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その時、為替は動いた!「ブラックウェンズデー」の衝撃。ソロスは何を見たのか? 24/12/7
Yan氏で~す。
インパクト!!!
今回は、為替歴史事件簿第三弾!
ジョージ・ソロス氏が、
イギリスに経済戦争を仕掛けた一戦「ブラックウェンズデー」を詳しく解説していきます。
ちなみに、イギリスではこの事件を "White Wednesday" と呼ぶこともあるそうです。
これは、ERMからの離脱によって、イギリス経済が長期的に見て回復に向かったという解釈から生まれた表現です。
このように、同じ出来事でも、立場や視点によって異なる呼び方をされることがあります。
では、簡単ですが、知らない人のための概略です
ブラックウェンズデー。
1992年9月16日に起こった、イギリス通貨ポンドが暴落した事件です。
簡単に言うと、イギリスは当時、欧州為替相場メカニズム(ERM)という仕組みに参加していました。
これは、加盟国の通貨を一定の範囲内で固定することで、為替の安定を図るものです。
しかし、イギリス経済は低迷しており、ポンドはERMで設定されたレートを維持するのが難しくなっていました。
そこに目をつけたのが、ジョージ・ソロス率いるヘッジファンドです。
彼らはポンドが下落すると予想し、大規模な空売りを仕掛けました。
イギリス政府はポンド防衛のために金利を引き上げ、外貨準備を使ってポンドを買い支えましたが、ソロスらの攻勢に耐えきれず、ポンドは暴落。
結局、イギリスはERMから離脱することになりました。
この事件は、**「イングランド銀行を潰した男」**としてソロス氏の名を世界に知らしめました。彼はこの取引で10億ドル以上の利益を上げたと言われています。
ブラックウェンズデーは、イギリス経済に大きな打撃を与えましたが、ERMから離脱したことで、イギリスは独自の金融政策をとれるようになり、結果的には経済回復につながったという見方もあります。
概略は以上です。
では、最初は当日の経緯からです。
1992年9月16日、ブラックウェンズデー。
イギリスにとってまさに「暗黒の水曜日」となったこの日を時間を追って、できる限り当時の状況を再現してお伝えします。
前日、9月15日火曜日
ロンドン時間 午後: ポンド売りの圧力が強まり、ポンド/マルクの為替レートがERMの下限に接近。イングランド銀行はポンド防衛のため市場介入を開始しますが、効果は限定的。また、各国も防衛に協力。日銀、FRBも介入の手伝いをしています。そして、当時のドイツ連銀も、前日に利下げをして協力しています。しかし、ドイツ連銀総裁は、ポンドも色々とみたいな、オフレコ発言がマーケットにもれます。
当日、9月16日水曜日 ブラックウェンズデー。
ロンドン時間 午前6時: 多くの為替ディーラーがオフィスに出勤。すでにポンドはERMの変動幅下限を割り込んでいました。
ロンドン時間 午前7時:日本時間: 午後3時
ジョージ・ソロス率いるクォンタム・ファンドが本格的にポンド売りを仕掛けます。
他のヘッジファンドや投機筋もそれに追随し、ポンド売りが加速。
ロンドン時間 午前9時:日本時間: 午後5時
ロンドン市場が開場。ポンド売りはさらに激化し、イングランド銀行は公定歩合を10%から12%に引き上げますが、ポンドの下落に歯止めがかかりません。
ロンドン時間 午後12時:日本時間: 午前8時
ノーマン・ラモント蔵相は、ポンド防衛の決意を表明し、さらなる利上げを示唆。しかし、市場のポンド売り圧力は衰えず。
ロンドン時間 午後2時:日本時間: 午後10時
イングランド銀行は公定歩合を15%に再引き上げ。それでもポンドは下落を続け、ERMから脱落の危機に瀕します。
ロンドン時間 午後7時:日本時間: 午前3時
ついにイギリス政府は敗北を宣言。ERMからの離脱と、公定歩合を12%に戻すことを発表。
日が変わり、
9月17日(木): ポンドはさらに下落。イギリスは正式にERMから離脱。
前後を踏まえて、これが当日前後の流れになります。
では、ブラックウェンズデー以前の動きも簡単に解説しておきます。
1990年10月:、イギリスはERMに加盟。しかし、ドイツとの金利差や経済状況の違いから、ポンドはERM参加当初から下落圧力にさらされていました。
1992年夏頃、 ドイツマルク高が進行し、ポンドへの売りが加速。ヘッジファンドはポンドの脆弱性に注目し、空売りの準備を進めていたと考えられます。
あくまで大まかな流れです。当時の為替市場は、短期間で状況が大きく変化していました。
話を戻しますが、当時の衝撃は凄まじかったようです。
ロイター通信は、ブラックウェンズデー当日、刻一刻と変化する状況を速報で伝えました。
「ポンド、ERM下限を突破」 (London time 9:00 AM, 日本時間 午後5時頃) - ポンド売りが殺到し、ERMの規定する変動幅の下限を突破したことを速報。市場の混乱と、イングランド銀行の介入の開始を伝えています。
「イングランド銀行、公定歩合を12%に引き上げ」(London time 9:30 AM, 日本時間 午後5時半頃) - ポンド防衛のため、イングランド銀行が緊急利上げに踏み切ったことを報道。市場の反応や、さらなる利上げの可能性について言及しています。
