【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第8話
『チキンスープにはロマンが詰まっている』
そう言った淑女の手製のスープには多めのジンジャーが入っていた。それがほんの少しだけ刺激的で、胃をじんわりとあたためてくれる。
空調の効いた部屋の中で鍋を洗い終わった彼女は、「マリアよ」と一つの写真立てを持ってきた。ダイニングテーブルには椅子が4脚あって、彼女は写真立てを窓際の席に置いた。
「写真の良い男は、旦那のニック。ニック・マイヤーよ。あたしは、マリア・マイヤー。イニシャルがM・Mだし発音が紛らわしいし、それでしょっちゅう旦那とは口喧嘩をしたんだけれど」
「……素敵な旦那さまですね。ここにはお一人で住んでいらっしゃるんですか」
「基本はそうなんだけど、ハンサムな若い男の子が時々遊びに来ていてね。目当ては私じゃなくて、旦那の書庫なんだけど」
口に手を当てて忍び笑いをするマリアは、とても魅力的な女性だった。74歳だという彼女は仕草のひとつひとつに品があり、笑い皺が愛想の良さを滲み出している。スリルのあるドライブと打って変わって、邸宅の中は小花柄の壁紙が可愛らしく、温もりある調度品がマリアの思い出を物語っていた。
「うん、お腹も満たされて、穏やかな顔になってきたわね」
優しい笑みに見つめられて、私は部屋の中を見回していた目を止める。こっちへ来てみて、と庭のほうへと連れて行かれると、そこには小さな温室が作られていた。大きなガラス製の鳥籠のような造りで、夏の今はドアが開け放されたままになっている。
「鉢植えの小さな植物が好きでね。さっき、素敵な男の子が遊びに来るって言ったでしょう。彼が、”ある花”をやたらと大事にしていてね」
マリアが見せてくれたのは、パンジーに似た青紫色に黄色が混じった花だった。小さな鉢植えポットが棚の上に無数に並ぶ中、その花はあまり目立たない。だが花弁が小振りで愛らしく、上品なマリアに似合いの花だった。
「素敵ですね。パンジーの一種でしょうか」
私が訊ねると、マリアはくすりと笑う。
「かわいらしいでしょう。ゴールデンブルースって名前の花なのよ。パンジーの姉妹花だから間違えて買う人もいるわ」
「そうなんですか……。私も初めて拝見しました」
小さいながら、その姿はまるで闇夜に浮かんだ月を捕まえたようだ――その無意識の呟きは声に出てしまっていたようで、マリアは驚いた声を上げて「まあ!」と言った。
「あなた、詩的ねえ。ロマンチストだって言われない?」
「あまり言われませんが……」
赤面した私のことなどお構いなしに、マリアは「それかもしれないわ」と頷く。何かに閃いたような顔だった。
「それかも……?」
「〝彼〟がどうしてこのゴールデンブルースだけ気にするのか不思議でねぇ。何度か理由を尋ねてみたんだけれど、照れて言わないのよ。でも、あなたのおかげでヒントがつかめたわ。きっと愛する人がいるのね。月を連想するような、ヤマトナデシコのようなお相手が」
「は、はあ……」
「あら。年頃のお嬢さんなのに、若い男の愛の話に興味がないの?」
見ず知らずの男性の恋愛について、いきなり話が盛り上がるというほうが無理がある。
そう伝えると、キャシーを彷彿とさせる表情で「もっと素直にならないとダメよ」とマリアは眉を顰めた。マリアがニックとの出会いについて語り始めようとした時、ベルの音が庭先まで響いた。マリアが「あら」と部屋の中を振り返る。
「御来客ですか?」
「そうみたいね。今日は夜に予定があるから来ないって言っていたんだけれど」
