漫画原作「団地の子供たち」6話〈終〉
黒浜に騙されていた俺は、自分の母親と黒浜の母親の死体と数年の時を同じ部屋で過ごしたらしい。
まぁ騙されたと言っても死体がひとつ余計にあっただけの話で大したことではない。
ただ、あの時熱心に俺を助けてくれた黒浜に運命めいたものを感じていたのは恥ずかしい勘違いだった。
己が保身のための行動だっただけ。
事実はシンプルだ。
会社の喫煙所で煙草をふかしていると、社長孫が近付いてくる。
胃がキリリと絞られる。
「たかし君は、お母さんを殺したの?」
「は?」
どこからそうなった。
「警察に言ってもいいんだよ」
「何言っているかわからないんだけど」
もうあの古臭い団地は解体され、死体は見つかってはしまったが誰だか特定できる状態にはないだろう。
俺たちが殺したという証拠はもう何もないはず。
キィーンと不快な機械音が鳴った後に冴えない男の声が聞こえた。
『母親殺したことは不思議とどうでもよくてさ、もう思い出すことが殆どないんだ。ただ黒浜さんを巻き込んだことは後悔してる』
「ね?」
盗聴機か。携帯を勝手に見る女だもんな。それくらいしてもおかしくないのか。あ~〜〜このブス死ねばいいのに。
「黒浜さんって綺麗な人だね」
「そうかな」
ああ、綺麗だ。お前よりずっと。怖いくらいに綺麗だよ。
「しらばっくれないで。何も本当に警察に行こうって話じゃないから」
ああ、嫌な予感しかしない。
「私と結婚してほしい。そしたらこれは全部消す。酷いお母さんだったんでしょ。それはもうしょうがないから。ただ、もうこの人とは会わないで」
頭を金づちで打たれた衝撃だった。
黒浜ともう今後会わない。
別に何も難しい話じゃない。むしろ黒浜にとっても幸せかもしれない。
俺がこのブスと結婚すれば、このことはもう誰も掘り返さない。
黒浜も俺なんかの顔を見ない方が気楽だろう。
「好きなの」
泣き始めたこのブスは俺の何処がそんなに好きなのか。
可哀想に。こんな人殺しに熱を上げて。周りが見えていないんだろう。
「…好きってどんな感じ?」
「あったかいの。たかし君のことを考えると心がねズキッとするの。それでもあったかいの」
「そっか」
俺は黒浜のことを考えるとひんやりとする。団地の日陰のコンクリートのようなそんな薄暗くて冷たいあの日を思い出す。
汗はダラダラと出てくるのに、暑いとは感じなくてどこか朧気で冷たい。
黒浜は夏でもあまり汗をかかなくて、いつも凛としていた。
「わかったよ」
「わかったって私と結婚してくれるってこと?」
「あ、改めて、色々用意とかするから、ちゃんとした方がいいし」
「…嬉しい」
黒浜が誰と付き合って結婚したって俺はどうでもいい。
黒浜がそれなりに幸せならそれでいい。
データは多分何を言っても一生消さないだろう。
きっと色々なところに保存してあって、喧嘩でもしようものなら引っ張り出してきて、俺に飽きたら殺人犯なんて怖いわなんて警察にでも何でも持っていくに決まっている。
「好きだよ。たかし君」
少しの間でも、黒浜が平和に暮らせれば、御の字だ。
俺は黒浜をどうにかしたいなんて思えない。
帰り道、汚ねぇ川にズブズブと肩まで浸かる。
財布も携帯も上着も泳ぎながら捨てる。川から這い上がる。
歩いて黒浜の家まで行く。
「臭いわ。そういうノリはティーンで卒業しなさいよ」
「機械とか水に弱いし川泳いで渡ったら跡つけられてても撒けると思って」
「サラ金にでも手を出したの?」
「…社長の孫娘の話覚えてるか?」
「ええ」