「ソロス、ポンド売りで巨額の利益」(London time 午後, 日本時間 夜頃) - ヘッジファンド、クォンタム・ファンドを率いるジョージ・ソロス氏が、ポンド売りで巨額の利益を得ていることを報道。その戦略や、市場への影響について分析しています。
「イギリス、ERM離脱へ」(London time 7:00 PM, 日本時間 9月17日午前3時頃) - イギリス政府がERMからの離脱を決定したことを速報。ポンドの暴落と、今後のイギリス経済への影響について解説していました。
著名人の発言も、当時の混乱と衝撃を物語っています。
ノーマン・ラモント蔵相の発言。当初はポンド防衛に自信を見せていましたが、敗北宣言後は「ERM離脱は、イギリス経済にとって正しい決断だった」と釈明しました。
ジョン・メージャー首相:の発言「困難な決断だったが、イギリス経済の将来を守るためには必要だった」と述べ、国民に理解を求めました。
ジョージ・ソロス:の発言「ERMは欠陥のあるシステムだった。私はその欠陥を利用しただけだ」と語り、自らの行動を正当化しました。
これらの報道や発言からは、ブラックウェンズデーが、単なる経済事件ではなく、政治や社会にも大きな影響を与えた出来事であったことが分かります。
では、当時のイギリス側の対応ですが、一言でいえば、初動が遅かった。状況が理解できていなかったのではないかと思います。
ブラックウェンズデーにおいて、イギリス政府はポンド防衛のために市場介入や金利引き上げなどの措置を講じましたが、 ultimately ポンドの下落を食い止めることができませんでした。
その要因の一つとして、政府の政策決定の遅れが指摘されています。
状況認識の甘さ: 政府は、当初、ポンドが投機攻撃に晒されている状況を深刻に受け止めていませんでした。
対応の遅れ: ポンドが下落し始めても、政府は有効な対策を打てずに、時間だけが過ぎていきました。
決断の遅れ: ERMからの離脱という決断を下すのが遅れたため、ポンドは暴落し、イギリス経済は大きなダメージを受けました。
政府の対応が後手に回った背景には、いくつからあります。
1,ERM維持へのこだわり強かった。 政府は、ERMを維持することがヨーロッパ統合へのコミットメントを示すものと考えており、ERM離脱に強い抵抗感がありました。
2,官僚主義。政策決定プロセスが複雑で、迅速な対応が難しかった可能性があります。
3,情報不足:。政府は、市場の動向や投機筋の動きを正確に把握できていなかった可能性があります。
などが考えられます。
ブラックウェンズデーは、危機管理において、迅速かつ的確な状況判断と対応がいかに重要であるかを改めて示す教訓となりました。
当時のイギリス国民は、ポンドの暴落によって、生活や将来に不安を感じたことでしょう。一方、金融市場では、ソロス氏の勝利に興奮と畏怖の声が上がりました。
ブラックウェンズデーは、世界経済におけるヘッジファンドの影響力の大きさを改めて認識させ、その後の金融市場の規制や政策にも大きな影響を与えたと言えます。
ロイター通信はブラックウェンズデー当日、すでにジョージ・ソロス氏がポンド売りを仕掛けていることを把握し、それを記事にしていました。
当時の記事の中で、ソロス氏の動向に注目が集まっていたことが伺えます。
ソロス氏が率いるクォンタム・ファンドが、巨額の資金を動員してポンド売りに動いていることを報道。
ソロス氏の過去の投資実績や、市場への影響力について言及。
ソロス氏の戦略や狙いについて、専門家の分析を掲載。
これらの報道から、ロイター通信は、ソロス氏がポンド危機のキーパーソンであることを認識し、その動向を注視していたことが分かります。
しかし、当時はヘッジファンドの情報公開が限定的であり、ソロス氏が具体的にどれだけのポンドを売っているのか、正確な数字を把握することは難しかったようです。
それでも、ロイター通信は、入手可能な情報に基づいて、ソロス氏の動向をいち早く伝え、市場参加者に警鐘を鳴らしていたと言えるでしょう。
ブラックウェンズデーは、ヘッジファンドの情報公開の重要性を改めて認識させる出来事でもあり、同時に、ロイター通信が、いかに精力的に報道にまい進していたかが解ります。
ロイターでもソロスファンド、いや、ソロス率いるクォンタム・ファンドですね。が、ポンド売りを仕掛けているのが解っていたのに、イギリス政府も仕掛け人がだれかは知っていたはずです。 もしこういった内容の映画があったなら、仕掛け人のところに、政府スタッフが警告に来るはずですが、実際にそういったことはなかったのか?ネットで調べると、確証がある話ではないようですが、こんなことがあったようです。
実際に、ソロス氏の元へ政府関係者からの警告や脅迫があったのかどうか、公式に確認された情報はありません。しかし、いくつか興味深いエピソードが残っています。
まず、ソロス氏自身は、ブラックウェンズデー以前からイギリス政府やイングランド銀行の幹部と接触していたと言われています。
非公式な会合でソロス氏は、自身の見解を伝え、イギリスがERMから離脱する可能性を警告していたという話があります。
また、政府関係者との接触をし、 ポンド売りの意図をほのめかし、政府の対応を牽制していたという説もあります。
これらのエピソードが事実であれば、ソロス氏は政府関係者と水面下で接触し、ある種の駆け引きを行っていた可能性があります。
また、ソロス氏に対する脅迫については、直接的な証拠はありませんが、当時の状況を考えると、何らかの圧力や脅しがあった可能性は否定できません。
