【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第2話
『学生優待』――1999年に宇宙へ行った佐久間宇宙飛行士の発案によって、文部科学省の全面バックアップが学生の将来を後押しする素晴らしい制度が2002年に導入された。全国都道府県の知力・体力面におけるトップクラスの学生が、その恩恵に与るために日の丸の前で誓いを立てるのだ。それが、クールブルージャパン学生優待――略して『学生優待』である。
蚊の研究でアフリカの大地を救う、アジアに日本の伝統工芸の技術を伝えたい、VR技術を駆使した新しいビジネスの設立、そうした大人びた宣誓の中で、天道倭は「宇宙飛行士になって月面に行く。常磐糸と!」と叫んだ。美麗な顔に似合わない雄々しい叫びは、テレビ中継を見ていた常磐家でも当時、とんでもない静寂を呼んだ。
「倭君……」
父のぽつりと呟いた独り言に、中学三年生当時の私は冷や汗を流した。広大なんかは、聞こえていないふりまでした。後に聞いた話によると、この頃の両親と弟は、私と倭が将来結婚するような仲だったのではないかと想像していたそうだが、残念ながらそうはならなかった。
父の真意は知らないが、英才教育は完ぺきだった。無邪気に宇宙を夢見る父の顔は、愛や結婚よりも素晴らしいものに恋する充実感を教えてくれた。
特に、宇宙飛行士を夢見る少年にはテキメンだった。倭はすでに、人間の女の子などは眼中になく、月面と夢が彼の生きるよろこびだったのだ。
***
『これより、平成十八年度愛媛県立松山五田渡高等学校入学式をとり行います』
式の始まりが挨拶されて、体育館はしんと静まり返った。
だが、こういった厳粛な空気ははじめの内だけなのだと相場が決まっている。校長がステージに登壇をすると、それが何かのきっかけだったかのようにそれぞれが口元を緩ませる。校長の手に持たれた白い紙の長さから、数分は話が長引くと予想された。
「――あ、あれ天道じゃん」
真後ろの席に座った女生徒が、何かに気付いたように小さく声を上げた。 入学への不安とは別の要因で式に緊張していた私は、その言葉にどきりと胸を高鳴らせた。
「天道?」
「テレビのまんま。前のほうにいるよ」
思春期特有の熱を孕んだ女生徒の声。特定の名前に敏感になった右耳が、彼女達の会話をすべて拾い上げてしまう。
「誰?」
「天道倭って知らない? うちの中学の入学式直後にいきなり東京の超トップ校に転校したやつがいて。実家はこっちらしくてさ。小学校の時は同じクラスだったのよ」
「へえ、そんなすごい子がいたんだ、この田舎に」
「そ。ど田舎にね」
二人がくすくすと笑い合う。
「わたしさ、東京に従姉妹がいるんだけど。噂だと、中学1年の時から国の『学生優待』トップでバケモノみたいだったって。あれ知ってる? 偏差値78が国内の高校最高偏差値なのに、本人がそれ超えてるの。冗談みたいな話でさ」
「学生優待?」
「ニュース見てないの? まあ、わたしらには関係ない話だけどさ」
「見てない。アニメと月9しか見ないし」
「あんたねぇ。本人もスポーツ推薦と学力推薦でトップ校いけるバケモノだけどさ、両親がふつうじゃないの。JADAだよ。宇宙のJADA」
「へえ。じゃあ将来は宇宙飛行士になるの?」
「じゃない?」
「じゃあ、地元の県立なんてやめときゃよかったのにぃ。日本の高校生代表みたいな人が、松山五田渡なんてさぁ」
「なんか理由があるんじゃない?」
私の腿がぶるりと震える。握った拳の中に、汗が広がっていく。ハンカチを鞄の中に入れたままだったことを思い出し、スカートの糊のきいた表面に手の平を擦りつける。
