【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第5話
2012年の夏。
相変わらず倭はアメリカにいて、私は愛媛県松山市にいた。11月の誕生日がくれば、21歳になる年の頃だ。
筑波大学の理工学部に給付型奨学金制度を利用して進学して三年目の盆、愛する故郷の愛媛に帰郷していた。母に学校生活の事を色々と報告したかったのもある。私は、写真立ての前で手を合わせた。母の一回忌は、あっという間に訪れた。
当時、父は身体ごと溶けて無くなるくらい泣きじゃくった。少年のような笑顔と男らしい背中が好きだと笑った母は、最後まで父の為に思い出話をし続けたらしい。私は大学の事務室から掛かってきた内線電話で母の最期を知った。その時、研究室で呑気に紅茶を飲んでいた。
「――ほんでな、糸はな、6歳で公民館の端から端まで軽々飛ぶ飛行機を作ったんぞ」
「それ! 伝説の『トキワⅠ飛行機』やろ。2代目もらったもん」
弟の自分まで英雄になったのだと、広大が興奮した様子で話す。
盛り上がっているところで話の腰を折ってしまうのは申し訳ないと思いつつも、20年ものの卓袱台の上にお椀を三つ置くと、常磐家の男達はふたりとも姿勢を正して、ぱちりと手を合わせた。
「いただきます」
しばらく無言で味噌汁を食して、それから三者三様母に向けて無言で挨拶を届ける。私がまだ5歳で、広大が2歳だった頃、元気な母は家族四人で手作りの味噌汁を飲むのが『一生健康でいられる秘訣』と信じて疑わなかった。それを信じていた母が、誰よりも先に天国へ旅立った。
父が小さく鼻を鳴らす。涙は零していなかったが、減塩味噌を使ったのにしょっぱそうな顔をしていた。私は卓袱台に手をついて、腰を上げる。
「椀、かたすね。あと、昼は素麺でもええかな」
飲み終わった汁椀を片付けようとすると、父は「糸も帰ってきたんやし、近所のそば屋に行こ。来年で店畳むそうやから」とさみしそうに笑った。私は広大のふさふさの髪を見てから、うんと頷いた。
お盆の上に乗せた三人分の汁椀を台所に運びながら、私は脱衣場の窓から〝例の実験塔〟を盗み見た。
「難儀やね……ほんと」
無重力実験塔は、ついに完成していた。
常磐鉄工所が潰れた2009年の冬。あれから会社は随分と波乱万丈な道を辿ったが、従業員全員が安定した職に就きなおす事が出来たのは、斎藤副社長のおかげだった。
斎藤さんは、『全員で作った〝これ〟があるから、常磐鉄工所は無くならん。やからな、お嬢。大丈夫。同じ夢を持つ人、同じ好きを持っとる者同士は必ずいつか同じ路に辿り着くけん。やから。そん時にまた集まったらええんよ。かならず』と鼻の頭を赤くして、未来を誓った。
社長ではなくなった父は、従業員全員と握手とハグをして、涙で顔をぐしゃぐしゃにしてわんわんと泣いた。誰よりも父を慕っていた町田さんは、『またおれが迎えに来ますんで』と、両目を真っ赤にさせて強く父の肩を抱いた。別れの時はすぐにきた。だが、かなしみだけの別れではないと誰もが思っていたから、否定的な言葉はひとつも使わなかった。全員が、未来を信じて一度離れる決意をしたのだ。
二階の自室の窓に腰掛け、私はその様子を見つめていた。何かに呼ばれたような気がして、青白い空を見上げる。早朝5時、そこにはまだ白い下弦の月が夜明けの空にぽっかりと浮かんで、私達をただ静かに見守っていた。
ふ、と夏の匂いが香ってくる。
「おう、糸。広大がまたアレ折ってくれってよ」
台拭きを持って居間に行くと、父が私を手招きする。畳の上でガタイの良い男二人が胡坐を掻いて一冊の本を眺めていた。『紙飛行機を作る本』というシンプルな指南本だ。15年前、商店街の文房具屋「サイシン」で私が父に頼んで買ってもらったものだった。