頬の手を当てたマリアは、年相応に刻まれた顔の皺さえなければ可憐な少女のようだった。ラベンダーの良い匂いを漂わせ、「ここで待っていてくれる?」と大きな瞳で見上げてくる。
「あの、お客様が来られたなら、私はもうこれで」
「いいのよ、いいのよ。もう少しゆっくりしていって」
「しかし……」
「ちゃんと待っていてね。すぐ戻るわ」
マリアが小走りで温室を出て行く。薄紫色のワンピースが、満月の下で小じんまりと咲くゴールデンブルースに重なって見えた気がした。
私はふと、この家に来る青年の想い人がマリアではないのかと気付いた。
「かわいい花だね……私とはちがう」
小さな鉢植えを手に持ち、ぼうっと眺めていた時だった。
ぱたぱたとフローリングを軽やかに蹴るスリッパの音が聞こえ、鈴の音の声が「こっちよ。よかったら紹介するわね」と誰かを引き連れてくる。ガラス張りの温室の中は、月明かりがすべてを照らし出していた。
「糸……?」
そこに、低い声がよく響く。私の手からはジンジャーエールの缶ジュースの時のように、鉢植えポットが引力に引っ張られた。「あ!」というマリアの声と共に、黒い影が目の前に迫る。真黒いTシャツから伸びた逞しい倭の腕が、私の手を支えていた。
一回りは大きな手の平が、私の手とゴールデンブルースの鉢植えを下から掬い上げるようにしてやさしく握り込む。
「落とされたら困るよ」
「ご、ごめんなさい」
目の前がちかちかする。夢で何度も見た倭の手は、驚くほど熱かった。幼馴染であったはずなのに、倭は随分と遠い場所に行った男性になった。手の温度を知って、それが尚更によくわかった気がした。こんな大人な男の人の手は知らない。
「あら、いつまでレディの手を握っているつもり?」
グレイヘアーを軽く揺らして、マリアがにこやかな笑みで彼の肩に触れた。
パブの裏庭で黄色人種の肌について差別的な言葉を受けた倭は、私よりもわずかに日に焼けた手をゆっくりと外した。節くれ立った指の先端まで、私にはどう見ても見知らぬ美しい生き物にしか見えなかった。
「あなたが怖い顔をしているから、彼女がびっくりしているじゃない」
「……どうしてここに糸がいるんだ」
「なんだかお知り合いみたいね? でも偶然なのよ。あら、本当よ?」
マリアと倭が親子のように口論を始める。まさか、温室に来るという若い男性が、天道倭のことだったとは。ラベンダーの匂いがふわりと香る。
「だからね、ガスステーションの前で倒れていた子をうちまで連れてきたのよ。放ってなんかおけないでしょう? 金曜の夜なんて嫌な酒飲みで溢れかえっているし」
どきりとした。ほんの数歩先に立っていた倭の横顔が険しくなったからだ。私は倭とカールに礼も言わずに走って逃げてきたことを思い出し、俯いた。そんな私の表情を見てか、マリアは私に近付き手を握った。
「明日が休日なら、よかったらここへ泊まっていってはどう? 部屋は余っているのよ。明日の朝も美味しいチキンスープでおもてなしをするわ」
緊張で冷えた手先を、マリアは何者かから隠すようにして両手で包み込んでくれる。倭の手とは違っていて、安心を与えてくれる温度だった。黒い影が動いて、ラベンダーの香りが薄まる。
「彼女はNNSAの同僚なんだよ。テキサス州には先日来たばかりで、道で迷子にでもなったんじゃないかな……。僕が送っていくよ。訓練施設から近い町のホテルに滞在しているみたいだから」
「……あら、ホテルの場所まで知っているのね?」
「僕の友達の彼女のルームメイトなんだよ。同じ日本人だし、他の同僚たちよりは知っているさ」