『では、次にご来賓の皆さまの祝辞を――』
やっと校長の話が終わった。別の人にマイクが渡され、式は順調に進行してゆく。
私の背後にいる彼女達は、相変わらず倭の話に夢中だった。
「でも……マジでなんで松山五田渡に進学したの? ここふつうの県立だよ。東京のほうがいいじゃん」
「でも、あそこに座ってるの絶対そうなのよね。壁側の――」
そこで、彼女達の声を掻き消すように大きな声が体育館中に響き渡る。
『新入生の皆さんご入学おめでとうございます。ええー、本日はお日柄も良く……』
新任かベテラン教師なのか分からない30代の男性。ステージ上で話しているその大きな声に、オレンジ色の天井の照明。汗と石鹸と、香水の匂いに、誰かの朝食だったのかカレーの残り香。私の五感はフル稼働していて、同級生の少女達の噂話を鼓膜でキャッチしながら、無意識に目は誰かを探していた。新品のスカートの生地が張りを失っている。
「…………」
鼻から出ていく息が熱い。決別したはずの本人がいると思うと、気まずさと同時に、胸は逸った。期待と絶望みたいなものが一緒になっていた。会いたい気持ちが数秒ごとに増していくが、その時が来てしまうことが恐ろしいとも感じる。
『続きまして、新入生代表挨拶』
プラネタリウムを一緒に見た、小さな男の子。レプリカの月の石を見せてきて、これは特別な物なんだと教えてきた桃色の唇。少年が成長したらどのようになるか、想像したことがない日はなかった。
『挨拶、天道倭』
「――はい」
清廉な青年の声が、体育館の中に響き渡った。
パイプ椅子に座った大人や未成年たち、ここにいるすべての人々がその白い背を目で追った。他数百人の生徒と揃いの化学繊維でできたシャツを身に纏っているのに、彼ひとりだけに許されたような特別な光が満ちているような気がして。
私は、くらっとした。それは、背後にいる彼女達も同様であった。
「あってたよ、すごいよやっぱり、天道だ……」
「やだ、なんか彼こっちを見てない?」
そのとき、ステージ上に登壇した倭と目が合った気がして、私は硬直した。後ろに座った女生徒たちが嬉しそうな声を上げる。3年ぶりに見たその姿は、生まれながらに選ばれし人間とはこういう人物をいうのか、と気を失いたくなるような美しさだった。
『……柔らかく、暖かな風に舞う桜とともに』
陰日向――唐突にこの言葉を思い出した。あんなに美しい人間は立っているだけで特別なんだとわかってしまう。天道が立つのは常に人の上、そして光の下なんだと。体育館にいる残りの人間は、みんな陰の側になったのだ。
私は心の中で、ああ、と思う。
天道倭は自分の隣に居ずともずっと特別なままだった。あの時別れの道を進んで正解だったのは、倭の人生に自分がいなくても世界は廻り続けると教えてくれたことだ。丁寧な挨拶を述べるその顔が、先頭から2列目に座った曜子のことも確認したのが遠目に分かった。
『――最後になりましたが、これからお世話になる先生方、先輩方、私達新入生を温かい目で見守り御指導くださいますよう、よろしくお願いします』
手がぱちりと打たれる。まばらな拍手は、一瞬で火花のように華やいだ。ここにいる全員の期待が足裏を伝って共有され、会場が異様な興奮に包まれた。少しだけ見える曜子の横顔が、面倒そうに歪んでいるのが分かった。
『新入生代表、天道倭』
ここにいる皆が喜んでいた。なぜこんな逸材がやって来てくれたんだろうという期待を大いに膨らませて。倭は東京の名門校から田舎に戻って来ても、またすぐに有名人になってしまった。
