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ポーランド映画祭『農民 / Chłopi』を見て
2024年開催のポーランド映画祭にて、『農民』を見てきた。舞台は19世紀後半のポーランドの農村・リプツェ。村一番の美人であるヤグナをめぐり、村の中での婚姻や人間関係、家父長制や村社会の在り方など、鑑賞するにはかなりきつい、重いテーマが扱われている。原作はヴワディスワフ・レイモントの『農民』で、1924年にはノーベル文学賞を受賞しているそう。ストーリーもさることながら、映像が全て油絵に描き直されていることも注目だ。実際に俳優たちが演じた映像を基に、油絵として投影することで、実写映像とはまた違う芸術作品として、色彩や表情の機微を楽しめるのも醍醐味だ。
ヤグナをめぐる女性の人権、村社会における家族の在り方や人間関係など、本作品への突っ込みどころは種々あるだろう。ここでは、個人的に印象に残った点を2点を挙げたい。
絵画だからこそ表せる場面の閉塞感
なぜ撮影した映像を油絵に描き直したのか、その意図は何だったのだろう。原作の背景や実際の制作者の意図を知らない鑑賞者として考えた時、場面の閉塞感の強調という点で効果的だったと言える。物語が進む中で、ヤグナが強制された婚姻を拒否できないこと、村人から恨まれ自分の居場所がないことなど、身体的にも心情的にも、主人公の行先がない閉塞感に胸が締め付けられる場面は多く登場する。一方、我々が絵画を眺める時、キャンバスという、決められた大きさの四角の中にある背景や要素を手掛かりに、人物の心情や背景を想像することを強いられる。だからこそ、そこに描かれる人物の喜怒哀楽は、四角のなかに収まるどこか閉塞感があるのだ。まさに、こうした絵画特有の閉塞感、キャンバスのなかから飛び出すことのできない行き場のなさ感が、ヤグナの心情や立場のやるせなさを効果的に強調している。皮肉にもヤグナの閉塞感に反する形で、大海原のように無限に続く草原や、永遠を想起させる水の流れなど、雄大な自然描写も多く描かれる。こうした相反する存在が共存していることもまた、ヤグナの置かれた立場を痛いほどに強調していた。
夏って何の象徴?
『農民』は秋から始まり、その後に冬と春が訪れ、夏に悲劇的な最後、どこか死も予感させる展開で終わる。一方、夏といえば、さんさんと太陽は照り、植物は青々と生い茂り、動物たちも活発に動くなど、「生」の象徴とも言える。個人的には、冬こそが「死」や「終わり」の象徴だ。そのため、「生」の象徴である夏のなか、なぜ「死」「終わり」を連想させる最後を迎えたのか。これはぜひ原作者に聞いてみたく、私にはその答えは想像もつかない。季節の象徴とクライマックスの意味の相反に、純粋に興味を惹かれたのだ。
一方、このラストを見て、ヘルマン・ヘッセの『夏は老け…」という詩が思い出された。そこにはこんな一節がある。
「かつて夏は春を打ち倒し、自分の方が若く強いと思った。
いま夏はうなずいて笑っている。
きょうこのごろ、夏は全く新しい楽しみを与えている。」
夏の盛りこそ「生」や「エネルギー」を感じさせるが、夏の後には秋から冬へと、「終わり」が待ち構えている。だからこそ、その夏こそが、一番「死」「終わり」を感じさせるものとも言えるのではないだろうか。こうした自然への深い造詣と感性が、ヘッセと『農民」では通じる部分があるのではないだろうか。