【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:最終話
2021年3月。私は、インドにあるサティジュ・ダワン宇宙航空センターにいた。
巨大モニターに映し出された、大型再利用型ロケット試験機RLV-IT。
衛星運搬用に開発され、機体にはデブリを回収してから大気圏に突入するキューブサットを搭載している。ロケット打ち上げ後は第2段エンジンまで回収し、再使用回数は50回を見込む。デブリ回収と機体の再利用を両立させた宇宙船開発技術が、ここインドで躍進しつつあった。この技術は後に日本に逆輸入され、完全国産ロケットとして数年後に宇宙に打ち上がる予定である。
「カウントダウン開始よ、トキワ!」
ロケットを初めて見る少女のような顔で隣に並んできた同僚に、私は「OK」と頷く。彼女よりずっと興奮しているのは、自分のほうだった。
『5、4……』
カウントの合図と共に、一昨年ヒューストンで別れた倭の顔が頭に思い浮かんだ。
惑星直列の奇跡の翌日、NYタイムズの一面を賑やかせたのはメジャーリーガーのゴシップネタだった。あの光景が現実だったのか夢だったのか、今ではもう確かめようもない。倭が滞在したのはあの後3時間ほどで、日本での本格的なリハビリを前に、私達は次の再会まで連絡を取り合わないことを決めた。倭が身体を治す8か月の間に、私はさらに前進することを倭に約束した。
彼はと言えば、そのうつくしい顔に挑戦的な笑みを浮かべて、「日本人の技術者と宇宙飛行士、それと国産ロケットで月に……次の夢だよ。二人でもう一度奇跡を起こそう」と、うちの父も顔負けの壮大なロマンとイマジネーションを置き土産に、1万1千km離れた祖国へと帰っていった。
私の心に、大きな情熱の火を灯して。
『3、2、1、……Booster ignition and lift off of the《rocket RLV-IT》(ブースター点火、ロケットRLV-IT発射)』
全長48m、重量244トンの再使用型宇宙往還機。RLV-ITは、インド南部アンドラプラデシュ州の基地から、23機の小型衛星とデブリ回収用キューブサットを乗せて打ち上がった。
青天の下。赤や黄色、橙色の炎が生き物のようにうねる。鮮やかなグラデーションの炎が飛沫を上げるのを見上げ、地上で見ていた人々は歓声を上げた。機体はそのまま真っ直ぐ天に向かって白い煙の尾を引き、人類の声援を受け、緩やかな弧を描きながら群青色の世界に姿を消した。月が待つ、あの世界へと。
ロケットは上空500kmを超えてから極軌道上で各衛星を分離・投入し、最後の23機目の衛星分離は打ち上げから92分後に実施。宇宙で切り離されたデブリ回収用キューブサットは、搭載したカメラで大型デブリを確認後、目標物を磁力で回収、大気圏に突入し燃え尽きた。
ロケット打ち上げ後、再使用が予定されている第1段、第2段エンジンは、発射地点から約700km離れたベンガル湾に着水した。
「トキワ! やったわ! 成功よ!」
開発チームの一人であるリアンが飛びついてくる。私は彼女と肩を組み、大声で叫んだ。うっすらと白い顔を覗かす月に向かって、右手を伸ばす。
「打ち上げは、大成功だッ!」
陸風はあたらしい海風へと変わる。新しい時代を予感させる風は、拳を上げた技術者の背を大きく押し上げていった。
***
それから数ヵ月後。インド宇宙航空研究機構(ISRA)は大胆な公式発表を行った。
教育・経済共に成長の著しいインドは、次の目標を見定めていた。当初、経済発展の目的のひとつとして商用打ち上げロケットの開発に着手していたインドだったが、『成功』は彼等を次なるロマンへと押し上げたらしい。
公式会見時の局長の自信満々たる顔といったらなかった。NJPLのロビーで、ニヤニヤと笑みを浮かべたキャシーに腕を突かれる。 その反動で、首から提げた来客用の許可証とパスポートが入ったパスケースが揺れた。
「キャシー、紅茶がこぼれるよ」
「ふふ。あなたの功績を忘れたのかしら。こっそり『トキワ』っていうロケット名に変えてやれば良かったのに」
そんな冗談に苦笑しつつ、スマートフォンの液晶画面を確認する。