きっと私はこれから何度もこの光景を目の当たりにするだろう。彼から遠い場所で生きることになったとしても、この人の背を見続けなければならないのか……。
『――やっぱり、駄目だった』
「糸?」
ざわざわと騒がしい音に、はっとして顔を上げる。目の前には、身を屈ませ私の顔を覗き込む曜子がいた。
「大丈夫? 式は終わったわよ?」
「……あ、ああ」
大丈夫。そう言って立ち上がろうとすると、力強い手が肩に乗った。
「常磐か?」
「え?」
「お前、常磐糸だろう」
振り返って見ると、式の間、壁側に立っていた若い男性教師が笑みを浮かべて私の背後に立っていた。
「は、はい、そうですが……」
「やっぱりそうやったか。南中学だったよなぁ。足が速かったけん、よう覚えとるよ。先生は陸上部の顧問をしとってね。入部、どう? 部の見学は今日からでも出来るんやけど」
押しの強い喋り方に、独特のイントネーション。国際文理科が新設された松山五田渡高校では、グローバルな教育を推奨している為に方言の伊予弁は教師でも敬遠されている。
だが、そんなことなどおかまいなしに、男性教師は喋り続ける。
「先生、お前の走る姿が好きでなぁ。綺麗やったぞ。好きな事をしとる時は人が輝くんよね。常磐を見とったら、この子は何か夢があるんやないかなって思っとって」
「あの……すみません」
「ん?」
「放課後は父の鉄工所を手伝わなければいけないので。部活には入らないです」
先生は「え?」と声を上げ、目を丸くした。私は、「弟もいるので、早く帰って家の事をやりたいので」と早口で告げる。
「だから、すみません」
「……弟君。そうか、お母さんが入院されとるっていうのは聞いたんやけど……。まあ、無理にとは言わんが。常磐、もしかしたら陸上でトップスター選手になれるかもしれんぞ。こういうのは資質も重要でな。今日の挨拶が立派やった天道とも雰囲気が似とるし。見学だけでもして帰ってみたら、」
「上野先生」
先生の話を横から遮ったのは、凜とした声の曜子だった。入学前から教師の顔と名前を把握していたのか、曜子は私の肩に置かれた先生の手を外しながら「後ろで待ってますよ、期待の彼」と体育館の外を指差した。先生と私が驚きながら、曜子の指先の方向を振り返る。
「天道?」
上履きから運動靴に履き替えた倭が、周りにいる数人の同級生達を見向きもせず、体育館の正面入り口でじっとこちらを見つめて立っていた。薄い唇が大きく開かれる。
「上野先生!」
大きめに張った声が、一直線にこちらに届いてくる。
「HRの時間が15分早まるそうです!」
「え!」
上野先生が素っ頓狂な声を上げ、急いで腕時計を見下ろす。肩を跳ね上げて大袈裟に目を丸くした後、スリッパを脱ぎ捨てて革靴を履いた。私と曜子に「おい、1-4の教室は遠いけんお前らも急げ!」と告げ、慌てて体育館を後にする。そのまま校舎へと先に駆けて行ってしまった上野先生を見て、隣では曜子が呆れた溜息をついた。
「ですってよ。あたし達も早く靴に履き替えるわよ、糸」
思ったよりも慌ただしく始まった高校生活に、私と陽子も体育館の下箱へと急ぐ。入り口に立ったままの倭を見ないようにスリッパを脱いで、急いでローファーを地面に投げた。手前に転がったほうに右足を突っ込む。だが、足を入れてからこっちは左足のほうだったと気づく。そうしてもたついている内に、黒い制服に肩がぶつかってしまった。
「あ、」
私は顔を上げる。
「おはよう、糸」
私はその言葉にうまく返事ができず、曜子に腕を叩かれて、左足がすのこ板の上に乗ったまま蹈鞴を踏んだ。
「糸。久しぶりだね。髪が伸びたな」
「お……」
おはよう。
また会えるとは思わなかった。
元気にしていた?