ソロス氏はブラックウェンズデーで巨額の利益を上げました。これは、イギリス国民の多くが損失を被ったことを意味します。 メディアはソロス氏を「イングランド銀行を潰した男」と呼び、国民の反感を買いました。また、政府関係者の中には、ソロス氏を非難し、責任を追及する動きもあったようです。
こうした状況下で、ソロス氏やその関係者が、何らかの脅迫や嫌がらせを受けた可能性は十分に考えられます。
ただし、ソロス氏は当時すでに世界的な投資家として知られており、強固な警備体制を敷いていたと考えられます。そのため、直接的な危害を加えられることはなかったのかもしれません。
いずれにしても、ブラックウェンズデーは、金融市場における駆け引きの激しさと、巨額の利益を巡る攻防戦の側面を浮き彫りにした出来事でした。
映画のようなドラマティックな展開があったかどうかは定かではありませんが、水面下では様々な思惑が渦巻いていたことは想像に難くありません。
一応、入国拒否なったかどうか、調べましたがなっていないようです。
ただし、ソロス氏はブラックウェンズデー以降、イギリス国民から批判されることも多く、一部の政治家からは入国を禁止すべきだという意見も出ていました. しかし、イギリスへの入国を拒否されたことは発見できなかったので、問題ないと思います。
当時、多くの書籍や資料で、ジョージ・ソロス氏はブラックウェンズデー当日、ニューヨークにいたとされています。ソロス氏はすでに世界的な投資家として名を馳せており、ニューヨークに拠点を置くクォンタム・ファンドを率いていました。
ブラックウェンズデー当日、ソロス氏はニューヨークの自宅やオフィスから、ロンドン市場の動向をリアルタイムで監視し、取引の指示を出していたと考えられます。
現代のようにインターネットやモバイル通信が発達していなかった時代でも、ソロス氏は電話やファックスなどの通信手段を駆使し、世界中の市場とつながっていたのです。
また、ソロス氏は、世界中に情報網を築き上げており、各国政府や中央銀行の動向、市場のセンチメントなどをいち早く入手していたと言われています。
ブラックウェンズデー当日も、ソロス氏は膨大な情報分析に基づき、ポンド売りのタイミングと規模を決定したのでしょう。
彼がニューヨークにいながらにして、ロンドン市場を揺るがすほどの影響力を持っていたことは、驚くべきことです。
ブラックウェンズデーは、グローバルな金融市場において、情報と戦略がいかに重要であるかを改めて示した出来事と言えます。
今度は、イギリス側のお話です
騒動の根源であるERMについて、解説します。
そもそも、なぜイギリスは固定相場制であるERMに参加したのでしょうか?
その前に簡単ですが、ERMは、1979年に発足した欧州通貨制度(EMS)の中核的な仕組みとして導入されました。その目的は、加盟国の通貨の為替レートを安定させ、インフレを抑制することでした。欧州通貨制度(EMS)は、1979年から1998年末まで、欧州共同体(EC)加盟国間で維持された通貨制度です。簡単に言うと、ユーロ導入前の準備段階として、ヨーロッパ各国の通貨を安定させ、インフレを抑えるための仕組みでした。
ERMの参加理由
第二次大戦後のイギリス経済は力強い成長と緩やかなインフレーションによって支えられてきましたが、1970年代初頭に変化が訪れました。1972年まで英ポンド相場は固定相場制でしたが、インフレ抑制のために変動相場制が導入され、英ポンドの価値は金融市場の需給関係に基づいて決定されるようになりました。この変動相場制の導入は、後にユーロと呼ばれる統一通貨を導入する計画「スネーク」の一部でしたが、投機アタックによって英ポンドが急落し、計画は頓挫しました。
1973年以降、中東の産油国が米国に対する禁輸措置を実施し、石油市場の支配権を握りました。これにより、インフレが進行し、英ポンド安の圧力が高まりました。第四次中東戦争の勃発と原油価格の急騰、供給不足による食料価格の上昇が重なり、英国のインフレ率は1970年初頭の5%から1975年には25%以上に上昇しました。1976年には英ポンドが2ドルを下回り、政府は金利を引き上げて英ポンド売りを抑制しようとしましたが、外貨準備が枯渇していたためIMFの支援が必要となり、緊縮財政を求められました。
1980年代を通じて英国政府はインフレーションや英ポンド安に対応し、英ポンドは上昇し、インフレも1985年に5%を下回りましたが、その後も高止まり傾向が続きました。英国政府は通貨統合のために英ポンドの安定を重視し、1980年代後半にはドイツマルクとの固定相場を導入しましたが、当時の英国のインフレ率はドイツの3倍もありました。
欧州為替相場メカニズム(ERM)は、欧州経済共同体(EEC)の加盟国が導入した為替レートを調整するためのメカニズムで、1979年に導入されました。ユーロ導入前に加盟国は欧州通貨単位(ECU)を導入し、為替相場の変動幅を±2.25%に抑えることを原則としました。1975年の国民投票で英国はEECに留まることを支持しましたが、ERM発足当初は参加を見送りました。1990年にマーガレット・サッチャー首相がERM参加を決定し、後任のメージャー首相もERM参加に積極的でしたが、インフレの上昇が深刻化し、英ポンドの価値を上昇させることでインフレ圧力を抑制しようとしました。
1970年代から80年代にかけてイギリスでインフレが深刻化したのは、様々な要因が複雑に絡み合った結果です。主な原因として、以下の点が挙げられます。
1. オイルショック