『飛行機は鉄でも紙でも何でも飛ぶけんな』
この父の言葉で、私はとんでもないほどに大きく、果てしない世界へと一歩踏み出してしまったのだ。
庭の木に止まった蝉がうるさい。私は笑みを浮かべながら首筋の汗を指で拭い、卓袱台をさっと拭く。
「広大、高校で彼女でも出来たんやないの。野球以外のことに興味持ち出したりして」
「ちゃうってば」
いがぐり頭だった頃から、髪は随分と伸びたようだ。下手くそなワックスのつけ方を覚えた広大は、お洒落を気にする年頃らしく眉を指で撫でながら、将来の夢をぽろりとこぼした。
「姉ちゃん、理工学部ってとこにおるんやろう? 勉強嫌いやけど、そういうとこに行かんとロケットなんぞ作れんって担任が言うけんさ。でもさ、オレ算数とか勘やしさあ。どしたらええんかなと思って」
弟の意外な台詞に目を丸くしたのは、どうやら私だけではなかった。広大の前で座ったまま屁をしようとしていた父は、脳梗塞の後の胃がんまで克服した腹を押さえ、「はあー」と感嘆の声を上げる。
「広大、お前勘で算数解いてるんか? というより、ロケットを作るって、これまた大層なことを」
「何よ。父ちゃんの背見て育ってたら、そりゃそうなるやんか」
なんとも複雑そうな顔をした父が私を見た。私は、染みの多い天井を見上げた。心の中で、母さんにこっそりと謝っておく。
――見とるかな。父さんだけならまだしも、姉弟揃って無謀な夢ばっか語って。誰かの役に立っとるわけでも、何かを救えたわけでもないのに。思った通りになんて人生は設計できんよね母さん、私はそれを何度も思い知って。
やっぱり、やっぱりね……。
「貸して」
広大から白い紙を一枚譲ってもらい、それを丁寧に折り畳んでゆく。広大がじぃっと手元を覗き込んでくるのが分かって、折るペースを少しだけ遅くする。『トキワⅠ飛行機』は、いつか月まで飛んでゆく事を目指して折った試作機だった。
「見とき。姉ちゃんが一番うまく折れるけんね」
「すっげ。なんで本よりも複雑なん?」
6歳で目指した月への旅。隣で月の石のレプリカを大事そうに抱えていた倭は、『宇宙飛行士になりたい』と小さな口で言った。小学校入学前から倭は宇宙飛行士を目指して、私は「ロケットを作れる人」を目指した。何故か、あの頃は必ずその夢が叶うと信じていた。今よりもずっと、その確信は強く、絶対的なものだった気がする。赤ん坊が何度転んでも立ち上がり、絶対に自分はこの両足で歩けるのだと信じて疑わないように。
ロマンとイマジネーションが、宇宙へゆくための夢の正体――きっと、大人よりも子どものほうがそれをよくわかっているのかもしれない。なりたいと思った時には、魂が一生をかけてそれを目指すのだろう。
10代の思春期の頃に私を取り囲む「さまざまな何か」が一度から二度、三度――いや何度も私を夢から遠ざけた。もういい加減諦めて楽になればいいのに。無理をして、倭の背を追う事などやめてしまえばいいのに。
『常磐。よくやったほうだ』
そう言われる度に、後頭部から這い上がってくる怒りのようなものがあった。母の葬儀の間に、強く握った手の平からは血が滲んでいた。この人生で成し遂げたものなど一つもない。それなのに何度も試す、何度も失敗する、何度も繰り返す。こんなに困難の連続でしかないのに、大学卒業後の目標が今定まってしまった。
「はあー……ははっ」
鼻から息が抜ける、変な笑いがこみ上げてくる。
「どしたんよ、姉ちゃん」
広大がぎょっとした顔で驚いている。
「ううん、いや」
