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なぜこんなにも「完璧」にこだわったのか

クリスティン・ネフ
「セルフ・コンパッション」の中に

『もし、私たちが完璧だとしたら、私たちは人間ではない』
『完璧は退屈』
『不完全なおかけで学びや成長があふ』
『学びの主たる方法は、失敗してばったり倒れる経験の繰り返し』とあり

概念がひっくり返った、

「どれたけよくできたか」
「どれだけうまくできたか」ばかり見て
満足感を得ようとしてた。

それより
「どれだけいろんな体験ができるか」
これが人生の醍醐味なんじゃない?
と、やっと肚落ちした。

「結果」ではなく「体験・体感」

とても簡単で普通で一般的になことなんだろうけど、私は今までわからなかった。
だから、嫌なことがあるたびに人生が嫌になり、どちらを選んでも地獄だなという状況に遭遇するたび「消えてしまいたい」衝動に駆られていた。

なんだ。
良いも悪いもない。
体験しただけじゃん。

完璧にうまくいく人生を求めること自体が、勘違いだった。

なんだか、急に肩の力が抜けた。
「体験」しにきてるんだから、結果なんてどれでもいいか。

「うまくやらなきゃ」という「完璧主義」が、自分をずっと苦しめていたんだな。
文字にすると簡単だけど、納得するまで長かったよ。


以下
「完璧主義」で思い出したこと。


「完璧主義者」と、子供の頃からよく言われた。でも、自分ではそう思ったことがない。
「完璧」に何かを終わらせたことがないから。

おもちゃの片付けも、エレクトーンの練習も、学校の宿題も、とにかくやらない。完璧に終わらせたことがない。

なにが「完璧主義」だったのだろう?

小学校1年の時、宿題の計算カードのタイムが目標に届かなくて何度もやり直した。泣きながら。付き合わされる母親も大変だっただろう。
「最初から完璧になんてできるわけないでしょ!」と何度言われたことか。

本読みも同じ。すらすら読めない。宿題チェックカードに〇がもらえない。△は嫌だ。×なんてもってのほか。
何度も読む。母親が〇をくれるまで何度も。
泣きながら…以下同文。

「完璧を求めてる」と人に言われた初めての記憶がこれ。


これとは別に
「完璧でなければ褒めてもらえない」
「1番じゃなきゃ褒めてもらえない」
と思った記憶がある。

町内会対抗運動会でリレーに出た。 
最年少グループで第一走者。
短距離を走るのが好きだったので、思いっきり走った。自分では楽しかったのだが
「なに〇〇ちゃんに負けてるの?あんたの方が体が大きいのに!」と、母。

ああ。走っても1番じゃないと褒めてもらえないのか。貶されるのか。
と悲しくなった。

小学校の運動会でも同じ。
徒競走で近所の小柄な女の子より遅かった時
「〇〇ちゃんに負けちゃって笑
山椒は小粒でもピリリと辛いだね」と母。
ぶん殴りてぇぇぇぇ。

他にも、母や学校の先生の言動から
「完璧じゃないと怒られる」も装備。


ニワトリが先か、卵が先か。
私が持って生まれた「完璧主義」なのか
母との関係性で自分が作り出した「完璧主義」なのか
それとも「怒られるのが嫌」だから「完璧」を目指したのか。

わからないが、
自分の中に「完璧主義」はあった。

心の奥深くでは
「完璧は無理」とわかりながらも、
「完璧」を目指していた。
指摘されないとなかなか自覚はないが。

この「完璧主義思考」も、もう終わり。
また一つ、自分を解放できた気がする。


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