マリアは私の顔を一度じっと見つめてから、それから「でも、ダメね」と笑った。倭の顔が再び険しくなった。私の手を握るマリアが、月の光を半分だけ受けた倭の横顔を見上げる。
「あなたはまだ少年のよう。月に憧れすぎて、大事なものを見失っているわね。手を伸ばす事は大事だけれど、強引に伸ばし過ぎてもダメなのよ」
マリアは私の肩を抱いたまま、玄関の前まで一緒に歩いてくれた。
「廊下の先の、青い扉の部屋に入っておいて」
そう小声で耳打ちしてから、マリアは再び倭がいる温室へと戻ってゆく。
私はどうしようかと逡巡した。温室のほうを少しだけ振り返る。ゴールデンブルースを持った倭と、マリアを挟んで目が合った。見知らぬ男性の顔だった。私はすぐに目を逸らした。
倭から逃げるようにして玄関を通り過ぎてから、廊下の先のドアノブに手をかけた。ふと、扉の前には、いくつか写真が飾られていたことに気づいた。オレンジ色のジャンプスーツを着た若い青年の姿があった。その青年の隣で微笑んでいるのはマリアで、反対側には彼女の夫のニックもいた。2010年7月7日の日付が白いマジックペンで書かれている。場所はスカイラブ宇宙センターの敷地内だった。この青い芝には見覚えがある。
倭とマリアが家の中に入ってくる音が聞こえ、私は慌てて青い扉をノックし、ドアノブを回した。
「失礼します」
マリアと倭以外に誰もいない家の中だ。返事はない。扉を開くと、小さな光の粒が目に入った。鮮明な輝きではない。それがいくつもある。月明かりの中に浮かび上がったのは、無数の夜光シールの淡い輝きだった。星型に切られたそれらが、天井と壁を埋め尽くしている。
「さっきの写真の、宇宙飛行士……」
マリアとニックの御子息の部屋――それがすぐにわかった。
天体望遠鏡がカーテンのない窓辺を向いていて、偶然なのかちょうど月のある位置を狙っている。本棚にはカール・セーガンの著書やアラスカの写真集、SFの父と呼ばれたジュール・ベルヌの作品『月世界へ往く』などが置かれ、宇宙を目指す者の好奇心の気配がした。
何よりも目立っていたのは、ベッドシーツの上に横たわったNNSAのジャンプスーツだ。オレンジカラーの布地の上に、濃紺のワッペンが眩しい。そこには〝ノートン〟の名が刻まれていた。
紙が擦れる音がして、薄暗い室内を見渡す。開け放された窓からは気持ちの良い夜風が入ってきていて、デスクの上から何かを攫っていった。拾い上げてみると、それは1枚の茶色い便箋だった。
「…………」
他人の手紙だ。不謹慎だと思いながらも、私は便箋を開いた。開け放した窓の先にある月夜に、無重力実験塔に寄り添って舞ったあの日の紙飛行機を思い出した。二つ折りにされた便箋を開くと、先頭にDear, の文字があった。その後の宛名は空白だった。
「どこかに……」
〝どこかにいる君へ。
これを書くのは正直迷った。都会へ行った君を想うとね。
先日、訓練中に事故が起こった。軽傷だったし、それは大丈夫だけど。これが月の上で起こったらどうしようかと怖くなった。君無き世界ってどうだろうか。そんな世界、ぼくには想像もつかない。だから、君が悲しむことがあるかと思うと告白できないでいる。ただ、何かあった時には……。
ぼくは君が悲しい時に勇気が出るよう、ここに言葉を置いておく。
口にしたらすごく簡単なんだけれどね。
世界はぼく達のためにあるわけじゃないってことだ。
だから悲しいことは無遠慮に巡ってきて、それは悪夢と一緒で、自分じゃどうしようもない。ぼくらはつらくてかなしい夜を、きっと何度も与えられるだろう。
じゃあどうするかって?