私は笑いながら、やっと腹が決まったのを実感した。
きっと、これでよかったのだ。色んな事がいっぺんに駄目になってよかったのだ。うまくいったことよりうまくいかないことのほうが多い人生でよかった。だからこそ、自分にとって本当に諦めきれないものが何なのかがわかった気がする。
私はこのまま宇宙を目指し続けることを諦めない。
未練たらたらで、しぶとく生きるのだ。格好悪くても。人生のあみだくじが蛇腹の紙の上に描かれていたとしても、それでもいい。どの道へ進んだとしても後悔するならば、後悔してもよかったと思える道を選びとりたい。
私が丁寧に折った飛行機を手に立ち上がると、広大は「競争な」と言って、合図もなしに先に紙飛行機を投げて飛ばした。ズルをしたくせに、広大の紙飛行機は30センチ先で見事に墜落した。
「あぁ~……もう、こんなんさ、センスやない? オレの見てよ。畳に突き刺さっとるし。墜落」
「広大、ものづくりは情熱やぞ」
父がやってきて、畳に突き刺さった紙飛行機を手に取った。
「人生っていうんはな、二回あったとしても、もう一度同じ物が作れるかどうかは分からんからな。失敗せんと勘所が養えんし、皺ひとつ、折り目ひとつ、1ミリでも違うてたらそれはもう別物やけん。常磐広大の第一試作品は「これ」だけ。1等星みたいなぴかぴかな広大特製のロケット、いっちゃん初めに父ちゃんが乗って月へ行きたかったなぁ」
「父ちゃん……」
広大がカメムシでも噛んだかのような顔をする。
「これ見てようそんな恥ずかしい台詞言えるな。オレがはずいわ」
「言える! うちの家族は最高やからな。糸、お前のロケットには倭君を乗せるんやろ?」
当たり前のようにそう訊かれて、私は唾液を気管に入れてしまい盛大に噎せた。私より身長が高くなった広大が畳の上で首を竦め、分かりやすく目を泳がせている。
「……ど、どうかな。向こうが私を覚えていたらの話やね」
「覚えとるもなにも、倭君はお前にぞっこんやないか」
「父ちゃん!」
広大が父を大声で呼ぶ。
「そのへんでやめとけって。やぶ蛇やぞ」
「なんや。フラれたって、そんなん一回だけやろ? 父さんは母さんに8回以上はフラれて結婚してなぁ、って、いてっ」
広大が父の膝頭を手でバシンと叩く。その顔が『言ったらアカンやろ』と般若のような形相で、私は姉思いの弟に思わず苦笑した。
鈍い父だけが、不思議そうな顔で広大の腹をさすり始める。
「なんや広大、お前そんな怖い顔して。フン詰まりか?」
「もうええから! 父ちゃんは黙っとけって。大人には色々あるねん」
「大人ってお前、糸はまだ21やろ? え、まさか糸、お前倭君と……!」
誤解が積み重なり過ぎて訳が分からなくなった父は放っておいて、私は広大の横に腰を下ろした。広大は「プラトニックな愛もあるんやって」とだいぶ背伸びをした発言をしていて、父は「そんな、嫁にもらって責任とってもらわんと!」と広大に真っ赤な顔を向けている。
私は親子の漫才に笑いながら、これまでのことを思い出していた。
『お互いバラバラの道を進むのね』
高校卒業の時、曜子が言った言葉だ。
曜子と倭がいた高校一年生の春。桜が散り終わって倭が松山を去り、曜子と二人で学生優待落選を落ち込んだ秋。全日本缶サット甲子園で悔し涙を飲んだ高校二年生の冬。
信頼できる友がいても、人は孤独と向き合わなくてはいけない時がある。学生優待を活かしきることができなかった私は、地元を離れ遠い街で生きることを選んだ。松山を出て、世界を知る必要があると思ったからだ。この世界は広い。