ごめんね。
東京で君はどんな風に過ごして――。
言いたいこと、聞きたい事が山ほどあったのに、なにも声が出ない。結局HRの開始時刻のギリギリまで私達は3人で見つめ合い、何の会話も交わることなくタイムリミットは尽きた。
記念すべき再会の一日目は、あまりにも気まずく微妙なものだった。
◆◇◆
それから私と倭の間に蟠りは残り続けたか――と言えば、そうではなかった。
「糸、ちょっといいか」
高校の入学式以降、同じクラスになった倭はちょっと引いてしまうくらいに人気者になった。だから、私達が過去の関係にこだわる必要は存外無かった。
彼のあだ名は、陽気なクラスメイトのおかげで〝神〟だったり〝GB〟だったりした。国産スポーツカーで当時トップクラスの性能を持っていた『G・Bシリーズ』にあやかったものだ。当然、女生徒からの人気は絶大だった。幼馴染だというだけで、私の頭に消しゴムが投げつけられたくらいだ。
「どういう用事?」
だから、こういう時は、先手を打って曜子に目配せをしなければならなかった。二人きりで会うと、机の中に嫌がらせをされる可能性が非常に高かったからだ。放課後はカラオケの予定だった曜子が渋々と席を立つ。
「……朝比奈がいないところで」
「曜ちゃんも一緒じゃないと無理だよ。机の中にパンくずを入れられるから」
途端に、倭はぐっと顔を顰めた。一度教室の窓のほうを見て、「田舎だよな」とぽつりと呟く。何を今更、と思ったが「それは、まあ」と応えた。
「パンくずは俺が掃除するから……。『星の会』に行こう。17時までなら入ってもいいって」
「誰がそんなことを言ったの?」
「佐藤館長だよ。ずっと手動上映を続けていたって。……なんだ、糸、俺と普通に口きいてくれるんだな。今日までずっと無視をされていたから」
また、「何を今更」と思ったが、敢えて口には出さなかった。
倭はまさに太陽だった。クラスの中心にいて、赤の他人を魅了する眩しい光そのものだった。そうだとするなら、私やクラスメイトたちは月になるだろう。恒星である太陽の光を受け存在を確認する、地球の衛星に過ぎない小さな月。
だから、私が毎晩見る悪夢のように、倭が月に潰されるなんてことは決してあり得ない。トップであり、多くの人よりも一歩先を進んでゆく存在。倭は、月なんて簡単に攻略してしまうのだ。私が、心配なんてしなくても。
そんな私の小さな葛藤など知るはずもない倭は、子どもみたいな目をキラキラと輝かせて、笑みを浮かべた。
「この時期は、星座より月の満ち欠けについての解説が多いんだ。だから行こう、糸。月を見に」
わざわざ月を見にいかなくたって。 そう言った私の手を、倭の手が力強く握った。途端に、クラスの端っこから女子達の悲鳴が上がる。「あーあー」と言う曜子の面倒そうな溜息が聞こえて、私も心の中で「あーあー」と諦めの声を上げた。
確かに父は、結婚よりも素晴らしいものに恋する充実感を教えてくれた。ロケットや天体、太陽系惑星探査のロマンは勿論そうだった。だから、「あーあー」と思ったものだ。
倭は、そのすべてを凌駕する存在であったから。この少年がいる限り、私の胸は焦がれ続けてしまうしかないのだ。永遠に手が届かないとしても。
「――子供二枚、お願いします」
大人52円、子供36円。
今年で75歳となる佐藤館長が、県から民間団体に運営が譲渡された「科学こどものくに」でプラネタリウム上映を再開させたのが20年前だ。自動投(オート)影とは違い、手動(マニュアル)の操作には熟練の技術を要するので、投影機の新調がいつか必要だと言われていた。
「糸、見てみろ。まだこれを使っているらしいぞ」
「……本当だ。びっくりした」