『今後は3基目の発射台を建設し、有人宇宙船の発射を目処に5年後の正式運用を目指す。有人宇宙開発は我々人類にとって、いや21世紀の宇宙開発のメインテーマとなることは間違いない。宇宙開発競争は、アメリカ・ロシアのみならず、アジア全土がその構図に加わることだろう。安全かつクリーンな宇宙を次世代に残す、新しい宇宙開発の幕開けである!』
画面の中ではフラッシュを浴びた局長の満足気な顔が映り、私は手元のぬるい紅茶を啜った。
「ですってよ。怖いものなしのインド人って感じね」
昨年カールと結婚したキャシーは、髪をショートヘアに変えてますます美しくなった。
「糸がいま所属している会社の社長さんもあんな感じなの?」
白いシャツの襟に付けたバッジを指で押される。黄色いコーティング剤がきらりと光った。
「良い名前の会社ね。エコカーでも作りそう」
「直接の上司はそうだけど、うちのトップは日本人だから。仕事はとてもやりやすいよ」
「NJPLは二人の優秀なスタッフを失ってマネージャーが一週間吐いてたわ。ああ、そうだ。オンサイトの打ち上げ、来年に決まったわよ」
「そっか。思ったより早かったなぁ」
「焦りもあるのよ。インドからすごいロケットが打ち上がったから」
キャシーがウインクを飛ばしながら、もう一度「おめでとう」と言った。
ロビーを移動して、ゴールデン・レコードが展示されている正面入り口で足を止める。
「夢が叶ったのね」
「少しだけ」
紙コップを近付けて、二人で乾杯をする。キャシーが口の端をにやりと上げた。
「デブリ回収のための開発費用の押し付け合いは相変わらずなんでしょ?」
その言葉に、苦笑して頷く。
「うん。衛星の9割はアメリカ・ロシア・中国が占めているとはいえ、GPSの恩恵は世界中が受けているからね。こればっかりは、まだまだ時間がかかるかもしれない」
「いいじゃない。課題があるほうが燃えるタイプなんでしょ」
別にそういうわけじゃないが。キャシーは全てお見通し、といった表情で空になった紙コップを半分に折った。私も紅茶を飲み干し、キャシーに手を伸ばす。
「捨てておくよ」
「もう行くの?」
「午後の便で発とうと思っている……今まで本当にありがとう」
紙コップを受け取りながら、ハグをする。彼女が片腕に持っていた紙袋がかさりと音を立てた。
「あなたにプレゼントがあるのよ」
そう言って、紙袋から小さな鉢植えを取り出す。スミレ科の小さな花弁が愛らしくその顔を揺らした。
「ああ、ゴールデンブルース……」
その懐かしい姿に、私はマリアの温室のことを思い出した。あの場所で見たものより、さらに小ぶりだった。キャシーが不思議そうに首を傾げる。
「あら、これパンジーじゃなかったの?」
「パンジーの姉妹花で、よく似ているから間違えやすいみたい。マリアから教わって。すてきな花だよね。群青色の闇に浮かぶ、満月みたいな見た目がかわい……」
そこまで言ったところで、ぷ、と吹き出す声がする。彼女は「なるほどね」と言いながら、手元のスマートフォンでなにかを検索して、その画面を見せてきた。
「カールから頼まれていたのよ。ミスターサムライの復帰を早く拝むためには、イトに頑張ってもらうしかない……ってね。リハビリ中のテンドウのブログに毎回写っている花があるらしいの。カールは、『絶対トキワへのメッセージなんだ!』って。ふふ、大正解だったわね」
キャシーのスマートフォンの画面には、『私のことを想ってください』『思い出』『信頼』などの花言葉の英単語が並んでいた。
「すてきじゃないの」
「……私へのメッセージかどうかは分からないけど。きっとマリアの温室にあったゴールデンブルースだと思う。帰国する時に持って行ったそうだから」
「あら。他人行儀。彼のブログは一度も見てないの?」
「再会の日まで連絡を取り合わないって決めたから。まあ、元気そうでなにより」
「まったく、プラトニックねえ。NNSAが飛ばしたゴールデン・レコードくらい献身的だわ」
「あははっ」
さすが、カールの妻だ。宇宙を愛する男に惚れてしまった苦労をジョークに変えて笑い飛ばしてくれる。曜子とそっくりのキャシーとは、これからも良い交友関係が続きそうだった。
ふと、鉢植えに差し込まれていたタグを見つける。キャシーはこれを見逃していたらしい。そこにはGBの文字が可愛らしいフォントで綴られていた。
「どうしたの?」
「……いや、再会したら聞きたいことが色々あると思って。ああ、それよりも、花言葉ならこっちのほうが彼らしいね」
