もう一つの世界、27 イヌと少女、6/7
イヌと少女、 6/7
「おじさん、おじさん!」
朝早く、少女がおれをゆり起す。
小さな声でおれを呼んでいる。
おれの耳が、ピンと立った。
「あれ、あれ! あそこで光っているの、イルカの背中?」
浜に打ち寄せる大波の近くで、たしかに背中が光っている。
「そうかもしれん。そうだよ、今イルカの先端が見えた。」
少女は、ずっとおれの肩を押さえている。
「おじさんどうしよう?おじさん、おじさん!」
少女の緊張が伝わってくる。おれの肩の毛を力いっぱいつかんでいる。
「おじさん、どうしたらいいの?」
気が動転して、少女の声が焦っていた。
「今だよ、イルカになるんだろう。」
おれは小さく叫んだ。
「海に飛びこんで、イルカの前で死ぬんだ!」
言った後で、おれはその残酷さに気付いた。
少女は、一瞬おれを見た。そしてその残酷な言葉に、背中を押されたように立ち上がった。
「おじさん、ありがとう。あたしいくね。」
少女は走った。波打ちぎわで、一瞬止ったように見えたが、そのまま大波にとびこんだ。
おれは、呆然とみていた。言葉が出なかった。
ほんとうに、とびこんだ!
あっという間のできごとだった。
大波に飲み込まれる少女を、たしかにおれは見送った。
イルカは近くを泳いでいたが、少女とともに消えた。
どれくらい時間がたったろう。突然、沖の方でイルカがジャンプした。
おれに知らせるかのように、2回大きくジャンプしてから、見えなくなった。
「なれたんだろうなあ・・・。」
安堵感と、淋しさと、疲労感。おれの全身から力が抜けた。
それからのおれは、全然ついていなかった。
少女を見送った後、なにをしていいのかわからない。
あたりをほっつき歩いてみたが、なにもなかった。
確かに、田舎は時間の流れはゆったりしている。景色がのんびりしていて、気持ちをリラックスさせてくれる。
しかし現実は、想像していた田舎とぜんぜん違っていた。
そもそも田舎には残飯がない。どの家も綺麗に掃除していて、食べ物が見当たらない。人も少ない。それに、少女はおれにお金を残してくれたが、イヌのおれには、お金は使えない。バスにも、電車にも、ましてやタクシーにも乗れない。自分の四本の足で、ひたすら歩くしかなかった。
野良犬一匹が田舎道を歩いていると、目立って仕方ない。軽トラックのおじいさんが、わざわざ停まっておれをたしかめる。
誰が呼んだのか役所の車が、網をもっておれを追いかけてきた。このままだと、捕まって保健所に通報されてしまう。そして間違いなく殺処分される。
少女がいなくなってから、まだなにも食べていない。下町の繁華街とちがって、残飯がどこにもない。畑に野菜は一杯あるが、おれは野菜嫌い、お腹がへって、仕方なく食べれそうな葉っぱを食べてみたが、すぐ吐き出してしまった。
これなら、いっそクジラになるか。
少女がイルカなら、おれはクジラだ。
それならここまできたかいがあるのに。
はじめはくだらん考えだと思った。しかし、精神的にも、肉体的にも追いつめられると、だんだん思考が麻痺して、くだらないと思っていた考えが、現実味を帯びてくる。
イヌのまま田舎でのたれ死にするか、クジラになるか?そりゃあクジラがいいに決まっている。ここは土佐の高知の室戸岬だから、クジラウォッチングの船がいくらでも出ている。だったら、船にさえ乗り込めれば、クジラに会えて、生まれ変われるかも知れない。
「あーあ、おれはなにを考えているんだ。」
でも、歩き疲れ、夜になって星空を見上げると、また考え込んでしまう。
人間のときのおれと、イヌになってからのおれと、なにが違うんだ?
なにも変ってない。人間のときも、野良犬のような生活。それが現実に野良犬になっただけ、なにも変わってないんだ。たぶんクジラになっても、何も変わらない。どこまでいっても、おれは、おれでしかないんだ。人間なんて、そんな簡単に変れるものじゃないんだ。
変ろう、変ろうと焦っている自分が、変れない自分を責めていた。仮面をかぶって、他人にあわせている自分が、孤独な影をひきずっていた。
もういいんだ。変らずに生きて行ける世界を、自分で見つければいいんだ。そう思うと気持ちが楽になった。
おれの気持ちは決まった。
ちゃらんぽらんに生きてきたおれが、初めて自分で決めたことが、クジラになることだったとは、イルカになった少女を笑えない。一度、常識から外れた世界に入り込むと、もうその世界でしか生きていけない。でも、案外その方がおれにとっては生きやすい。そういえば、おれも少女とおなじで、日常の生活からはじきだされた人間だ。そう思っていままでの人生を振り返ると、納得できることばかりだった。発達障害といわれた少女に、おれはよくにていた。
夜空の満天の星を見上げていると、妙に気持ちが落ち着いてきた。お腹は空いているのに、気持ちが何か満たされてくる。一人でいても、孤独を感じなかった。
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