3年ぶりに訪れて驚いたのは、”それ”だ。佐藤館長以外には扱えない1964年製「S3型プラネタリウム」、東京オリンピックが開催された年に開発された日本最古の投影機がドームの中央に鎮座していた。意外に頑固なところがあるおじいさんのことだ、自分が現役で扱える内は新調する気などなかったのかもしれない。
投影ルームの入口の戸を閉めると、解説がゆっくりとスタートする。
『それではみなさん、こんばんは。……といっても、二人だけじゃな。まずは方角の確認から。正面に見えるのが、南向きの空の様子で……』
低く、鼻濁音が強いおじいさんの声が夕方の挨拶を告げる。50人しか入れない小さな投影ルームの中で、満点の星――とは言い難い、およそ本物の夜空の20分の1くらいのスケールの星空が薄暗闇に広がっていた。ビルや工場といった街並みは、黒い画用紙を切って作ってある。
「「……あ、流れ星」」
二人同時に声を上げた。
どちらからともなく、咳払いをして誤魔化す。隣県に新しく設立された天文博物館のせいで、子供だましのようなこのプラネタリウムに出入りするのは近所の小学生達くらいになった。今日はその子供達さえおらず、閑散とした午後の回になっている。
佐藤さんが投影したこの手作りの世界が、私と倭が生まれて初めて見たプラネタリウムだった。
だからだろうか。宇宙への憧れと羨望が、未だこの小さなドームの中で息を潜め続けているような気がしてならない。佐藤館長は、3年ぶりの再会となっても「倭坊と、糸ちゃんか。また二人でぎゃあぎゃあ騒いでも構わんからの」と、にこりと笑みを深めるだけだった。きっと、私達の間に流れている微妙な空気には気づいているだろうに。
私と倭は、もう以前とはどこかが違っている。
それを口に出して言うことでもないが、言うなれば彼は舞台役者で、眩しい彼を見ている私は一番前の座席から立ち上がれないでいる厄介な見物客だ。天道倭とは、月と太陽ほど遠い。私はすでに舞台を下りている。ただ、憧れだけを胸で焦しているだけの人間になっている。夢追い人ではなくなっている。
そんなことをぼんやりと考えていると、隣のパイプ椅子に座っている倭が「宇宙って知っている?」と唐突に尋ねてきた。月の解説を無視して、腕を組んでこちらを見ている。
「何をいまさら」そう言いながら、私は「ロケットが行くところ」と答えた。変に緊張して声が硬くなってしまったが、鈍い相手には気取られていないだろう。
「いや、宇宙飛行士が行くところだろ」
倭が言う。
「……それは1000回くらい聞いた」
私は少し呆れながら答える。
「1001回でも、1002回でも、宇宙飛行士が行くところだ。鳥は翼で空を飛ぶ、人はイマジネーションで月に行く。機械はエラーを起こしたら、もうそれ以上飛べなくなるだろ? 生き物は万能だよ。やり直しがきく」
「夢で死にそうになっているのに」
「なにが?」
椅子の背凭れから倭が身を起こした。上半身を背筋よく伸ばして、隣のこちらを窺ってくる。しまったと思った。私は天井に映った薄い黄色の月を指差した。
「……なんでもないよ。ごめん。月を見るんじゃなかったの。今拡大されたよ」
「糸、お前も俺の夢の中で駄目になってたんだよ。最近はずっとその夢ばかり」
倭とは、ある時から「宇宙とはロケット」「宇宙とは宇宙飛行士」と、意見が対立するようになった。ある時、というのは母が本格的に病院の御世話になり始めたころだ。10歳くらいの頃だっただろうか。劣等感や嫉妬に悩むようになったのも、ちょうどその頃だった。
「なにが駄目になるって?」
私もむっとして、背を起こす。互いに月を見ているどころではなくなっていたが、佐藤館長のマイペースな解説は続いていた。 倭はこちらをじっと見たまま話を続ける。
「糸を月から見下ろしているんだ。自分も宇宙に行けばよかったのにって泣いていた。俺は宇宙飛行士になれたけど、お前はなれなかったから」
「……お前って言わない約束でしょう」
