じていた目を開いた。
倭の事故から3カ月が過ぎた、2019年10月。
これまでの事を思い出すと目尻が濡れていた。欠伸を噛み殺すふりをして、私は目敏い曜子に「大丈夫だ」と手を振る。
「あら、もうこんな時間ね」
午後5時を迎え、カールとキャシーが帰る支度を始める。残念パーティを終え、彼等は順番に私にハグをした。
「トキワ、君は今晩ここに残るんだろう? 広い部屋で寂しくはないかい」
心配そうな顔のカールに、私はなんでもないふうに笑みを浮かべる。
「後片付けをして帰らなくちゃいけないから。良い時間をありがとう、カール」
固い握手を交わして、私はヒューストンで数カ月間だけ同僚であったカールに心から礼を告げた。天道倭の大ファンである私達の心の傷は油断をすればまだ表情に表れてしまう。それを笑みで取り繕って、互いの肩を強く叩いた。
「パブの時みたいに1人で外を歩いちゃ駄目だぞ。女性だけだと危険なんだから。気をつけるんだよ」
「カール、イトはあなたよりもよほどしっかりしているんだから。イト、あまりお酒に強くないんだからヤケ酒なんてしちゃダメよ。ヨーコがホテルに戻った後も飲み直したりなんてしたらダメだからね。あと、今日くらいはヤマトに連絡してみたらどう? きっと彼、ずっと待っているわよ」
「……おいキャシー、どっちがお節介なんだい」
「なによ? あなたのパブの話のほうが空気が読めてないじゃない」
二人の言い争いが激しくなる前にジープへと押し込む。キャシーが助手席の窓を開け、「きちんと戸締りをしてね」と告げるのに、いつの間にか隣に立っていた曜子のほうがしっかりと頷いていた。キャシーが安心した笑みを浮かべる。
「それじゃあね。イト、また来週」
クラクションを鳴らして去っていくジープに、曜子がやれやれと肩を竦める。
残った食器や食材を片付けている最中、曜子が私の腰を指差しながら「懐かしいわね」と笑った。ジーンズのポケットに入れた携帯電話に、マリアからもらったプレゼントを括りつけていたのだ。8つのカラフルなボールが一本の糸で繋がったあのストラップだ。
「それ、プラネタリウムで館長さんが言っていたことでしょう。惑星直列の奇跡、っていうやつ」
「うん。惑星直列は結局起きなかったけれどね」
曜子はいちかちゃんの頭を撫でた後、ストラップを指先で弾く。
「かわいいじゃない。日本にいる時に買ったの?」
「スカイラブ宇宙センターの売店で新しく売り始めたストラップなんだよ。キャシーはカールに買ってもらったらしいけど、これはマリアがくれて」
「ああ、天道君がお世話になっていた人なんでしょう。その人にも惑星直列の話をしたの?」
「いや、していないけど。マリアは本当にいい人で。よく気遣ってくれる……彼女がいたから、今もこうして立っていられるよ」
「それだけ他人の好意には敏感なくせに、天道君のだけはスル―なのね」
「……ええっと、バスの時間はいつだっけ、」
「やだ、顔を真っ赤にしちゃって。日本に戻ったら、隠し撮りしたあなたの泣き顔の写真を彼に送っとくわよ。きっと一瞬で退院できるかも」
面白がるように笑った曜子に、私はいそいそとゴミ袋を両手に持ち「さぁて、後片付けだ!」と話題を変えた。
曜子との別れもあっという間に訪れ、バス乗り場までは世間話をしているとすぐだった。ボストンバッグひとつでアメリカに来た曜子が、バスのタラップに乗ってからくるりと振り返る。
「じゃあ、ゆっくり休むのよ」
「うん。曜子も。今日は遠くからありがとう」
握手を交わす。母の手は力強くて、年月の流れを感じるとともに、どこか面映ゆかった。
曜子がいつもの勝ち気な表情で笑みを浮かべる。
「キャシーさんの言葉だと、糸も前人未到の挑戦にこれから挑むみたいだけど。なかなか忙しくなってくるわね。と言っても、それは前からか」
排気ガスの白い靄が空に向かって滲んでゆく。ビー、という音が鳴り、ドライバーが早く出発したいという表情でこちらを見た。曜子がそれを横目で確認し、赤いルージュの引かれた唇をにいっと上げる。
「今は半身を失っている気分でしょうけど。こっちはウズウズしながらずっと待っているのよ。最強の宇宙コンビ復活を、ね。辛気臭いのは今日までにしてよ。ねえ糸、」
呼ばれて近付くと、タラップに乗った彼女から親愛のキスを送られた。頬に移った口紅の痕に曜子が得意げに笑う。
「うまくやんなさいよ」
ドアが閉まって、クラクションが一度大きく鳴る。橙色の夕焼けの中、ガラス窓の向こう側でいちかちゃんが大きく手を振っていた。未来を予感させる小さな手だった。私はバスが遠く見えなくなるまで、力強く手を振り返した。
***
倭の家に戻ってからは、しばらくは何もせずに過ごした。
家具が少なくすっきりとした部屋の中には、大きな本棚が2つある。私は庭に面した窓を開け放して、本棚にある本をいくつか取って床に並べた。ジュール・ベルヌの『地球から月へ』『八十日間世界一周』『センター・オブ・ジ・アース』――これらは、倭が幼い頃から好きだった物語だ。
「相変わらずだなぁ……」
ページの端々が折れている。彼が辿って来た青春のすべてが、そこに詰め込まれているような気がした。
モダンな家具が並ぶ部屋の真ん中で、私は窓の向こうを見つめて携帯電話を耳に押しあてる。留守番電話サービスに繋がったアナウンスを聞き、「また後で」とだけ告げ、通話を切った。足先だけを月に照らされ、少しだけワインを口に含む。今は苦手なアルコールも友のようだった。
窓辺にはベンチが置かれてあって、倭はそこで月見酒でもするつもりだったのかと思いながら、その上にスマートフォンだけを持って横たわってみた。ゆったりと眠気が襲ってきて、目頭を擦る。戸締りや後片付けのことが頭を過った。電話が鳴っているような音も聞こえる。だが、深い闇の中に引き込まれていく力は強かった。そのまま眠りに落ちてゆく。
15歳の4月4日と同じ夢。
久しぶりにあの夢が私を掴んできた。スマートフォンのリチウム電池の熱さに寝返りを打つ。その表紙に携帯を床に落としたことにも気づかないまま、暗闇の景色が遠く果ての方まで広がった。