高校生活最後の冬、実は、私は佐久間さんから連絡を貰っていた。スペースデブリの回収ビジネスを専門とする世界初のベンチャー企業を見学してみないかと言われたのだ。全日本缶サット甲子園の結果報告以来、久しぶりの再会だった。
***
「常磐さん、こっちだ!」
佐久間さんが手を上げ、私は急いでヘルメットを外した。つくば駅から自転車で19分のアパートに引っ越しを終えた私は、その足で駅裏のテナントビルの駐輪場に向かい、スーツを着た佐久間さんに駆け寄った。
「お久しぶりです」
「元気にしてたかい? まさか僕の後輩になるとはな」
佐久間さんが眉を下げて笑う。佐久間さんは、84年卒の筑波大学理工学部のOB生でもあった。
「ぎりぎりでしたが、なんとか……。運が良かったです」
「とんでもない努力をしたんだろう。鉄工所の事もあっただろうに、バイトをしながらよく頑張ったと思う。全日本缶サット甲子園の件も、君のことはちょっと噂になっていたんだよ」
「噂?」
防水対策の不備によるカメラの故障、過信と慢心、プレゼン審査で散々酷評を受けた当時の苦い記憶が身震いと共に蘇った。
「どんな噂だったのかは怖くて聞けませんが……」
「ははっ」
目尻に小じわを増やして、佐久間さんは穏やかな顔付きで笑った。
「夢を諦めるかどうか、瀬戸際の表情って感じだな。前よりいい顔をしている」
「……同級生はアメリカで仕事もしています。鉄工所の再建も含めて、焦りを覚えています」
「なにを。人生を歩くスピードは人それぞれだとシェイクスピアも言っている」
佐久間さんは手に持っていた小さな文庫本をセカンドバックに仕舞った。
私は佐久間さんの少し後ろを歩きながら、何も言葉を返せないでいた。
「常磐さん。あの時は厳しく言ったが、諸外国のやり方を真似ることだけが正解じゃないぞ。日本人らしさを活かす、そういう戦い方を君なら出来る気がして……こっちに来てくれるかい」
テナントビルのエレベーターに乗り込み、10階のボタンを長い指が押す。複数の企業が並ぶ海外の空港ロビーのような廊下を歩いて、佐久間さんが立ち止まった。
金字に輝く、『スペース・ベルヌ株式会社』。簡素なアルミ戸にぶら下がった月の天体模型が揺れ、ドアの向こうから、白い丸パンを頬に貼り付けたような男性が現れた。
「待ってたよ、佐久間さん!」
やあ、とにこやかに手を上げる。そのクリームパンのような手が、歯形の付いたメロンパンをぎゅっと握った。
「そちらが例のお嬢さんだね。無重力実験塔については佐久間さんからよく聞いてるよ。素晴らしいお父さんだね!」
「は、はい」
宇宙馬鹿の父を他人から褒められたのは初めてで、私はクリームパン(のような手)とメロンパンを交互に見ながら何度も頷いた。隣にいる佐久間さんが私の肩を軽く叩く。
「常磐さんはね、全日本缶サット甲子園であの松山さんに噛み付いたGKだよ。櫻井さんも気になってたでしょ」
「ああ、君が例のGK! 親子揃っていいキャラしてるんだね」
女子高生の略称なら、GではなくJではないか――それを指摘するか迷っていると、佐久間さんが「ジャイアントキリングのことね」と耳打ちをしてくる。
私をGKと呼んだ男性は、代表取締役社長の櫻井、と名乗り、人工衛星のマークがついた分厚い名刺を手渡してくれた。
「いやぁ。ARLISの話を始めたかと思いきや、人類が宇宙に行かなくても操作できるローバーを作りたいって? そりゃ松山さんも辛口になるよ。デブリを増やさないように、ゆくゆくはデブリ回収機能を搭載した再利用可能な有人宇宙ロケットまで作るなんて……缶サットのプレゼンは最悪だったそうだけど、松山さんが辛口になるのは期待してる証拠でもあるんだよ。いやぁ、面白いよねぇ君」