1973年と1979年のオイルショックは、世界的にインフレを引き起こしました。イギリスも例外ではなく、原油価格の高騰は、エネルギーコストの上昇を通じて、あらゆる商品やサービスの価格を押し上げました。
2. 賃金と物価のスパイラル
物価上昇によって生活費が上昇すると、労働者は賃上げを要求するようになります。企業は賃上げ分を製品価格に転嫁し、それがさらなる物価上昇を招くという悪循環に陥りました。
3. 財政赤字の拡大
当時のイギリス政府は、福祉政策の拡大や国営企業の維持などに多額の支出を行い、財政赤字が拡大していました。財政赤字は、通貨供給量を増やし、インフレを加速させる要因となります。
4. ポンド安
ポンド安は、輸入品の価格を上昇させ、インフレを悪化させる要因となります。1970年代から80年代にかけて、イギリスは経済の低迷や政治の不安定などから、ポンド安に悩まされていました。
5. マネタリズム政策
1970年代後半、サッチャー政権はマネタリズム政策を採用しました。これは、通貨供給量を抑制することでインフレを抑え込むという政策です。しかし、この政策は、一時的に景気を悪化させ、失業率を上昇させるという副作用ももたらしました。
これらの要因が複合的に作用し、イギリスは深刻なインフレに苦しんだのです。ERMへの参加は、こうしたインフレを抑制するための手段の一つとして考えられました。 当時のイギリスは、ヨーロッパ統合に積極的に参加しようという機運が高まっていました。ERM(欧州為替相場メカニズム)への参加は、単一通貨ユーロ導入への布石とされており、ヨーロッパ統合へのコミットメントを示す象徴的な行動と捉えられていました。
当時のメージャー首相は、ERM参加によってイギリスがヨーロッパの中心的な役割を果たし、国際的な地位を高めることができると考えていました。
しかし、ERM参加には、
ドイツとの経済状況の違いから、ポンドが投機攻撃に晒されるリスクがありました。
また、ERM参加によって、イギリスは独自の金融政策をとることが難しくなり、主権が制限される可能性がありました。
それでも、当時メージャー首相は、政治的な思惑からERM参加を推進し、議会での承認を得ることに成功しました。
独立精神旺盛なイメージがあるイギリス議会でよく可決されたなと思い、すこし調べてみました。
先にも述べましたが、イギリスがERMに参加するにあたっては、議会の承認が必要でした。
そして、実際に議会ではERM参加をめぐって激しい議論が交わされ、賛否は伯仲していました。
当時のイギリスでは、保守党のメージャー政権が政権を担っていましたが、党内でもERM参加には反対意見が根強く、造反者が出る可能性もありました。
野党の労働党も、ERM参加には慎重な姿勢を示していました。彼らは、ERM参加によってイギリス経済がドイツの経済政策に縛られることを懸念していました。
議会での採決は、1990年10月23日に行われました。結果は、賛成310票、反対287票という僅差で、ERM参加が承認されました。
賛成票を投じたのは、主に保守党議員と、自由民主党の一部議員でした。一方、反対票を投じたのは、労働党議員と、保守党内のERM反対派、そして一部の少数政党の議員でした。
このように、ERM参加は、イギリス議会においても賛否が分かれる難しい決断でした。
当時のイギリス社会では、ERM参加によってインフレが抑制され、経済が安定化するという期待がある一方で、ヨーロッパ統合への懸念や、ドイツへの従属を危惧する声も上がっていました。
結果的に、ERM参加は、ブラックウェンズデーという形で「失敗」に終わりましたが、当時のイギリス議会における議論は、為替制度の選択が、経済的な側面だけでなく、政治的な側面も強く反映していることを示す興味深い事例と言えるのではないでしょうか?
参考資料。
CMがいかがでしたでしょうか。
では、続きです。
ここで、気が付いたのですが、1973年にニクソンショック後に変動為替相場に移行した実例を見ながら、それでも、固定相場制を選んだ、当時の欧州諸国。金融立国でもあるイギリスも、ちょっと前にあった実例を見ながら採用したのが不思議です。それほど、追い込まれていたとも考えられます
当時のイギリスの置かれた状況や、ERMの特性、そして為替制度に対する考え方の変化などが複雑に絡み合っていると考えられます。少しですが考察してみます。
まず、1970年代のアメリカと1990年代のイギリスでは、置かれた状況が大きく異なっていました。
経済状況の比較から考えてみます。アメリカは当時、世界最大の経済大国であり、ドルは基軸通貨としての地位を確立していました。一方、イギリスは経済成長が鈍化し、インフレやポンド安に悩まされていました。
次に政治状況の比較です。 アメリカはベトナム戦争の泥沼化などで国内が混乱し、国際的な地位も低下しつつありました。一方、イギリスはサッチャー政権の下で、市場主義的な政策を推進し、ヨーロッパ統合に積極的に参加しようとしていました。
これらの違いから、アメリカは固定相場制を維持するよりも、変動相場制に移行することで、経済の自由度を高め、国際競争力を強化することを選択しました。一方、イギリスは、ERMへの参加によって、インフレ抑制、為替安定、ヨーロッパ統合などを実現しようと考えたのではないでしょうか。
また、ERMは、ブレトン・ウッズ体制のような固定相場制とは異なり、加盟国の通貨はある程度の変動幅を認められていました。これは、固定相場制の rigid な側面を緩和し、各国の経済状況に合わせた柔軟な運用を可能にするための工夫でした。しかし、ブラックウェンズデーの経験から、ERMのような「調整可能な固定相場制」でも、投機攻撃に対して脆弱であることが明らかになりました。