私はブルーライトを放つ液晶画面にそっと触れて、色別の花言葉に口の端を上げた。『揺るがない魂』――それを見たキャシーは、「良いコンビね」と苦笑しながら肩を竦めた。
午後になると、厚い雲が覆っていた空も晴れ、良い出立日和となっていた。キャシーと笑顔で握手を交わして、私はその後数人の仲間たちに見送られ、NJPLを後にした。
「さて……」
私と同じく、負けず嫌いの炎を燃やした男に会いに行かなくてはならない。太陽の光に右手を翳して目を眇める。15年前に倭が電話越しに伝えてきたとおり、光を浴びた芝は青く瑞々しく輝いていた。
◆◇◆
桜が満開を迎える頃。私は、空港内にある世界的に有名なコーヒーショップにいた。知人との待ち合わせのためだ。
「ふう」
スマートフォンを片手に、抹茶ラテを啜る。
店内のBGMは、『春の祭典』、『魔笛』と続き、いよいよ『メランコリー・ブルース』まで回ってきていた。人類のベスト盤とも呼ばれるゴールデン・レコードに収録された全27曲の内の3曲が続き、次は『鶴の巣籠』かなと予想する。店員に宇宙マニアがいるのかもしれない。
30分前にコンビニで手に入れた日本の新聞の日付は、2023年4月4日。期待の新人宇宙飛行士のスキャンダルが一面を飾っていて、私はにやけそうになる唇を手で押さえた。
『もう、完全復帰間近か!?』
女性アナウンサーとの密会を記事にされているのに、巨大な見出しには、挫折を強いられたヒーローに対する期待や鼓舞というものが感じ取れた。
「なんだかんだ愛されて、まぁ」
だからといって、美女と密会できるくらい回復したという記事も情けないものだ。飲み慣れないラテを一口含み、壁に飾られている金の塗装を施したレコード盤を見上げる。その時、スマートフォンが手の中でぶるりと震えた。
「タイミングがいいことで……」
液晶画面に表示された名前に、私は口角を上げる。通話状態にして、スピーカーを耳に押し当てる。
『…………』
だが、相手は何も言ってこない。遠くの方で聞こえる賑やかな音に、私は甘くて苦い抹茶ラテを一気に胃袋に流し込んだ。店員に「センキュー」と告げ、くずカゴに紙コップと紙ナフキンを捨てる。
店を出る前に、私は金の円盤の前で再び足を止めた。レプリカだが、満月を思わすその姿は広大な宇宙のロマンを感じさせる。虚空の彼方へと放たれたゴールデン・レコードには、長旅に耐えるために金メッキが施されたため、そのような呼び名がついた。
この人類のラブレターを受け取るのは、惑星探査機ボイジャーが辿り着く次の星――約4万年後、1.6光年の先に辿り着くと言われる途方も無い未知の大地に生きる「誰か」だろうか。それとも、ロマンとイマジネーションの象徴である音楽で宇宙にトライしたことは、無意味なことだったのだろうか。
しかし、かのカール・セーガンも著書「コスモス」でこう言っている。ゴールデン・レコードは、『挑戦することが重要だったのだ』と。
通話は相変わらず無言状態で、私は新聞紙を丁寧に折り畳んで鞄の中に仕舞い込み、シックな色調の店内を出た。
ワックスが丁寧に掛けられたミッドナイトブルーの床には、天井のライトが滲んだように映り込んでいる。昨今の空港ラウンジはまるで宇宙船のようだ。最新の機材と生々しい人々の息遣いで混沌としている。
世界旅行のCMを流す電光掲示板に、忙しそうにパンプスを鳴らす空港職員。大量のスーツケースに、大量の観光客たち。異国の香りに包まれながら、コーヒーショップの残り香がそこに混じって複雑な匂いがした。
「…………」
『…………』
どちらもなにも喋らない。スマートフォンのリチウム電池の熱が、耳にじわりと伝わってくる。
黒髪、ブロンド、人気アニメのキャラクターのコスプレに、強烈なピアスとタトゥー、信仰心の強い清楚なターバン。ジャングルを掻き分けるようにして、人の波を潜る。色とりどりのダウンジャケットを着た若者集団にぶつかると、突然ハイタッチを求められた。苦笑して、それには肩を竦めるだけにしておく。
この地球という惑星に生きる、あらゆる国籍、宗教、人種、セクシャルと分けられた数十億の人類――立ったまま寝ているおじいちゃんから生まれてたった4ヶ月の赤ん坊、シルクのスカーフを巻かれたチワワに、3億5000年前の姿を残したアンモナイトを模した土産品。