君の人生を最高に楽しくしておくんだよ。地球は回る。月もだ。不幸の巡ってくる確率も同じくまわってくる。だから、他は全部楽しくしておくんだよ。自分自身でね。
恋をしたり、ブルースを歌って、周りが馬鹿だって言っても宇宙飛行士を目指したり。大好きな人に気障な手紙を残して、こうしてひとりで照れたりしてね。
明日は2度目の訓練だ。きっと克服してみせる。
また会おう。
親愛なる友人へ。From Norton 〟
読み終わった手紙が、パリ、と乾いた音を立てた。軽い筈の1枚の紙に、私は重たい鉛玉を握った気分になった。
「ノートン・マイヤー……そうか、思い出した……」
2010年、ヘルメットに亀裂が生じたことで水中訓練中に溺死した宇宙飛行士の凄惨な事故があった。その宇宙飛行士の名が、ノートン・マイヤーだ。1980年代に起きた同じ悲劇を繰り返し、組織内では二度と起こしてはならない事故だったと言われている。
便箋は、ノートンのデスクの上に何通も置かれていた。宛名の無い、出せなかった手紙の束だ。アポロ計画以降、2度目の月面着陸計画を夢見た青年は、テキサス州の小さな民家の一室でずっと月を眺めていた。優秀なパイロットだったのだろう、棚の上にはいくつものトロフィーや小型ジェット機のライセンス証が飾られていた。
私がNNSAでやることは、惑星探査機の開発に関わることだったが、宇宙開発には多くの人材と時間と魂とが費やされている。華々しく飛び立つロケットに辿り着くまでに、あらゆる人々の人生が糧となってきた。
「……失礼、入っても良いかしら」
マリアの声が聞こえて、私は鼻を啜った。目尻の涙を拭い終わった頃にドアが開いて、夜光シートの滲んだ光が満ちた部屋の中、倭がひとり立っていた。
「……マリアは、」
私が問うと、倭はドアを中途半端に閉めながら、「ジンジャーエールを作ると言ってキッチンに行ったよ」と壁紙を見つめた。私も夜光シールの歪な星型を目で追って、互いに目を合わせなかった。
無言が続き、ようやく口を開いたのは倭が先だった。
「それ」
倭がノートンのベッドに腰を下ろす。撓んだベッドマットに手を添えて、「読んだの?」と上目遣いで見上げてくる。私は青白い彼の額のあたりを見つめながら、「ほんの少し」と嘘をついた。
「そう」
倭は額を両手で覆い、頬や目元を隠す仕草をした後、「そういう意味じゃないんだ」と呟いた。
「…………?」
ノートンの手紙についてかと再度便箋を開くと、「ちがう、パブの時の」と焦った声が飛ぶ。
「だって」と、倭が短い前髪を掻く。
「……GBなんて、まさか君がそういう意味で捉えるなんて。あれは、別に君が思っているような意図はなくて」
私は、ああ、と思った。パンくずを掃除するから一緒に月を観に行こうと腕を掴まれた時も、私は同じく嗚呼と思った。
「”ギガバイト”のあだ名のことは気にしていないよ……助けてくれてどうもありがとう。本当はお礼を言ってから立ち去るべきだったのに。……ホテルには帰るよ。仕事は結果と誠意を見せて、みんなに認めてもらおうと思っているから」
私が帰ろうと爪先をドアに向けると、額を手の平で覆った彼がその前に立ちはだかった。私の目線の高さに倭の肩があり、この身体で暴漢が昏倒させられたのかと思うと少しだけ身が竦んだ。
「そうじゃなくて、糸、俺達が会うのは13年ぶりとか、……そういう感じだっただろ。だから、」
「本当に久しぶり。ちゃんと挨拶をしようとは思ってたんだけど。ごめん、忙しくて……」
「違う! いや、違うというか、苦手なんだったらああいうパーティには来なくていいと思うし、糸の仕事は皆分かっているというか、だからGBは別にそういう意味じゃなくて」