さらに、1970年代以降、為替制度に対する考え方が変化してきたことも見逃せません。
1,変動相場制の優位性。変動相場制は、各国が独自の金融政策を実行できる柔軟性があり、外部からのショックを吸収しやすいという利点があります。ニクソン・ショック以降、変動相場制を採用する国が増えてきました。
2,固定相場制の限界。 固定相場制は、為替レートの安定をもたらしますが、投機攻撃に弱く、経済状況の変化に対応しにくいという欠点があります。ブレトン・ウッズ体制の崩壊は、固定相場制の限界を示すものでした。
こうした考え方の変化も、イギリスがERMに参加した理由の一つと言えるでしょう。当時のイギリス政府は、ERMのような「調整可能な固定相場制」であれば、固定相場制の利点を享受しつつ、その欠点を克服できると考えていたのかもしれません。
しかし、ブラックウェンズデーは、固定相場制の本質的な問題点を改めて浮き彫りにしました。それは、市場の力に対して、国家が為替レートをコントロールすることの難しさです。
イギリスの「失敗」は、為替制度の選択が、各国の経済状況や政治状況、そして時代背景によって大きく左右されることを示す教訓と言えるでしょう。
では、離脱した理由であるERM(欧州為替相場メカニズム)において、イギリスが設定していたポンドの下限について詳しく説明します。
ERMは、加盟国の通貨をドイツマルクを中心とした一定の範囲内で変動させる、いわば「調整可能な固定相場制」でした。
各国の通貨は、ERMの中心レートに対して、上下2.25%の変動幅が許容されていました。つまり、ポンドの場合、中心レートから2.25%以上下落すると、ERMの枠組みから外れてしまうことになります。
これが、ポンドの**「下限」**です。
ブラックウェンズデー以前、ポンド/マルクの為替レートは、1ポンド=2.95マルクに設定されていました。そして、2.25%の変動幅を適用すると、ポンドの下限は約2.88マルクとなります。
もしポンドが2.88マルクを下回ると、イギリス政府は、いずれかの措置を講じる義務がありました。
市場介入が必要になります。外貨準備を使ってポンドを買い支え、為替レートを下限以上に維持する。
また、 金利を引き上げることで、ポンドの魅力を高め、ポンド買いを誘導する。
最後は、ポンド防衛を断念し、ERMから離脱する。
ブラックウェンズデーでは、ソロス氏率いるヘッジファンドの大規模なポンド売りに、イギリス政府は上記の介入と利上げの措置を講じましたが、ポンドの下落を防ぐことができませんでした。
結局、イギリス政府は離脱の選択肢を選び、ERMから離脱することになりました。
ERMにおける変動幅と下限の設定は、加盟国の通貨安定を図るための仕組みでした。しかし、ブラックウェンズデーの経験は、固定相場制が投機攻撃に対して脆弱であることを示し、為替制度の柔軟性の重要性を改めて認識させることになりました。
マルク通貨は今はないので、米ドルの方が解りやすいと思います
ブラックウェンズデーでイギリスがERMを離脱する直前のポンド/ドルの為替レートは、およそ1.8ドル台後半から1.9ドル台前半でした。
ERM離脱後、ポンドは急落し、1992年9月17日には一時1ポンド=1.77ドルまで下落しました。そのまま、下がり続けて、翌年1993年2月には、1ポンド1.4ドルまで下落が進みました。
つまり、ブラックウェンズデー前と比較して、ポンドは約20%から25%も下落したことになります。
このポンドの暴落は、イギリス経済に大きな衝撃を与え、輸入物価の上昇や海外旅行の減少、株価の変動など、様々な影響をもたらしました。
しかし、ERM離脱とポンド安は、長期的に見ると、イギリス経済にプラスに働いた側面もあります。ERMから離脱したことで、イギリスは独自の金融政策を実行できるようになり、景気回復を促進することができました。また、ポンド安は、イギリス製品の価格競争力を高め、輸出を増加させました。
ブラックウェンズデーとそれに伴うポンドの暴落は、イギリス経済にとって大きな試練でしたが、同時に、新たな時代への転換点でもあったという意見が多いようです。
ブラックウェンズデーの影響とイギリスの景気回復について、時系列で整理してみましょう。
1992年9月16日ブラックウェンズデー発生。イギリス、ERM離脱。ポンド急落。
1992年9月~1993年末の状況・
ポンド安による輸入物価上昇の影響で、インフレ率が上昇。
経済の不確実性から、企業の投資意欲が減退。
失業率が増加傾向に。
この時期は、ブラックウェンズデーの直接的な影響を受け、イギリス経済は低迷しました。
当時のイギリスの様子を伝えるエピソードとしては、以下のようなものがあります。
1,住宅ローン危機。 ポンド暴落の影響で金利が上昇し、住宅ローンの返済が困難になった人が続出しました。住宅差し押さえも増加し、社会問題となりました。
2,企業倒産。経済の不確実性から、企業の投資意欲が減退し、倒産する企業も増えました。失業率は10%を超え、多くの人が職を失いました。
3,生活苦。 物価上昇と失業率の増加により、生活苦に陥る人が増えました。当時の新聞には、食料品を盗んで逮捕される人が増えたという記事も掲載されました。
4,社会不安。 経済の悪化は、社会不安を増大させました。デモやストライキが頻発し、治安も悪化しました。