「つっかかるなよ。俺はいつだって糸と宇宙へ行くことだけ考えている。糸、受けろよ、あの試験」
「なにを?」
その時、『これから』と急に大きな声が響いた。佐藤館長からだった。
『これからの3年間、〝惑星直列〟という幻想的なショーが起こると言われとる。1800年に一度の奇跡でな』
倭と私は、同時に投影機の奥を見た。佐藤さんはウインクをしていた。私は突然何の話だと、呆気にとられていた。
思えば、お節介で優しいおじいさんはいつもこうだったかもしれない。私と倭が言い争いを始めそうになると、二人が興味を引かれる話題を大きな声で教えて、『だからね』と告げる。
『こんな奇跡みたいな天体ショーに立ち会えるんやったら、二人の願い事も叶うかもしれんぞ。まあ、仲が良えのはいいことじゃが、ちっと静かにせんか。せっかく星々の話をしよるのに』
まるで手のかかる二人の大きな孫を諭すような声音だった。折れたのは、倭が先だった。肩を竦める仕草を見せて、パイプ椅子に深く背を預ける。私も慌てて、星を見る体勢を取り繕った。
「……学生優待の試験。受けろよ。糸」
倭が小声で囁く。天井のスクリーンには、2m四方の安っぽい星空が浮かんでいた。必要な恒星が揃っていないから、佐藤さんが補助的に説明を加えないと星座も歪な形を描く。これをずっと見続けてきた。
「いずれ本物の宇宙に俺は行く。月面に、俺は行くよ。糸、必ずお前がその隣にいろ」
倭の顔はグレーに染まっていて、ちょうど満月の半分を反射した左側だけが眩しそうに光っていた。夢の中で、涙に滲んだ成人した男の顔を思い出す。ヘルメットの中で酸欠に苦しむその顔が幼い倭の顔と被ってしまって、思わず目を逸らした。
『いやあ。太陽系惑星8つすべてが直列するなんぞ歴史を塗り変える大事件やけんな。おっと、新しいお客さんかな』
黄色い光がドーム内に線状に射し込み、出入り口の扉を振り返る。濃紺地に白のチェック、それが逆光になって色も分からなくなっていたが、相手の表情はよくわかった。
「曜ちゃん……」
少し怒った表情の曜子だった。二人きりなのを心配して来てくれたのだろう。立ち上がろうとした時、大きな熱い手に腕を掴まれた。
「糸、返事は」
黒い瞳に、意志の強そうな眉。倭はひたすらまっすぐにこちらを見ていた。
彼は、一般社会に馴染まない特別な才能を持った人間だった。”馴染まない”という言い方は、少し合わない。生まれながらにしてスーパースターであるのだ。幼い頃は女の子のように愛らしい少年で、今はおそろしいほどにうつくしい。どれだけ歳を重ねても、どこにいても、誰と生きていても、天道倭は揺るがない。
3年前の中学進学の時。私は倭と同じ中学に行く約束を一方的に破った。倭は町中を探し回って「どうして」と私を問い質そうとしたらしい。父からその事を聞いて、会うことすら恐れて、私は電話だけで謝罪を告げた。
才能のあり過ぎる倭と同じ道に進み続けることが怖くなった――そう伝えると、『糸と一緒じゃなきゃ宇宙に行けても意味がないんだ』と、倭は小さな声でそれだけを言った。電話が切れて、倭が東京の進学校に転校したのはそれから数週間後のことだった。それで、絶交で、私達の縁はこれで終わり。
そう思って気持ちを切り替えようとしていたのに、今年の4月4日だ。高校の入学式の朝、倭はこの町に帰ってきてしまった。月を目指すという当時の夢を、うつくしい心とその身体に背負い直して。
「惑星直列が叶うなら……」
投影ルームに入ってきた曜子が、私と倭が座る席に近付いてくる。3年前のこともあってか、倭は「二人で誓いを立てたい」と、私の手を急かす様にぐいと引いた。
「叶うなら?……糸、はやく」
「叶うなら、宇宙を目指したい。本物の月へ。……でもそんな奇跡みたいなこと。特別な勉強も、全然してないのに」
「1800年に一度の奇跡じゃないと、一緒に宇宙に行く自信もないの?」