そのすべてから、今日に至るまでのお膳立てのような必然や運命という人智を超えた不思議な力を感じ取った。縁やタイミングとでも言えばいいだろうか。どのひとつの要素が欠けても、たった一本のネジさえどこかで緩むことがあっても、今日という同じ日は永遠に訪れないのかもしれない。
『The boarding time is delayed because of the bad weather――』
搭乗見合わせのアナウンスが頭上と耳元のスピーカーの両方から聞こえ、私は立ち止まった。そばにはディープキスの最中のカップルがいたが、気にもならなかった。
「Thank You, Boy!」
カーリーヘアーの御婦人に感謝された男性が、くるりと振り返る。子供が手に持っていたブリキのおもちゃを、今しがた胸ポケットに仕舞った携帯用ドライバーで直してあげたらしい。190cm近くある長身の男が、肩と頬でスマートフォンを固定して、笑みを浮かべて立っている。
周りの女性たちの好奇心の眼差しさえ気にしない男が「Boy」というのは、今後の話の種になりそうだが。
『Hello?』
ああ、でも、これだから。
私は天を仰ぎそうになりながら、心の中だけで「あーあ」と溜息を吐いた。どれだけ賑やかな色が、音が、光が、この五感に触れてきても。すべてを凌駕する存在がただ2本の足で立っているだけで、私はどこまでもまっすぐに進んでいけるのだ。
「おい、天道倭じゃないか、あれ……」
「ほんとだ!」
「生ではじめて見た!」
そんな興奮した声がどこかから上がっても、私と倭の表情は変わらない。耳に当てたスマートフォンをゆっくりと下ろし、通話をオフにした。周りに隠し撮りをされているのをとっくの前から気付き、それでも子供のおもちゃを淡々と直していたこの男に、改めて挨拶をしなくてはいけない。
エスコートなんてもんじゃない。数メートル先にいる彼を前に、私はポロシャツとジーンズ姿で右手を差し出し、日本が――いや、世界中が待ち望んでいた時の男に、「準備はいい?」と尋ねる。
「よろしく頼むよ、〝新人宇宙飛行士くん〟。……もう2023年、そろそろ月に行く準備は出来ている?」
8か月のリハビリと、4度の復帰テストをクリア。これがJADAの宇宙飛行士名簿に再度「天道倭」が名を連ねる条件だった。
事故から3年と2か月後、倭は異例とも呼べる復帰記者会見を行った。
「新人宇宙飛行士として改めて頑張ります。――ので、僕を月に行かせてください」とカメラの前で大人びた笑みを浮かべたのだ。
実質的に、会見を利用したJADAとNNSA側へのアピールとなったが、それと同時に多くの国内企業の宇宙開発への意欲を駆り立てることに成功した。メディアをうまく使うようになったのだ。困難を乗り越えてきたこれまでの経験が、倭に周りの力を借りて前に進むということを覚えさせたようだった。
まるでアイドルのような人気であったが、事故前であっても、天道倭が実力と実績を持ってヒューストンでの訓練に参加していたことを知っていたファン達は、この4月4日を心から待ち望んでいた。JADAとNNSA共同による『月面着陸計画』のロケット打ち上げ日は、1年後の2024年4月4日。
今日は、計画メンバーが合同記者会見を行う日だ。
一歩、また一歩と近づいてくる長い脚に、私も歩き出していた。お互いが歩み寄りながら、私の差し出した右手を、ぱん、と大きな手が力強く握り返した。
「遅くなった」
湾曲したヘルメットの中にあった、あの笑顔とは違う。でも、悪くなかった。今度は、倭がこの腕を掴んでくるのを私が待つ番だったのだ。
互いのポロシャツの袖に、赤い糸で日の丸が刺繍されている。私達は初めてのプラネタリウムにわくわくして待ちきれないでいたあの時と同じ笑顔で、今度こそ本物の月を目指し、固く手を握り合う。
「最高の宇宙飛行士と」
「……最高の国産有人宇宙ロケットで」
2024年、未来はすぐそこまできている。
「必ず、月面へ!」
これは、史上最年少記録となる34歳で月面着陸を果たす天道倭宇宙飛行士と、彼の人を乗せた有人宇宙ロケットRLV-GBの開発チームのひとり――打ち上げ成功後、後に「トキワⅡ」の愛称として知られる再利用型国産ロケットを手掛けた常磐糸宇宙飛行士の物語である。
了
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