ふくふくと揺れる白い丸パン(のような手)が近付き、思わず仰け反る。慣れないヒールにスーツ姿でバランスを崩した私を、頼もしい手が受け止めてくれた。
「で、櫻井さん。さっそくだけど、展示ブース見ちゃってもいいかい。僕も彼女も暇じゃないからさ」
「なんだ、佐久間さんは相変わらずせっかちだなぁ。常磐さん、鉄工所が良い感じになったら、ぜひウチとのビジネスも検討してみてよ!」
そう言い、櫻井さんがビルのエレベーターホールに向かって小走りで駆けていく。メロンパンのくずが廊下に点々と落ちていった。
「やー、櫻井さんは変人が大好きだからな。困ったもんだね」
「変人……いただいた名刺、後日ちゃんと父に郵送しておきます」
佐久間さんがアルミ戸のドアノブを握り、私を先に中に通してくれる。
「お父さんじゃなくて。常磐さん、君のことだよ」
「え?」
「まあまあ、中に入ろうか」
「は、はい」
従業員らしき人々が熱心にキーボードを叩いている静かなオフィススペースの前を通り過ぎ、観葉植物が置かれた青いドアを佐久間さんがノックする。
「中は暗いから気をつけて」
そう言って、佐久間さんが「展示ブース」と刻印されたドアを開けた。その先には、『宇宙』が広がっていた。濃紺の世界に、幾千もの白い光が瞬いている。
「3D映像だよ」
面白がる声が聞こえる。暗くてよく分からないが、思ったより近くに佐久間さんが立っているらしい。
「ここは、磁力発生器の開発を行っているベンチャーなんだ」
佐久間さんは誘導するように私の肩を叩き、「この広い宇宙のほんの4%しか人類は知らない。その4%の世界に散乱しているのが、ロマンじゃなくて”ごみ”なんだ」とLEDライトを点灯させた。部屋の中心がぼうっと青白く発光しはじめる。幻想的な景色だった。
「そこに仰々しく展示されているのが、磁力発生器だ」
「磁力、発生器……」
金色の立方体の箱に、オニヤンマの羽を思わせる濃紺の翼が2枚伸びている。
「デブリの発生原因は知っているかな」
私は隣にいる佐久間さんを見上げて、「はい」と答えた。
「破砕破片がおよそ4割で、あとはミッション関連の部品やロケット機体、放棄衛星がほとんどだと」
「そうだね。これはね、磁力を利用して巨大なデブリを回収する衛星なんだよ。技術は日々進歩し、余計なごみを出さないように人工衛星を設計するのは当然となってきた。新しいデブリを増やさないことは勿論大事だけれど、過去のごみを早く回収するのも人類の使命だと僕は思っている。古いデブリほど、各国の公的機関が打ち上げたものがほとんどだっていうのは知っているだろ?」
「はい」
「今後は、櫻井さんみたいに、日本でもベンチャー企業の宇宙産業進出が当たり前の時代がやってくるよ。この4%の世界で、僕らはどんなふうに宇宙と向き合っていくのか。この50年で、その答えがひとつ出るような気がしてね」
「4%の世界……ですか」
「うん」
佐久間さんは、腕を組んで、力強い眼差しで磁力発生器を見つめた。
「何か、急に現実味が増してくるだろ。宇宙開発と言えど、その実は泥臭いものさ。人は人が作れる物だけで世界を切り開いていくしかない。実直にね。日本人には得意な分野だ。だからこそ、新しい門出を迎える君に今見せておきたかった。熾烈な宇宙開発戦争の中で、4%の世界を守る者が必ず必要になってくるからだよ。僕は実際に宇宙に出てそれを確信した。世界は経済性と技術発展ばかりを目指しているが、高コストが掛かってもデブリ除去に向き合う櫻井さんみたいな変人が宇宙には必要なんだと。人類が航海に旅立つ前に、その海を荒らしておくなんて不思議な話だろ」
