第一話「ハレンチ集団」
メンズクラブ1965
・フォーク・コーラスを作ろう。
当方、バンジョーと12弦ギター有。
フォークの好きな方連絡を待つ。
(加藤 和彦 京都市◯市✕町3-21)
コンコンッ(ドアの叩く音)
加藤:はい
北山:メンズクラブを見て、妹の自転車で来ました。北山 修(キタヤマ オサム)です。
加藤:僕と身長同じくらいだね。いいよ、北山くんそしたらコントラバスやってくれるかな。
~メンバー紹介~
加藤 和彦:バンジョー・12弦ギター
北山 修:コントラバス
芦田 雅喜:リードギター・ボーカル
平沼 義男:ギター・ハイコーラス
(井村 幹夫)
民謡を唄う十字架その名も
「ザ・フォーク・クルセイダーズ」
(略:フォークル)
加藤:ちょっとみんな今日面白い人見つけてきたよ。じゃーん、松山 猛クン。
松山:どうも。
加藤:つい、意気投合しちゃってネ^^;
松山クンと作った歌があるんだけどその名も
「帰ってきたヨッパライ」
(子供の頃の交通事故での臨死体験を
元に適当に作ったもの)
おらはしんじまっただぁ〜♪
天国よいとこ一度はおいで酒はうまいし
ネエちゃんはきれいだ〜♪
加藤:活動期間は1年。フォークル解散記念に
自主制作アルバムレコードを作ろうと思うんだ。
洋楽のカバーもいいけれど、オリジナルも入れてみたいよね。「帰ってきたヨッパライ」なんかどうかな?その曲のことなんだけど、北山クンの実家にテープレコーダーがあるからそれで作ろうと思う。
北山宅にて…
ポッポッポッ…(木魚の音)
北山:ほなら〜出てゆけ〜(神様のセリフ)
加藤:このテープレコーダー、スピード2段階に変えられる。まず遅いのを録音して早いスピードで再生。早回しにすると…
最後にピアノでクラシックのエリーゼのために
(北山クンの妹が担当)
お経の中にビートルズを少々入れてみたり…
他 フォークルのテーマソング、ひょっこりひょうたん島、イムジン河、ソーラン節など、12曲収録。
加藤:このアルバム名は「ハレンチ」にしよう。
デザインは松山クン。(手持ちの資金上:300枚)
北山:…300枚…作ったのはいいけど友人や知人に
買わせても100枚しか売れない。どうしよう。。
関西の放送局にて
北山:あの…僕らのレコード買ってほしいんですけど…
とあるラジオ局では、どこへ行ったらよいかわからず、レコード保管庫のような場所にいたおじさんに買ってほしいと…あっさり断られた^^;
そんな中、関心を示した
ラジオ局の女性ディレクターがいた。
その方は、ラジオ関西(神戸市)、高梨 美津子サン。
そして、「帰ってきたヨッパライ」は、ラジオ関西で放送され話題を呼ぶ。(10月の中旬)その後、他のラジオ局からも流れ人気になる。
…東京の大手レコード会社全社から(契約)、レコードデビューしないか?という誘いがきたのだ。
北山:10万枚売れるんじゃないか?!(算盤弾く)
加藤:・・・
〜2週間後〜
北山:自主制作のプレスを頼んだところが、ジャケットもないまま勝手に「海賊版」が出回ったり、手に負えない大騒ぎになっている。
こりゃあ、10万枚どころか100万枚いけるんじゃないか?!
と…その気になり…
〜このとき、東芝音楽工業(当時)のディレクターで熱心にフォークルを誘う高嶋 弘之サン。
だが…別のレコード会社の編成会議では…
「下品なものではダメだ」とのこと。
フォークル一同:がっかり。
高嶋:大丈夫。(昭和42年)年内にレコードを出す。
そして、フォークルは「1年限定」でプロデビューすることになったがその前に…
加藤:平沼クンが抜けるから代わりのメンバーがいる。
条件1:声が高い
条件2:背が低い
「はしだ のりひこ」を推す。
(平沼クン脱退:1967年10月1日)
北山:条件1:歌が上手い
条件2:身長が177.8センチ
僕らと背の高さが丁度いい。
条件3:顔がかっこいい、声がいい。
「杉田 二郎」を推す。
ところが…条件に合っているのははしだクン。
抜けた平沼クンがテナー声を担当。
テナー声といったらはしだクン。そして加藤クン曰く
僕らの間に入ると「凸凹トリオ」になって見かけが面白い。(キングストン・トリオ風)
実はフォーク末期のこと…
加藤:お前(はしだクン)のテクニックはすごい。
はしだ:じゃあ、アマでやっていくか!