要領の得ない話し方の倭は珍しかった。直接会っていたのは15歳の春までだったが、その後の彼は国内外問わずメディアに取り上げられる有名人だった。町田さんの言うとおり、ARLIS大会優勝時点でファンクラブが出来上がっていたなら、本人も自分の人気ぶりには自覚があるはずだろう。
実際、現地メディアのインタビューではきはきと応える倭は見事だった。NJPLでの採用が決まった直後、私は『スペースどっとこむ』のバックナンバーを取り寄せ、倭のインタビュー記事をチェックした。それからは、タガが外れたかのように彼がメディアに露出した動画、記事、写真を漁りに漁っては夜通し眺めた。だから私は信じられなかった。インタビューの時やパブの時とは違う、今の倭の姿が。
「そっち、行ってもいいか。なんか話しづらくて」
口元を手で隠しながら倭が尋ねてくる。私は初めて見る彼の姿が新鮮で、綺麗な鼻梁をじっと眺めた。
「俺の顔を見てないで、ハイかイイエか言ってくれないか」
「あ、ああ……イエス」
英語で答えなくても良かったのに、倭は別に笑うわけでもなく、「望遠鏡が」と言った。近付いてきた身体は、私の隣にある望遠鏡の前で止まった。
「マリアが毎日微調節しているんだ。いつ来ても、このレンズは月を狙っているんだぜ」
「いつもこの家に?」
「え? ああ、毎日って意味じゃないよ……。偶に話をしにくるんだ。彼女がブリキのおもちゃを道に落として。偶然それを俺が拾ったんだ。ポケットに携帯用のドライバーを入れていたから、ベンチに座って直してた。そうしたら、15分後くらいにマリアが取りに来たんだ。『大事な息子の宝物なんだ』って。だから、俺とマリアが出会ったのもここ数カ月のことだよ」
倭はそう言って、外に張り出した小さな出窓に腰かけた。身長が高いおかげで、彼の足は膝を曲げた状態でもカーペットにぴたりと付いている。爪先がひらりと動いて、小さく苦笑する声が聞こえた。
「なんだか、ずっと俺の事を観察しているね。不思議な動物に見えるかい」
月光を背から浴びて笑ったその顔があんまりで、私は全身の毛穴という毛穴から汗を滲ませた。
「別に、じっと見ているわけじゃあ……」
「そうか。それか、よほど気に食わないことでもあるのかなと思ったよ」
含みを持たせた言い方だ。何故だか、15歳の頃から自分ばかりが振り回されている気がして、私は「彼女の前では僕って言うのね」と口走っていた。
長い脚を組んだ倭が不思議そうに首を傾げる。
「英語だと一人称はみんな『I』だろう? ”僕”だなんて言っていない」
それはそうだと思ったが、今更引き下がれない。私は妙なプライドに突き動かされてしまった。そうじゃないと、今すぐ心臓が丸焦げになってしまいそうで。
「雰囲気でそう感じた……その、彼女は良い人だから、花のこともすぐに気付いて、想いに応えてくれるとは思うけれど」
カマを掛けてしまった。少しでも彼より上位に立って、動揺なり、慌てるところが見てみたいという思いがあった。黒電話が鳴るのが数十秒遅いだけで、心配になって胸がざわついたのだ。二度と松山市に戻って来なかったことも、さほど連絡を寄越さずアメリカで青春を謳歌し、気付けばJADAの宇宙飛行士になっていたのだって今更どうでもよい。良くはないが、過去はどうにもならない。
すると、倭がびっくりするような声音で「花!?」と叫んだ。
「花って、まさか……ゴールデンブルースのことを聞いたのか!?」
「え、」
「マリアが何か言ったのか!」
「は、ハンサムで素敵な男の子が家にきて、大事にしている花があるんだって……」
