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もう一つの世界、27  イヌと少女 5/7

イヌと少女 5/7

「おじさん着いたよ。あたしらだけだよ。」
  小さな無人駅、ポツンとたっている。おれは、キャリーバッグから飛び出して、大きく伸びして身体を震わせた。夏の日差しが傾き始め、のんびりした風がおれたちをむかえてくれる。
「ちょっと待って。」
 おれは、物陰で片足あげて用を足した。見られるのがなにか恥ずかしい。
「おじさんイヌだから、どこでも出来ていいね。」
 少女はやっぱりケタケタ笑っている。
 とりあえず海に向かった。海を見たかった。室戸岬に来たという実感が 欲しかった。首輪をつけていても、外は気持ち良かった。 
 家並みを抜けると、急に開けた畑にでた。
「おじさん、どっち行くの?」   
 このまま歩いていけば、海に出るはずだが、畑の向こうに松林があって、海が見えない。
「とりあえずこのまま行って、誰かに訊いてみるか。
 裕美ちゃんが訊くんだぞ」
 初めて、少女の名前をよんだ。おれの中で、何かが変化した。
「なんて聞けばいいの?」
「海はどっちの方ですかだよ。」
「そっか、海に行くんだよね。」
  声が弾んでいる。なにかから開放されて楽しそうだ。
 途中で地元の人に訊いて、十五分ほど歩くと、高い防波堤に出た。まだ海は見えない。防波堤を一気に駆け上ると、急に視界が開けた。 
「うわあ、海だ!」
 目の前にひろがる大海原、長い砂浜が遠くまで続いている。誰もいない。大きな波がドドンと大きな音を立てて打ち寄せている。
「すごい、こんなに広い海なのに、誰もいないんだ。」
 太陽が輝き、目に沁みる。
 立て看板に『危険! 遊泳禁止。』と、書かれていた。
「こんだけ波が高かったら、泳げないね。」
 流れ 着いた大きな流木が一本、大波にもて遊ばれていた。
 自然の雄大さが、時間のながれを忘れさせる。
 地元の人には見慣れた風景でも、初めて見るおれたちには、十分すぎる大海原だった。
「おじさん、イルカいるかなあ。」
 少女はぽつりといった。砂浜に降りてから黙ってあるいている。 あらためて海の大きさに圧倒されている。
 砂浜をどこまで歩いてもきりがない、防波堤に寄りかかって座りこむと、少女も隣に座り込んだ。 
「裕美ちゃんは、イルカになったら、何をしたい?」
 少女は、突然訊かれしばらく考えていたが、広い海を見ながら、
「自由に泳ぎたい。気が済むまで自由に泳いで、それから友達をみつけて、恋人をつくって、結婚できたらいいなあ。」
 少しはにかんでいる。どれも平凡な生き方、それができない生きづらさの中で苦しんでいる。 
「おじさん、あたしもイルカになれるよね。」
 自分に言い聞かせている。心配そうに訊ねてくる。
「さあなあ、まずはこの海にイルカがいるかどうか?」
「そうだよね。イルカがいないとはじまらないよね。」
 少女の顔が緩んだ。すこし納得した。そのまま夕日の紅に照らされた雲を 眺めていた。
「知ってるか?魚釣りでよく釣れるのは、朝と、夕方なんだ。」
 おれはなにを言おうとしているんだ。気休めかもしれない。
「昼間はあまり餌を食わないんだ。だからイルカも朝と夕方に餌を食いに 浜辺に近づいてくると思うよ。」
「おじさんありがとう。今のうちに首輪外しとくね。」
 少女は、首輪を外してくれた。そして昼に買った残りのパンを、半分に分けて食べた。
 この海にイルカはいるのか、いないのか?
 待つしかない。
 ただ、待つしかないんだ。
 夜になっても、おれたちは動かずに、夜の海を眺めていた。
 満点の星が輝く夜空。あまりの綺麗さに、見ている自分の存在が消えていく。夜光虫が、波にもてあそばれて、青くひかっていた。
 自然はこんなに美しいのに、人間はどんどん醜くなっていく。人間も自然の一部のはずなのに。
 おれは、イヌ。知らぬ間にいかされていた。今は世間の常識から外れたところで生きている。でも、この綺麗な夜空を見ていたら、常識から外れても生きていけそうな気がした。新しい価値がそこにありそうな気がしてきた。
 そもそも、常識なんて人間が勝手に作りだしたもの。この美しい夜空のなかでは、なんの価値も、なんの意味も持たない。
 少女がイルカになれたとしても、それは新い生き方で、常識を外れたからこそ、新しい生き方ができるんだ。
 少女の寝顔は安らかだった。
 悲しいことも、厭なことも忘れて眠っている。 
 おれはイヌ。少女のそばで眠りについた。


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