と意気投合していたことは北山クンは知らず。
(苦笑)
アマチュア時代 終
1967年12月25日 はしだクン加入の
「ザ・フォーク・クルセダーズ」結成
1968年 デビュー
デビュー曲としてアマチュアから歌っていた
「イムジン河」1968年2月21日
東芝から発売する予定…
高嶋:第一弾は「イムジン河」で行ける。
「ヨッパライ」がコケても「イムジン河」がある。
東芝から発売前にラジオで数回放送。
「帰ってきたヨッパライ」200万枚発売記念
パーティーの翌日のこと。
発売予定前日、1968年2月20日のこと…
ニュース:「イムジン河」発売中止(発売自粛)
(イムジン河ができるまで…
本楽曲は、朝鮮民謡
松山クンは、作詞作曲不明のため、中学時代に音楽室から流れてきたメロディーとその当時、交流した、朝鮮学校の生徒から貰った1番の歌詞。辞典をたよりに翻訳。2番は、自身が南北の分断を唱う詞、3番は独自の詞。
臨津江(リムジン河)原曲
1:主人公は臨津江を渡って、南に飛んでいく、鳥を見ながら臨津江の流れになぜ南の故郷へ帰れないかを嘆く。
2:臨津江の流れに荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと北の優位を誇示している。
発売中止理由…
朝鮮総連が内容が南側に偏向していると抗議したことが要因。
1968年2月19日、朝鮮総連から東芝へ「朝鮮民謡であること・作詞・作曲者名を明記すること」とのこと。(実際、レコード会社は国交のない北朝鮮の正式名を躊躇して発売自粛したという。)
※当時、出荷済み13万枚のうち3万枚が未回収となった。だがこの時…放送自粛の風潮が広がる中、京都放送のディレクター川村 輝夫はラジオ放送を続けた。)
フォークル一同:え?!
レコード会社社長:これではだめじゃないか
加藤クン急いで次の曲を作ってくれ!
(加藤クンは会議室に3時間閉じ込められる)
加藤:しょうがないな〜適当に遊ぶか!
…そろそろ飽きたし、曲作ろうかな。
ジャラーン(ギターの音) フンフン〜♪
2〜30分後…
加藤:会長できました!^^
会長:じゃあ今から、「サトウハチロー宅」へ
向かうぞ!
加藤:え?!(驚)
そして…タクシーでサトウハチロー宅へ🚙
向かったものの、サトウハチローサンが現れない。
トコトコッ(歩く音) サトウハチロー登場
(曲の打ち合わせなし)
〜1週間後〜
サトウハチロー氏から詞が送られてきた。
その名も、「悲しくてやりきれない」
加藤:こんな詞でいいんだろうか?(悩)
まあ、歌ってみよう。
ジャンジャカ(ギターの音)
悲しくて 悲しくて とてもやりきれない〜♪
おお!これはすごい!
曲に語句がぴったりじゃないか!(驚)
そして、2枚目のシングルとして1968年3月21日
東芝から「悲しくてやりきれない」が発売される。
おまけ
〜「帰ってきたヨッパライ」映画を振り返る〜
(1968年3月30日)
北山:帰ってきたヨッパライの映画について
振り返ろうと思うんだけどおふたりさん的に
どうなの?
加藤:僕はね、大島渚監督を選んだんだけど
ちょっと失敗しちゃったよね(苦笑)
だってさ、僕の衣装すごい袖短くてさ
小さいんだもん。
端田:僕だってさ、はい、これ!て渡されたの
女の服だよ?!笑っちゃうよね。
加藤・北山:のりちゃんは似合うから大丈夫だよ!
端:そうかな?じゃあいっか!^^
チビ役:端田クン
大ノッポ役:加藤クン
中ノッポ役:北山クン
北山:今思うとさ、脱いで、着替えて、走ってのくり返し。忙しかったよね。
端田:そうだね、銭湯のシーンとかもう、女の裸とかでてきちゃって本当、まさにハレンチて感じ。
加藤:そういえばさ、監督とケンカしたんだけど…だからもう、映画にでるのはこれで終わりにしたい。
北山:帰ってきたヨッパライ作った時は、どうなるかと思ったけど爆発的大ヒットなんかとばしちゃって、ラジオですごい流れてたけどあの歌は、10回聴いたらもういいよね(笑)
端田:でもさ、こんな映画になっちゃうなんてすごいね!
北山:僕が必死に売り歩いた苦労があったよ。