常磐鉄工所で研究していた電子レンジの磁力制御が、この磁力発生器に応用できるかも知れない――絶望の中でも、未来を感じた。消防車ほどの大きさの宇宙ゴミを、磁力の力で小型人工衛星が回収・大気圏突入と共に消失し、宇宙空間と宇宙飛行士を守る。
小さな町の鉄工所でしかなかった常磐鉄工所が、スペースデブリ回収事業の一翼を担う。夢のような話だ。だが、これは紛れもない現実だった。
鉄工所にとっても、私の人生にとっても、最大のブレイクスルーとなる出逢いだった。この取り組みによって、宇宙飛行士たちの傷口をひとつでも減らすことができるのかもしれない。毎晩見る悪夢が、この夜変わる気配がした。
「どう思う」
「未来を、感じます。あと、日本の技術者の使命だとも」
「……そうか」
僕もそう思う――佐久間さんはそう言って頷いた。
その頃は、倭がアメリカ・ネバダ州で開催されたアマチュアロケット大会XPRSAと、あのARLISの缶サットミッション・コンペティションで総合優勝をチームで果たし、私は「彼は化け物だ」と曜子と電話越しに笑い合った。ここまで差がつくと、嫉妬心もなくなるというものだ。
「けど、天道君が遠くへ行こうが、どうせ糸はひとりでも前に進んでいくんでしょ。これまでと同じように」
曜子の言葉だ。私は「何をいまさら」と笑った。
「倭は必ず月に行く。私はとりあえず、世界一安全なロケットを開発していこうと思う。安全に飛ぶのは勿論、未来を変えるロケットを」
「大きくでたわね」
「何年、何十年かかるかは分からないけれど。それをやってみたい」
「夢物語でもないんじゃない。糸はやると決めたことは全部やっちゃう人でしょ」
有人宇宙ロケットの開発の歴史において、ブレイクスルーと呼べる瞬間が恐らく二度あった。
一度目は、1903年、二人の技術者が「宇宙に行くために必要なのは、大砲ではなくロケットである」と気付いたこと。二度目は、アポロ11号が人類を月面まで連れて、ちゃんと地上へと帰ってきたことだ。
誰かが、やらなければならないのだ。使命を胸に宿した、誰かが。
***
蝉の鳴声に、広大の怒号が重なる。私は鎖骨まで流れていた汗を手で拭った。目の前で広がる現実の世界は、どうしてかいつも騒騒しい。
「――父ちゃん、もうええって!」
「やけどな、広大!」
「ああ、もうっ。一回麦茶飲んで落ち着けって」
まだ言い合いをしていた広大と父は、父が台所へと麦茶を取りに行ったことでブレイクタイムとなったようだった。
「なんで姉ちゃんが笑てんの……オレはもう疲れたわ」
別に笑ったつもりはなかったけど。そう答えた私に、広大は唇を尖らせた。
「倭くんのこともさぁ……オレもよく事情は知らんけど。もう忘れたらいいんやない? だって、女を泣かすような男は駄目やって、クラスの女の子が言よったし」
「広大の好きな女の子?」
「ちゃうって! 姉ちゃんさ、昨日やたらと月面着陸のテレビに釘付けになっとったやろ。アポロの話を倭くんとようしよったのは覚えとるけどさぁ……もしかして、いつか倭くんと月にでも行こうとしとるわけ?」
我が弟ながら鋭い。3歳年下の広大はいつまで経っても子供だと思っていたが、彼も私と同じで知らぬ間に大人に近付いていっているのかもしれないと思った。現実と理想の曖昧なラインでもがく、ちょっと苦労をするタイプの大人に。私は、もう一枚紙を寄こすようにと広大に告げた。
「なに? また折んの?」
今度帰省した時には、大学で作っているアマチュアロケットの製作図を見せてみよう。首を傾げて上目遣いで見上げてくる弟に、私は唇を震わせて笑う。
「姉ちゃん、何笑てんの。ちょっとキショいよ」
「うるさいわ」