そこまで答えると、倭は綺麗な二重の目を見開いて部屋を飛び出して行った。廊下を荒々しく走っていく音が響いて、遠くの方で「マリア!」と怒鳴っている声が聞こえてくる。私も慌ててその後を追いかける。他人の恋路を邪魔する者は何とやらだが、予想以上に開けてはならないパンドラの箱だったらしい。 あの倭が、こんなにも動揺するなんて。
だが、辿り着いたキッチンの先にいたのは、お腹を抱えて爆笑しているマリアだった。
「やっだわ、もう! あっはははは! 花を一緒に見ていただけよ。運命のイタズラよ、いたいけな年寄りをそんな魔女みたいに言って」
「どうして糸なんだよ……! べらべら勝手に人の事を喋るなよ!」
「あら? お知り合いだったんでしょう? いいじゃない、28にもなって本命の前でだけびくびくしちゃって。Boy. You’re in love , aren’t you ?(恋してるのね)」
「マリア、やめろ!」
「あはは。見なさい、イトちゃんが呆れているわ」
勢いよく倭が振り返り、私は背を正した。倭は「ちがう、誤解しないでくれ、全然違うから」と必死に弁明してくる。
「倭……」
花が繋ぐ恋というものが照れくさいのは分かるが、私は倭のその表情に年相応の人間らしさを感じた。パブで見た時の冷たい表情も今は見る影もない。
「なんだか、安心した……」
私の呟きに、倭は「え?」と動きを止めた。随分と会っていない間に彼は見知らぬ人になってしまったと思ったが、マリアの前で見せた少年の顔は、あの頃の倭を思い出させた。
「大丈夫です……私は誰かに言ったりしませんし、そんな噂話をする同僚もいません。呆れたりなんて、まさか」
「糸……?」
「あら、まあ」
マリアが薄いピンク色の唇を手で押さえる。
その隣に立っていた倭が愕然とした表情でマリアを見下ろした。うまくは言えないが、上品さがDNAまで刻み込まれているような二人は雰囲気もよく似ている。GBのあだ名を気にした倭の元来の優しさも今になって伝わってきた。
「二人が私にとってすばらしい人達であることに違いはありません」
倭が額に汗を浮かべてこちらを見てくる。マリアの夫であるニックが他界しているようなら、不貞行為というわけでもない。ノートンの部屋と手紙を見た後では、マリアの寂しさが沁みるように伝わってきていた。
この世界は自分のためにあるわけじゃない――今夜あの手紙を読むことになったのは偶然とは思えなかった。さみしさを覚えても、今はまだ立っていられる。
「……では、そろそろタクシーを呼んで帰ります。マリアさん、今夜は本当にどうもありがとうございました」
腕時計の文字盤を確認すると、すでに22時を過ぎていた。すると、「俺も帰る」と倭が隣に並んできた。本当に逞しく育ったようで、隣に並ばれると体格の違いに改めて驚かされる。
「いや、倭はもう少しゆっくりしても……」
「同じ方向に帰るんだから、二人で乗ったほうが都合が良いだろ。……じゃあ、帰るからな〝ばあさん〟!」
倭に背中を押されながら、ぎょっとする。口喧嘩をした後だからとはいえ、マリアに向かって「ばあさん」は手厳しいと思った。
「ごめなんさいね、イトちゃん。彼は今が青春期みたいなのよ。ヤマト、チョコレートは二人で食べるのよ。それから驚かせてごめんって、彼女にちゃんと謝るんだからね?」
「話がややこしくなるから、もう黙っててくれ!」
バン!と玄関の戸が閉まり、チューリップ形のランプの下で倭が俯いた。幼馴染みの様子に面食らったが、私は平静を装った。
「大丈夫?」
倭は何も答えない。
正直、ゴールデンブルースの話でここまで倭が過剰に反応するとは思わなかった。私の落ち度だ。来月から始まる月面着陸計画の宇宙飛行士選抜試験に向け、予想以上に繊細な時期なのかも知れない。
「道でタクシーを捕まえてくるよ……その、また明日」