挑発にも近い倭の言葉に、私は「奇跡が起こらないと、同じ場所には立てない」と目を逸らした。能力に差があり過ぎることは勿論、鉄工所と父の夢、弟の未来、母の笑顔を守りながら倭の背を追っていくには、奇跡を起こすほどの努力と時間が必要なのだ。
だが、倭はそんな壁は軽く飛び越えてこいと言う。
「1969年に人類がはじめて月面を歩いてから37年……俺は2020年までには月に行く。糸、あと14年しかないからね」
そのプレッシャーは酷いものだった。だが、何故か嫌な気を起こさせなかった。月へ行くための必要な進路も覚悟もまだよく分からなかった。だが、倭の言葉は萎みかけていた心に小さな火を灯してきた。私は思わず頷いていた。
決して楽な道のりではない。常磐鉄工所の経営を支えながら、宇宙開発の道へ進むことになるのだ。14年後なら、技術者もロケットに乗る時代がくるかもしれない。夢にまでみたブルースーツ、その胸に常磐糸の名が刻まれるところを想像して、つい表情が緩んだ。悪夢の結末を変えるのは、もしかしたら私なのかもしれない。私は技術者兼宇宙飛行士になり、未来は変わって、大人の倭は助かるのかもしれない。
「……なんだ、険悪な空気じゃないのね」
曜子が私の両肩に手を置いた。それと同時に倭が立ち上がる。170㎝後半まで伸びた身長は、これからが成長期であるらしい。そうしたほうが良い気がして同じように立ち上がると、相手の体格が随分とたくましくなったのが分かった。
「試験は9月にあるよ。これ、申込書」
通学カバンからクリアファイルに丁寧に仕舞われていた申込書を抜き取り、倭は「また2年後に」と告げた。
「は?」
曜子が怪訝そうに首を傾げると、倭は「アメリカに行くからね」と呆気なく松山を去ることを明かした。
「入学して4カ月しか経ってないのに、転校?」
「休学で通してくれるらしいから、18歳になったら戻ってくるよ。向こうでパイロットのライセンスを取得する必要があるし、父の知り合いがヒューストンにいるんだ。今しか出来ない事をやっておきたい。きっとそれが、月への道のりに近付くと思うから」
倭の顔は自信に満ち溢れていた。もっと広い世界を見ておきたいのだと、日本国内では出来ない事を海外で経験してくるのだと、随分と大人びた顔でそう笑んだ。それから、少し赤らんだ頬を隠しながら告げる。
「ちびだった俺がこんなにも糸より大きい。大きな声でみんなの前で喋ることもできる。やっと、糸より一歩先にリードできたんだ。俺がエスコートするよ。ちゃんと、今度は俺が手を引いて行くからね」
その言葉に真っ先に反応したのは曜子だった。ぷ、と吹き出して、お腹を抱えながら笑う。ピアノの旋律がそこに混じってきて、私は再び投影機の奥を見た。古いラジカセが木製の簡易テーブルの上に置かれている。
『メランコリー・ブルース』
ルイ・アームストロングの哀愁漂うトランペットの音は、かつて〝ゴールデン・レコード〟に収録され、宇宙を彷徨う友人に向けて人類が送った音楽のひとつだった。1976年、惑星探査機ボイジャーが千億の惑星×千億の銀河という無限とも言える星間空間へと永遠に旅立った時、NNSA職員達はラブレターの代わりにと、116枚の写真と共にこの静かに燃える愛のメロディーを〝いつかの友〟へと送ったのだ。
曜子の入室と共に部屋の明かりをつけてくれていた佐藤館長が、BGMにと流したものだったらしい。
「仲良き事は、美しきかな」
倭は佐藤館長に向けて頭を下げていた。曜子は目尻の涙を拭って、そうしてまつ毛を濡らしながら「結局、良いコンビなんじゃない」と母のような顔で微笑んだ。
3人でこの曲を聞いたのは、これが最後となった。曜子の、「ブルースなんて気障ね」という言葉に、私達は笑った。高校生活で最もかけがえのない思い出は、この日のことだった。