別の人生があれば、大人になっても曜子や倭をこの家に呼んで、みんなでペーパークラフトを作って遊んだりしてもよかった。宇宙の話なんて一切せずに、たわいもない世間話をしながら、大学の課題の愚痴を言い合ったり、夏祭りの計画を立てて、レンタルビデオで何を借りるかの相談をしたりして。
だが、それは見知らぬ誰かの人生だ。
私は目の前の紙に集中し、広大に折り方を説明した。ひとつ折り、次の道筋を作り込むように、また重ねて折る。
「姉ちゃん、早いって!」
「硬球の方が目で追うの大変やろ。ほら、見て覚え」
母さんは助からない。鉄工所の経営はうまくいかなくて、父は倒れて、あまりに優秀すぎる幼馴染は遠いアメリカの地へ旅立って一向に帰ってこない。初恋や夢、大好きな人達が随分と遠いところにいってしまったと泣き暮れた夜が幾夜も過ぎ去った。人生はうまくいかないことのほうがきっと多い。世界は案外親切じゃない。倭が月面で死んでしまう悪夢は、未だに毎晩私を苦しめる。
「……あれ? ちょい待って。前と折り方違てない?」
「広大、もし姉ちゃんがこのままどっか遠いとこに行くって言ったら、引き留める?」
広大は首を傾げて、それから日焼けした浅黒い顔で「遠いとこに行くん?」と純粋な目を私に向けた。
弟がこの先の長い人生で、真っ直ぐに遠くまで長く飛んでいけるのならそれは何より喜ばしいことだ。野球選手でも折り紙教室の先生でもゲーム会社の社員でもいい。姉の背を見ないで、父さえも飛び越えていって大空で羽ばたいてくれればいい。平穏で幸せな日々がこの子に訪れますように――そう願っている私に向かって、広大はあっけらかんとした表情で答えた。
「姉ちゃんがやりたい事あるんやったら、やったらいいんやない? だって、姉ちゃんだってそうやってオレの背を押すやろ。何をいまさら」
私は折り終わった紙飛行機を手に、庭の木に目を移して頷いた。広大もこっちを見てはいなかった。頬の汗を拭う。最初で最後の弟への人生相談を、私は「3、2、1」の合図で終わらせた。
「お! すげえ!」
広大の歓声が上がった。白い紙飛行機が、光の中に吸い込まれて飛び立つ。たった少しの推進力だけで軌道は美しい弧を描いた。ムギワラギクが天を向いた南側の庭の先まで、その真白い残像は続いてゆく。鉄工所の敷地の奥まで飛んだ紙飛行機に、広大がぴゅうと口笛を吹いた。
「いえぇい! 姉ちゃんさ、将来本物の飛行機も作ったらええんやないん。才能あり過ぎるって」
「それは世界に山ほどあるから……。姉ちゃんが作らんでも大丈夫そうや」
「じゃあ、世界にまだ無い飛行機作ったら? 月までいける飛行機を作ったらええやん! 素材は紙とかさ、エコな感じで。まだ誰もやったことないやり方でさ」
「月まで行ける飛行機? 誰もやったことがないやり方で……」
その時、私の中である映像がさあっと駆け巡った。全長が50mほどある大型ロケットの姿だ。なぜかそれが飛び立つと、たくさんの人の笑顔をつくれる気がした。白いフォルムのその姿は、どこかNNSAのスペースシャトルを彷彿とさせる。
いつの間にか広大が隣に並んで立っており、私達は姉弟二人で無重力実験塔を眺めていた。
「姉ちゃん、」
「うん」
「無重力実験塔とか、オレにはよう分からんもんを父ちゃんらは必死こいて作っとったけどさ。要は、『情熱』なんやろ? そこに届くかどうかなんてさ。姉ちゃんは多分すごいもんを作るよ。弟のオレが言うんやもん。絶対やわ。世界のなにかを変えるよ」
父の言葉を借りて、広大は姉である私にそう言った。私は太陽の光が照りつけるアスファルトを見ながら、胸を襲うむず痒さに口の端を上げたり下げたりした。