恐る恐る声を掛けると、歩道に向かって倭も一緒に歩いてきてしまう。
「いや、」
私が振り返ると、片手をチノパンのポケットに突っ込んだ倭が「なんだよ」と言う。
「同じタクシーに乗るんだ。一緒に行けばいいだろう」
「それは、好きにしてもらっていいけど……」
しばらく歩いて、私は立ち止まる。
「でも、結構時間がかかりそうだから」
「……やっぱり一人で帰さなくてよかったよ」
ポケットからスマートフォンを取り出し、倭が「タクシーを予約するよ」と告げる。
「え?」
「アプリで予約しないと。糸、使ってないんだろう」
「スマートフォンはあまり触らないから……」
職場で使っているPHSのほうが好きだと告げると、なんとも言えない表情で見返される。
「ソフトウェアの開発に携わっているのに、やっぱり変わってるな君……スマホ、ちょっと貸して」
「スマホ?」
言われるがまま、ジーンズのポケットに入れていたスマホを手渡す。
「あのさ……今後は、知り合いだとしても無警戒にスマホを手渡すのはやめたほうがいいよ。……俺にはいいけどさ」
そう言いながら、倭は私のスマートフォンを遠慮無く操作しはじめる。液晶画面の上で指が何度か往復し、「はい」と返される。
「夜遅く帰宅するなら、必ずタクシーを使って。俺も使っているアプリをインストールしておいたから。あと、アドレスも」
「アドレス?」
「俺のアドレス。糸、プリペイド式の携帯からスマホに変えた時、電話番号も変えたんだろ。何度掛けても繋がらないから、絶交されたか、事故にでも遭って君が死んだのかと思ったよ。常磐鉄工所に連絡したら、生きてるって教えてもらえたけど」
「それは……」
申し訳ない。その一言が、出てこない。
「タクシー、あと10分で到着するって。思ったより早かったな」
「わかった。ありがとう……」
米国に来てほとんどタクシーに乗らない私は、役立たずのまま手持無沙汰になり、小さく欠けたアスファルトを眺めていた。無言の時間が増えるほど気まずさが増してくる。倭は自分のスマートフォンを熱心に眺めていた。
「……マリアの事は誰にも言ったりしないよ」
そばにいるはずの倭が、遠く感じる。私はスマートフォンに夢中の倭につい話しかけてしまっていた。隣の倭が焦ったように顔を上げる。
「どうしてマリアの話になるんだよ」
「あなたがマリアの事で落ち込んでいるから」
「……君が全然俺に興味を示さないからだろ?」
倭は「キューブサットの時もそうだ」と目が据わったような表情を浮かべた。
「人工衛星の小型化は日本人のほうが得意な分野だった。……そうしたら案の定、東南アジア初の高校生製作の人工衛星を作るプロジェクトが始まったって噂で聞いて。いや、噂じゃないな……常磐鉄工所のホームページ、広大が作ったんだろ。会社がリスタートした時も、社長が糸に変わった時も、ずっとチェックしてたよ。スペースインダストリー社がスポンサーに立候補した時も、もちろん」
「あ、あの、EARO打ち上げ、お見事でした。ARLIS大会優勝もおめでとう」
「なんで他人行儀なんだよ……」
「いや、」
「ARLISの時は、肝心な人は来ないし」そう言って頭を掻く倭と目が合う。「ようやく掴んだ僥倖だって、俺は蚊帳の外に放り出されて。天道倭が、いち企業を贔屓にするのは色んな大人達にとって都合が悪いんだとさ。でも俺は、常磐鉄工所と仕事がしたかった」
それは、父が聞いたら大喜びしたことだろう。幼い顔になった倭に、私は
「父さんも広大も、ずっと倭のことを応援していたよ」と伝える。
「糸は?」
「私も勿論、応援していたよ」
「……本当に?」