「あれに盗聴されてたみたいで、前に黒浜さんと話してたのも録音されてた。母親うんぬんってとこが…入ってた。俺と結婚すればデータは消すそうだから、俺は結婚することにする。だからもう黒浜さんとは連絡は取らない。ようにするから…」
「おめでとうって言えばいいの?」
「いや、ただの報告で…」
「逆玉の輿じゃない。おめでとう。愛想も良くて料理もうまいんだったかしら?条件としては文句言えないんじゃない?まぁ、頭がおかしいっていうのはひとつの欠点だけど、全てを帳消しにする欠点だわ。どうせ、うまくいきっこなくてすぐに腹いせにデータは警察行きよ。だったら自分の好きに生きなさいよ。罪人になる覚悟なんてとっくにしてる。あなたに泣きべそかかれながら家族ごっこされるよりマシよ」
家族ごっこ。
その昔、俺たちがそれぞれやっていたことだ。
その結末は。
「……………」
俺は1分か2分くらい黙ったままだったが、黒浜はその間何も言わずに待っている。
「…知ってると思うけど、うち小さい頃から生保とかで暮らしててさ…うつ病とか言われてもガキだからわかんねーし。何でそんなにずっと寝てるのかとかすぐ怒るのかとか何が気に入らないのかとか何もわからなかった。遊んで帰るとあんたはいいねって言われて悪いことしてる気分だった。だから母親のこと好きじゃなかった。でも我慢できない程かと言われればそうでもない。ヒステリー起こされて当たり散らされても、過ぎるのを待てば何てことなくて、慣れてて…でも心のどこかでは殺したいくらい憎んでたのかな。それすら、わかんないんだよ…ずっと母親を殺した理由もわかってなくて、でもようやくわかった」
俺は黒浜を睨みつける。
「お前が母親殺したからだよ。運命なんだ。俺とお前は。ニュース聞いて騙されたっていうよりも、運命だって感動したんだ」
言葉が止まらない。
「ずっと、ただ黒浜と喋りたかったんだ。俺、高校卒業したら、あそこ出て行かなきゃだった。だから、最後だったんだ。今までずっとあったチャンスの最後だったんだ。ただ、黒浜と喋ってみたかったんだ。お互い親ヤバいなって笑ってみたかった。俺の言ってること支離滅裂でホラーでキモいかもしんねーけど、他に方法なんて腐るほどあったけど、でもあの時の俺はそれしか思い付かなくて。目の前の障害を壊す…壊したかった」
黒浜の冷たい言葉が遮る。
「気持ち悪い。本当に」
「ここまで言わせておいて、何だけど、盗聴した音声だけで逮捕なんてまずないわ。まず、起訴出来っこないわ。盗聴自体が犯罪なんだし、ストーカーよ。そんなひと言くらいでどうにかなると思う?」
「そっか…」
「そうよ」
「母のこと思い出すのなんて、365日中あなたの顔を見た日くらいなの。あなたを見る度に思い出す。私にはあなた、あなたには私という足枷がある。これは運命なんてロマンチックなものじゃない。呪いよ。あなたと私はどうしたって一生顔を付き合わすんだわ。そして、顔を見る度に思い出すのよ。そんな呪いを自ら望んで自分にかけた。母親の死体なんてその道具にしか過ぎなかった。やっと分かった。私達は呪い合ってるのよ」
黒浜は怒ってるように見える。
「くだらない。こんな、おまじないで死んだ母に同情するわ」
そして、小さく笑った。
俺はその笑顔にどうしようもなく心乱され、涙ぐんで、笑い返したくなる。
団地のみんなとの遊ぶ約束を蹴って、ゲームを沢山持っているクラスメイトの家に遊びに行った帰り道。
夕空から茶色のランドセルが降ってきた。
教科書が地面に叩きつけられ無惨に散らばった。
俺の住む5階から投げられたようだった。
しばらくして、裸足の黒浜が降りてきて、一生懸命教科書を拾い始める。