「そうか……広大が言うんやったら、世界初のなにかを作ることもできるんかな……」
私が呟くと、広大は急に伸びをしはじめ、頭の後ろで手を組み、「まあ、ええんやない?」と軽い調子で声を上げた。
「倭くんには正直勿体ないけどさ。まあ仕方ないけん、貸してあげるよ。月やったら、3日くらいで行って帰って来られそうやし」
流れる雲を見ているふりをして、そんなことを言う。広大の横顔は微動だにせず、耳まで真っ赤にしていた。私は心の中で、愛する弟の成長ぶりを母に自慢した。
私の弟は、ものすごく良い子に育った――決して口に出しては褒めないけれど、私は心の底から弟を誇りに思う。
倭に密かに憧れていた広大は、姉弟で宇宙飛行士になれたらいいのにと父さんに話していたらしい。だが、父さんに似ておっちょこちょいなところがある弟の事だ。野球部での怪我は未だ心配が尽きないし、鉄工所再興の為に斎藤さんと町田さんと何やら相談をしているみたいだが、姉が一大プロジェクトを持ち掛けたら一体どんな顔を見せるだろうか。
「……おおい、もう父ちゃんも混じってええ?」
遠慮がちにかかった声に、広大は真っ赤な顔で勢いよく後ろを振り返った。デリカシーが無いだの、盗み聞きなんてするから姉ちゃんに嫌われるんだなど、苦笑している父の背中を遠慮も無く叩いている。
私が止めようとすると、「あ」と父が声を上げた。その声につられて、広大と私が、開け放した南側の窓を振り返る。真白い紙飛行機が夏風に舞い、無重力実験塔に戯れるようにしてくるりと旋回した。やわらかい軌道を保って、そのまま実験塔に寄り添いながら地面に着地する。白い折り紙がこちらを見てくすくす笑ったような気がして、夏の蒸し暑さは一瞬どこかへ消え去った。
「じゃあ……そろそろ出掛けるか。そば食いに、な」
父は鼻の下を指で擦りながら、白いタンクトップ姿で玄関に向かう。広大が遅れながら後に従い、自分のブルーチェックのシャツをその背に押しつけていた。「下着姿なんてみっともない!」という賑やかな声が聞こえてきて、私はもう一度庭を振り返った。
――糸。あなたの夢は、倭君と月を目指すことだったでしょう。
そんな言葉が聞こえた気がして、右手を見下ろす。広大が興奮するような、白い機体を作り出した手。『トキワⅠ飛行機』は、いつか月まで飛んでゆく事を目指して折った試作機だった。その事実を掴み取るように、右手を握り込む。
「本当の変人になってみても、いいんかな」
ムギワラギクが、実験塔とじゃれ合いながら首を縦に振る。母さんが植えたこの花は、「黄金の輝き」という花言葉を持つ。私は窓まで駆け寄り、天を見上げた。
「宇宙馬鹿は、しっかり遺伝した!」
今はまだ見えない月。青い空を見上げて、大学卒業後の進路に己が突き進む道を確信した。スペースデブリ回収事業の協力と、月まで届くロケット作り。
「両方をやっていく。できるところまで」
どちらの道も、私には必要なあみだくじの線のひとつだったにちがいない。奇跡を待つより先に、まずは踏み出す。デブリ回収事業からなんとかやっていって、その後はやりながら決めればいい。
正解の道がどれなのか、どちらを選択すればよかったのか、道の半ばにいる今はきっとまだ分からない。どちらを選んでも人は後悔する――見学を終えた夜、佐久間さんは私にそう告げた。「だから、夢を持て」と言って笑った。
「おおーい、糸! はよ行くぞー」
生きていれば色んな事が起こる。世界はなにも自分の為に回っているわけじゃない。だからこそ、自分のことくらいは自分で楽しませなきゃいけない。
「いま行く」
必ず、月面へ。やり方はまだ分からないが、やらないことには始まらない。
私の心には、新たな火が灯った。