「インタビューを聞いた……動画も見たし、雑誌の記事も。天道倭の功績は色々と知っている。といっても、周りから教えてもらったことがほとんどだけれど。衛星のアンテナに使う巻き尺のバネ、スリッター技術は常磐鉄工所だけだって。ありがとう。父さんが感動してたよ」
倭が視線を落とし、スマートフォンの画面を見つめる。ブルーライトに照らされた整った鼻筋を見つめ、私は「ありがとう」ともう一度伝えた。
「べつに、俺は何もしていないけど」
「いや、試作機の段階で倭があの発言をしてくれたから、スペースインダストリー社がスポンサーに立候補してくれたんだと思う。最近のNNSA公式のファンコミュニティの動画でも、アストロブルースのことを話に出してくれたって、広大からメールが」
スマートフォンの液晶画面を見ていた倭の横顔が、赤くなって固まる。こんな時にエッチなサイトを見ているとは思えないが。
「……どっちの」
「え?」
「国内版と、海外版の、どっちを見たの。俺の動画」
「日本語の字幕付きじゃないと広大は見れないから、海外版かな……?」
「糸は、見たの」
「いや、私はまだ」
「あ……そう」
素っ気ない返事で、思ったよりも早く到着したイエローキャブに倭が手を上げる。アメリカのタクシーは客がドアを開けるシステムだ。後部座席のドアを開けて彼が先に乗り込むのかと見ていたら、倭は「俺も一緒に東南アジア初に入りたかったのに」と、私の身体をタクシーに押し込んだ。
「え?」
「世界は〝スペースインダストリー社の功績〟がどうとか言うけど、……再興した常磐鉄工所に戻った糸とプロジェクトがやりたかったから、必死に発案したんだぞ。EAROに乗せるのが決まった時は、よしきた、奇跡だ!って。これで堂々と会いに行けるって。そう思ったのに」
「倭?」
「……俺はプロジェクトから外されて、糸達の挑戦はEARO打ち上げ成功のニュースに掻き消された。想定していた未来と全然違って驚いてるよ。未だに文句言ってるのは情けないと思って、せめて海外版はカットしてもらうようにお願いしてたところだったんだけど。アストロブルースの挑戦、俺もそこに入って青春がしたかった」
そう言って、倭が外からドアを閉める。予約の時点で行き先を告げていたのか、そのままタクシーが発車しようとする。
「ちょっと……の、ノーノー! ストップ、彼も一緒で……」
夜道なのにサングラスをかけた運転手は、「ノープロブレム」と親指を立てる。同じところへ戻ってくれと懇願するのに、赤信号もギリギリの運転で飛ばしていく。
「エクスキューズミー、ちょっと、あの、すみませんが!」
どれだけ喧しく叫んでも手で追い払う仕草をされる。埒が明かずヘッドレストを掴むと、鼻歌が聞こえだした。フロントガラスの向こう側では満月が揺れている。どうやら雨が降り始めたらしい。ワイパーが動く度に歪む月は、サングラス男にとっては『ナイスビュー』だそうだが、私はこの時、何か嫌な予感がした。
「母さんの時の月に似てる……」
傘を持っていない倭への心配もあるが、それ以上に胸騒ぎがした。ただの勘でしかない。だが、最近またあの悪夢が毎晩繰り返されるようになった。スマートフォンが振動して、確認するとカールからのメールが入っていた。
「無事に帰れたかい……か。カールがいてくれて、本当によかった……」
カールのメールには、倭は良い奴なんだというメッセージが熱く綴られていた。私はいずれNJPLに戻らなければならない。縁起の悪い悪夢は続くが、倭のそばにはカールがいてくれる。
「もっとマシな夢をみよう……せっかく米国にまで来たのに」
シートに身体を預けて、目を瞑る。アメリカに来てまで倭を月面で失う夢を見るなんて、どうかしている。少し、今夜は色々なことがあり過ぎた。
ホテルに着いてすぐベッドに倒れ、私はそのまま朝まで眠った。