当時のイギリス国民は、将来に対する不安を抱え、暗いムードに包まれていました。
1994年~1997年頃の状況。
ポンド安による輸出競争力の強化が効果を発揮し始め、輸出が増加。
金融政策の自由度を生かした景気刺激策が功を奏し、景気が徐々に回復。
失業率も低下傾向に転じる。
この時期から、イギリス経済は回復基調に乗り始めます。イギリス経済の復活劇ですが、詳しく見てみます。
様々な要因が絡み合っていますが、大きく分けて以下の3つがポイントです。
1. ポンド安効果。
ブラックウェンズデーでポンドが暴落したことは、短期的には混乱を招きましたが、輸出競争力を高める効果をもたらしました。イギリス製品が海外市場で安価になったため、輸出が増加し、製造業を中心に経済活動を活発化させました。
2. 金融政策の自由化。
ERMから離脱したことで、イギリスは独自の金融政策を実行できるようになりました。イングランド銀行は、景気回復を促すために金利を引き下げ、金融緩和政策を実施しました。低い金利は、企業の投資を促進し、雇用創出にもつながりました。
3. 規制緩和と構造改革。
サッチャー政権以来、イギリスでは規制緩和や構造改革が進められてきました。国営企業の民営化や労働市場の柔軟化など、市場メカニズムを重視した政策は、企業の競争力を高め、経済の効率性を向上させました。
これらの要因が複合的に作用し、イギリス経済は1994年頃から力強い回復を見せました。
さらに、この時期の世界的な景気拡大も追い風となりました。ITバブルの勃興は、イギリスの金融サービス産業やIT産業を成長させ、雇用創出に貢献しました。
もちろん、これらの要因だけでイギリス経済の復活を説明できるわけではありません。
一番は、国民の努力。 厳しい経済状況の中でも、イギリス国民は勤勉に働き、将来への希望を失いませんでした。
企業も、新たな技術やビジネスモデルを開発し、国際競争力を強化しました。
そして、イギリス政府は、経済政策だけでなく、教育や社会福祉などの分野でも改革を進め、国民生活の向上に努めました。
これらの要素が、イギリス経済の復活を支えたと言えるでしょう。
1997年以降は、ITバブルの追い風もあり、イギリス経済は安定成長を続けます。
そして、2008年のリーマンショックまで、比較的良好な経済状況が続くことになります。
ブラックウェンズデーの影響が完全に払拭された時期を明確に断定するのは難しいですが、1994年頃から景気回復が始まり、1997年頃には安定成長軌道に乗ったと言えるでしょう。
ただし、ブラックウェンズデーの影響は、経済的な側面だけでなく、政治的な側面にも長く影を落としました。
ブラックウェンズデーは、メージャー政権の経済政策の失敗として、国民の批判を浴び、支持率が低下しました。また、ヨーロッパ統合への影響も大きく、ERMからの離脱は、ヨーロッパ統合に対するイギリスの消極的な姿勢を示すものと受け止められ、EU加盟国との関係に影響を与えました。
このように、ブラックウェンズデーは、イギリス経済にとって大きな試練でしたが、同時に、新たな時代への転換点でもありました。ERM離脱によって得られた金融政策の自由度は、その後のイギリス経済の安定成長に大きく貢献したと言えるでしょう。
ところで、イギリスは直ぐに離脱したのですが、その他の国はどうなったのでしょうか?。
ブラックウェンズデーは、ERMの脆弱性を露呈させ、加盟国に大きな衝撃を与えました。イギリスがERMを離脱したことで、ERMの信頼性は失墜し、為替制度の安定性に対する疑問の声が高まりました。
この危機を教訓に、ERMは抜本的な改革に乗り出しました。
1. 変動幅の拡大
1993年8月、ERMは各国通貨の変動幅を ±2.25% から ±15% に拡大しました。これは、為替レートの柔軟性を高め、投機攻撃に対する耐性を強化するための措置でした。変動幅が大きくなることで、投機筋はより多くの資金を必要とし、攻撃のリスクが高まります。
2. 介入義務の緩和
為替レートが変動幅の上限または下限に達した場合でも、必ず介入しなければならないという義務を緩和しました。これにより、各国は経済状況に応じて、より柔軟な対応を取れるようになりました。
これらの改革によって、ERMはより柔軟で安定的な制度へと進化しました。しかし、ブラックウェンズデーの教訓は、固定相場制の本質的な脆弱性を浮き彫りにしたままでした。
その後も、ERMの枠組みを維持することが困難になった国がありました。
イタリアは、1992年9月、イギリスに続いてERMを離脱。
スペインは、1993年5月、ERMの変動幅を拡大。
ポルトガルは、1993年5月、ERMの変動幅を拡大。
これらの国々は、経済状況の悪化や投機攻撃への懸念から、ERMの枠組みを維持することが困難になり、離脱や変動幅の拡大を選択しました。
そして、ユーロ導入への流れになります。
ブラックウェンズデーとERM改革を経て、ヨーロッパ各国は、より強固な通貨統合の必要性を認識するようになりました。
1992年2月に調印されたマーストリヒト条約では、単一通貨ユーロの導入が決定されました。ユーロ導入は、為替変動リスクを排除し、域内経済の統合を促進することを目的としていました。
1999年1月1日、ユーロが導入され、ERMはユーロ導入準備のための制度としての役割を終えました。ユーロ参加国は、自国通貨をユーロに固定し、ECB(欧州中央銀行)による統一的な金融政策の下で、通貨の安定を図ることになりました。