拾い終わり、上の階からの死角に座る。ランドセルを抱いて俯いている。
そこで、やっと俺に気づいた黒浜は多分すごく「うわ」という顔をした。
団地のみんなは黒浜を毛嫌いしていたし、俺はそんなみんなといることが殆どだった。
でも、俺はひとり、黒浜もひとり。周りには誰もいない。
汗が吹き出した。
今を逃せば、黒浜と喋ることは二度とないだろうなと思った。
それでも俺は母を恐れた。
母に黒浜と喋ったことが万が一見つかったら殺されるかもしれない。今度こそ、黒浜の母親と殺し合いを始めるかもしれない。
子供の俺は母に捨てられたら、どう生きていいかわからない。
子供には助けを乞うて縋って媚て生きる道しかないのだから。
そうして、真っ当な人間だった俺は黒浜に話し掛ける機会を失った。
それでも毎日毎日日課のようにその日のことを後悔した。
かわいそうに。母さんは本当は特別悪者でもなければ、ただのか弱い人間だった。
俺は母さんを憎んでいた訳でもなくて、ただあの日の後悔を失敗をなしにしたくて自分のためだけに真っ当な人間を辞めたのだ。
母に殺されるかもしれなくても、友達にハブられても、黒浜に、
「俺もよく投げられるよ」
と笑って、それだけ言えていたら、俺は真っ当なままでいられたのかもしれない。
後藤さんは、にっこりと祝福の笑みを浮かべる。
「やっぱ、あの子と結婚したんじゃねーか」
「お久しぶりです。まぁ、紆余曲折あって…」
「紆余曲折って何だよ?デキちゃった婚か?」
「いや、子供は作らないって決めてるんです」
「ええ?なんで?」
「子供が可哀想なんで」
「なんだぁそりゃ?しかし、何も辞めなくたってよかったのによ」
「気まずいですし、まぁ良い気分転換になります」
「まぁなぁ。千紗ちゃんいなくなったって心配だよな。かなり男に入れ込むタイプだったから。駆け落ちかね」
「一応、元カレ…としては、幸せでいてほしいと思いますね」
「ねぇ、新居はURにする?」
「俺はいつかデカい一軒家に住んでデカい犬飼うんだ。てゆうか、家賃けっこうするな」
「そりゃ、新しくて綺麗だからね。私達の住んでた都営団地とは違うわよ。私、飼うならシェパードがいいわ」
「俺はゴールデンレトリーバーがいい」
「かわいいわよね」
「…まぁ、犬より黒浜さんが一緒にいて、くれるなら、俺は、それでいいよ」
「あらまぁ、手も握ったことないのにね」
「え、あ…じゃあ、はい」
手を差し出すと、そっと添えられる。
汗がドッと出てくる。
「…やっぱ、放していい?」
「どうぞ」
「俺達は共犯者だから…それだけだし…」
「そうね」
「あ、でも、夫婦っぽい演技はしてないと怪しいかな」
「さぁ?世の中、冷めた夫婦なんて沢山いるだろうし」
「そうだな…」
「時間はたっぷりあるわ。殺人罪に時効はなし。それまで、仲良く呪い合いましょう。私の顔を見たら思い出してね。お母さんのこと」
「そっちは、本当に思い出してんのか…?」
「あなたの10分の1くらいの繊細さはあるわ」
「どうせ、俺はチキン野郎だよ。はぁ…心臓もたなそ。きっと早死にするな」
「とりあえず、早く仕事見つけてね。無職の旦那さん」
「はい…」
「世の中、バレてない犯罪なんて見つかった犯罪より少なかったりしてね」
黒浜は悪戯に笑う。
「そんなことはないと…信じたいけど」
こんなことあってはいけないのに、きっとそんな話が沢山あるんだろうな。
秘密は鉛のように腹を重くするけれど、相変わらず、黒浜は美しいと思ってしまう。
そうやって黒浜に縋って何となく生きて、俺は多分幸せを感じてしまっている。
天罰が下るその日まで。
終わり