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どこまでが「自分」でどこからが「仮面」なのか-自分という役者-
化粧台の前で、私は今日の私を作り始める。下地を塗る。シミや毛穴が消えていく。少しずつ理想の肌に近づいていく。アイシャドウで目元に陰影を付ける。マスカラで睫毛を上向きに。口紅を丁寧に輪郭通りに描く。鏡の中の顔が、徐々に「社会的な私」に変わっていく。
面白いことに、この作業には妙な安心感がある。素顔の自分より、化粧した自分の方が「自分らしい」と感じる瞬間。その違和感に気づきながら、それでも私は次の化粧道具に手を伸ばす。
先日、友人が「すっぴんの方が可愛いよ」と言ってくれた。でも、その言葉が逆に不安を掻き立てる。すっぴんの私は、本当に「私」なのだろうか。それとも、それもまた別の仮面なのか。素顔で人と向き合うことの方が、かえって演技めいて見える。
化粧台の引き出しには、使いかけの化粧品が溢れている。それぞれが、違う場面用の仮面を作るための道具だ。派手すぎない職場用、華やかな飲み会用、自然な普段用。私たちは、いつからこんなに多くの顔を使い分けることを覚えてしまったのだろう。
鏡の中の完成した私を見つめる。この顔で今日も誰かと会話し、誰かと笑い、誰かの期待に応えていく。この仮面なしでは生きられない。その事実に気づいた瞬間、化粧台の上の道具たちが、どこか儀式の道具のように見えてくる。
「場面転換する私」
オフィスのエレベーターに映る自分を確認する。背筋を伸ばし、表情を引き締める。この建物に入った瞬間から、私は「優秀な会社員」を演じ始める。あと十階で舞台に立つ。化粧直しをしながら、今日の台本を頭の中で反芻する。
面白いのは、役の切り替えが自動的になっていることだ。上司の前では丁寧な言葉遣い、同期との会話では適度な砕けた調子、後輩には優しい先輩風。その場面転換は、もはや呼吸のように自然になっている。でも、時々その演技に躓く。まるで、せりふを忘れた役者のように。
先日、取引先との会食後に同僚と向かった居酒屋で、私は役割を間違えた。取引先への丁寧な口調のまま、友人たちと話してしまった。「どうしたの?固い感じで」と言われ、ようやく気づく。仮面の切り替えに失敗していたのだ。
週末の実家では、また違う私が登場する。「いい子」という古い役柄。母の前では従順に、父の前では賢く、妹の前では頼もしく。家族の期待という舞台装置の中で、私は完璧な娘を演じる。でも、その完璧さに疲れ果てるのも、いつも実家での出来事だ。
終電間際の電車で、ふと全ての役から解放される。化粧も崩れ、姿勢も緩み、表情も自然に戻る。この「素」の状態こそが本当の私なのだろうか。それとも、これもまた「一人の時の私」という役割なのか。車窓に映る自分が、どこか他人事のように見える。
「仮面舞踏会の作法」
インスタグラムを開く。投稿用に撮った写真を十枚見比べる。微妙な角度の違い、表情の濃淡、背景のぼかし具合。完璧な「インスタ映え」を求めて、私は無限の仮面を試していく。同じ自撮りなのに、投稿先が変われば表情も変わる。Xでは少しクールに、Facebookでは知的に、LINEでは自然に。
面白いことに、SNSの仮面は実生活の仮面より手が込んでいる。現実では一度に一つの役しか演じられないが、ネット上では複数の私が同時に存在できる。あちらでは理想の恋愛を、こちらでは仕事の成功を、そしてもう一つのアカウントでは赤裸々な本音を。デジタルの舞台は、私という役者に無限の可能性を与えてくれる。
先日、友人がSNSでの私を「別人みたい」と言った。その言葉に、妙な安堵を覚える。オンラインの私は、確かに私ではない。でも、全く別人でもない。その曖昧な距離感の中に、現代人の居場所があるのかもしれない。
アカウントを切り替えるたび、少しずつ言葉遣いが変わっていく。趣味用アカウントでは饒舌に、実名アカウントでは慎重に、匿名アカウントでは奔放に。それぞれの仮面が、それぞれの解放感と束縛を持っている。この多重人格的な生活に、もはや違和感すら覚えない。
深夜、全てのアプリをログアウトする。画面が真っ暗になった瞬間、そこに映る自分の顔が見える。化粧を落とした素顔なのに、どの仮面よりもよそよそしく感じる。私たちは、仮面の数だけ本当の顔を失っているのかもしれない。
「剥がれ落ちる時」
終電を逃した夜の繁華街。酔いに任せて、同僚と妙に本音で話してしまう。「実は私、毎日演技してる気がして」。その言葉が口をついて出た瞬間、慌てて後悔する。でも不思議なことに、相手も「分かる、分かる」と深く頷いている。仮面が剥がれる瞬間は、時として思いがけない共感を生む。
面白いのは、疲れ切った時ほど本当の自分に近づくような気がすることだ。終わらない会議の後、締め切り地獄の真っ只中、徹夜明けの電車の中。化粧も崩れ、姿勢も悪く、取り繕う余裕もない。その「だらしない」状態にこそ、何かリアルなものが宿っている。
先日、高熱で寝込んだ時のこと。看病に来てくれた母の前で、子供のように甘えていた自分に気がつく。普段の「しっかり者の娘」という仮面が、熱と共に溶けていく。でも、その素の状態も、また別の仮面なのかもしれない。私たちは、剥がれた仮面の下に、また新しい仮面を見つけてしまう。
深夜、行きつけのコンビニで、アルバイトの店員が思わぬ本音を漏らしてきた。レジ打ちの手が止まり、接客の仮面が僅かにずれる。「こんな時間に働くの、本当は嫌なんです」。その正直さに、妙な感動を覚える。仮面が剥がれる瞬間は、人を人たらしめる瞬間でもある。
一人で飲む深夜の自室。鏡に映る素顔の自分に「お疲れ様」と話しかける。この独り言すら、誰かに向けた演技なのだろうか。それとも、これこそが本当の私なのだろうか。答えの出ない問いを、今宵も月が見つめている。
「鏡の向こうの私」
朝の化粧台の前に座り、ふと気づく。仮面を付ける前の私も、仮面を付けた後の私も、結局は同じ「私」なのかもしれないと。メイクの道具を手に取りながら、昨夜の酔った勢いで語った本音も、今朝の取り繕った笑顔も、どちらも確かな私の一部なのだと。
面白いことに、人は素顔であることにも演技が必要だと感じる。「素の自分」を見せるときこそ、むしろ意識的になる。カジュアルな服を選び、ナチュラルメイクを施し、飾らない話し方を心がける。その不思議な矛盾に、私たちは日々直面している。
先日、幼い頃のアルバムを見ていた。写真の中の私は、まだ仮面の使い分けを知らない。泣きたい時は泣き、笑いたい時は笑う。でも、そんな単純な生き方が、今の私には最も難しい芸当に思える。
社会という舞台の上で、私たちは無数の仮面を使い分ける。それは決して嘘をついているわけではない。むしろ、その全ての仮面が私という人間を形作っている。会社員としての私、娘としての私、友人としての私、恋人としての私。それぞれが確かな私であり、どれも偽物ではない。
夜の街を歩きながら、ショーウィンドウに映る自分を見つめる。化粧は少し崩れ、姿勢も疲れている。でも、その不完全な姿こそが、私という人間の総体なのかもしれない。仮面と素顔の境界線を探すことに、もう疲れた。どちらもが私であり、その全てを受け入れることこそが、本当の「自分らしさ」なのかもしれない。