ERMは、ユーロ導入への道筋をつける上で重要な役割を果たしましたが、ブラックウェンズデーは、固定相場制の限界と、通貨統合の必要性を改めて認識させる出来事となりました。
現在、ERMは、ユーロに加盟していないEU加盟国が、ユーロ導入に向けて経済状況を調整するための制度として存続しています。
ERMの歴史は、為替制度の進化と、ヨーロッパ統合の過程を映し出す鏡と言えるでしょう。
ブラックウェンズデーは、ユーロ導入を加速させた出来事だったと言えるでしょう。
ブラックウェンズデーでERM(欧州為替相場メカニズム)が抱える脆弱性が露呈したことで、ヨーロッパ各国は、より強固な通貨統合の必要性を痛感しました。
ERMは、加盟国の通貨を一定の範囲内で固定することで為替の安定を図る制度でしたが、投機攻撃に対して脆弱であることが明らかになりました。
ブラックウェンズデーは、固定相場制の限界を改めて示し、単一通貨ユーロ導入の機運を高めることになりました。
ユーロ導入のメリットとしては、
1,為替リスクの排除。ユーロ圏内での貿易や投資において、為替変動リスクがなくなります。
2,取引コストの削減。 為替手数料や両替コストが削減されます。
3,価格の透明性向上。 各国で価格が比較しやすくなり、競争が促進されます。
4,金融市場の統合:。ユーロ圏全体で、より効率的な金融市場が形成されます。
5,政治的な安定。 ユーロ導入は、ヨーロッパ統合を深化させ、政治的な安定に貢献します。
などが挙げられます。
ブラックウェンズデーは、ユーロ導入の直接的な原因ではありませんが、ユーロ導入を推進する上で重要な役割を果たした出来事だったと言えるでしょう。
ユーロ導入は、ヨーロッパ経済にとって大きな転換点となり、現在もその影響は続いています。
ここで、予断ですが整理しておきましょうEUとユーロの関係、そしてイギリスの立ち位置は、多くの人にとって混乱しやすい点です。整理してみましょう。
EU(欧州連合)とは、ヨーロッパの多くの国が加盟する政治・経済の連合体です。加盟国は、共通のルールや政策に基づき、協力し合っています。
ユーロとは、EUの単一通貨です。ユーロ圏と呼ばれるEU加盟国の一部で使用されています。
ポイントは、EU加盟国=ユーロ使用国ではないということです。
イギリスは1973年にEUの前身であるEC(欧州共同体)に加盟しましたが、単一通貨ユーロには参加しませんでした。
ユーロ導入のメリットは、為替リスクの排除や取引コストの削減など、経済的なメリットが大きい一方で、
金融政策の自主性の喪失があります。ユーロ圏では、欧州中央銀行(ECB)が金融政策を決定するため、各国は独自の金融政策をとることができません。
また、財政政策の制約にもなります。ユーロ圏では、財政赤字や政府債務に関するルールが厳しく、各国は財政政策の自由度が制限されます。
といったデメリットもあります。
イギリスは、これらのデメリットを考慮し、ユーロ導入を見送ったと考えられます。
特に、イギリスは、世界有数の金融センターであるロンドンを抱えています。ユーロ導入によって、ロンドンは国際金融市場における優位性を失う可能性がありました。イギリス国民は、自国通貨であるポンドに強い愛着を持っています。ユーロ導入は、国民感情に配慮する必要がありました。
こういったことで、ユーロ不参加の理由として挙げられます。
そして、2016年、イギリスは国民投票の結果を受けて、EUを離脱しました(ブレグジット)。
EU離脱の理由は複雑ですが、
移民問題。EU域内からの移民増加による社会への影響
主権の回復:。EUのルールや政策に縛られることなく、独自の政策を実行したいという思い
経済的な負担。EUへの拠出金が大きいという不満
などが主な要因として挙げられます。ブレグジットは、また別の機会にでも取り上げます。
一旦、CMを入れます。
参考指標
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%89%E5%8D%B1%E6%A9%9F
では、今度はソロス氏側から、見てみます。
ソロス氏は再帰性理論で知られています。ここでは、ブラックウェンズデーにおける彼の行動からどのような戦略だったかを見ていきます。
1. 事前準備。周到な情報収集と分析
ソロス氏は、単に勘や思いつきでポンド売りを仕掛けたわけではありません。彼は、世界中に情報網を築き、政治・経済の動向を綿密に分析していました。
まずマクロ経済分析です。
当時のイギリス経済は、高インフレ、低成長、経常収支の赤字など、多くの問題を抱えていました。ソロス氏は、これらの問題点からポンドが過大評価されていると判断しました。
次にソロス氏は、ERM(欧州為替相場メカニズム)の仕組みを深く理解し、その脆弱性を見抜いていました。ERMは、加盟国の通貨を一定の範囲内で固定する制度でしたが、投機攻撃に対しては脆弱でした。
また、政治状況もよく理解していました。
ソロス氏は、イギリス政府がERM維持に固執していることを認識していました。これは、政治的な思惑が経済合理性を上回っている状態であり、投機筋にとって有利な状況でした。
2. 空売りの実行と大胆なレバレッジ
ソロス氏は、ポンドが下落すると確信し、100億ドル規模の空売りを仕掛けました。
空売りの仕組みですが、まず、市場でポンドを借り、それを売却します。そして、ポンドが下落した後に買い戻すことで、その差額が利益となります。FXトレードをしている方はよく解っている方多いと思います。
そして、 ソロス氏は、レバレッジ(借入)を利用することで、自己資金以上のポンドを売却しました。これにより、巨額の利益を狙うことができました。
またタイミングを図る能力は天才としか言えないくらい絶妙でした。 ソロス氏は、他の投機筋の動きや市場のセンチメントを見極め、ポンド売りに最適なタイミングを選びました。
3. マーケットインパクト。他の投資家が追随。
ソロス氏の行動は、他のヘッジファンドや投機筋にも大きな影響を与えました。
ソロス氏の成功を見て、多くの投資家がポンド売りに追随しました。
連鎖反応が起こり、ポンド売りが加速することで、ポンドはさらに下落し、ソロス氏の利益は拡大しました。
ポンドの急落は、イギリス政府に大きな圧力をかけ、ERM離脱へと追い込みました。
4. 情報戦。
ソロス氏は、メディアを通じて積極的に情報発信を行い、市場心理に影響を与えました。
ソロス氏は、ポンドが過大評価されていると主張し、ポンド売りの正当性をアピールしました。
次にソロス氏は、イギリス政府の政策を批判し、ERM離脱を促しました。
これらの戦略によって、ソロス氏はブラックウェンズデーで巨額の利益を上げ、「イングランド銀行を潰した男」という異名を得ることになりました。
ソロス氏の成功は、
卓越した情報収集力と分析力
大胆な投資判断
市場心理を読み解く力
情報戦を巧みに利用する能力
など、様々な要因によるものです。
ブラックウェンズデーは、ヘッジファンドの巨大な影響力を世界に知らしめ、金融市場における情報戦の重要性を改めて認識させる出来事となりました。
では、いつ頃から、このポンド売りを仕掛けようと思っていたのかですが、
正確な時期を特定するのは難しいです。公式に発表された情報はありませんし、ソロス氏自身も具体的な時期については明言していません。
しかし、いくつかの状況証拠から、ある程度の推測は可能です。
先にも言いましたが。
1990年10月イギリスのERM加盟した時点で、ソロス氏はすでにポンドの過大評価に気づいていた可能性があります。当時、イギリス経済は低迷しており、ドイツとの金利差や経済状況の違いから、ポンドはERM参加当初から下落圧力にさらされていました。
1992年夏には、ドイツマルク高が進行し、ポンドへの売りが加速しました。この頃には、ソロス氏はポンドの脆弱性に注目し、空売りの準備を進めていたと考えられます。
多くの情報では、ソロス氏は、ブラックウェンズデーの数週間前から、水面下でポンド売りの準備を進めていたと言われています。彼は、信頼できるトレーダーやアナリストを集め、市場の動向を綿密に分析していました。
これらの状況証拠から推測すると、ソロス氏は、遅くとも1992年の夏頃にはポンド売りの計画を練り始め、ブラックウェンズデーの数週間前には具体的な準備を進めていたと考えられます。
ただし、ソロス氏は、常に市場の状況を注意深く観察し、柔軟に戦略を修正していました。そのため、ポンド売りの計画も、状況に応じて変更されていた可能性があります。
彼がいつからポンド売りの計画を練っていたのか、正確な時期は謎に包まれています。しかし、彼の行動は、綿密な情報収集と分析、そして大胆な決断力に基づいていたことは間違いありません。
イングランド銀行に勝った男は、やはり只者ではないのですね。
一つ、AIシュミレーションしてみました。
当時のイギリスが、ソロスに勝つ方法がありましたか?と、投げかけました。
AIの回答です
ブラックウェンズデーにおいて、イギリスがソロス氏率いるヘッジファンドに勝つ、つまりポンドを防衛しERMを維持することは、非常に困難だったと考えられます。
しかし、いくつかの選択肢を試みることで、あるいは異なる結果になっていたかもしれません。
勝つためのケース1,より強力な介入
イギリス政府はポンド防衛のために市場介入を行いましたが、その規模はソロス氏らの資金力に比べて限定的でした。もっと大規模な介入を行っていれば、ポンドの下落を食い止めることができたかもしれません。しかし、そのためには巨額の外貨準備が必要となり、財政負担が大きかった可能性があります。これですが、当時、270億ポンド使ったとされていましたが、2000年代に入り、実は33億ポンドだったことが、後年になり判明しています。
ソロス氏側は、100億と言われているので、三分の一では、勝算はかなり低かったというか、焼け石に水ですね。これはちなみにAIは情報を拾えなかったようです。よって、このケースでは勝てません。
ケース2、金利の大幅な引き上げ
金利を引き上げることでポンドの魅力を高め、ポンド買いを誘導するという方法もありました。しかし、金利の大幅な引き上げは、景気を冷やし、企業の投資意欲を減退させるリスクがあります。当時のイギリス経済はすでに低迷しており、金利の大幅な引き上げは、さらなる景気悪化を招いた可能性があります。短期的に、上げ下げしても、効果が薄い状態でした。
ケース3,資本規制の導入
資本規制を導入し、海外からの投機的な資金流入を制限するという方法もありました。しかし、資本規制は、自由な市場経済の原則に反するものであり、国際的な批判を招く可能性があります。また、資本規制は、長期的に見ると、経済の効率性を低下させる可能性も指摘されています。
ケース4,ERMからの早期離脱
ポンドが投機攻撃に晒されている状況を早期に認識し、ERMから早期に離脱するという選択肢もありました。これは、ポンドの暴落による損失を最小限に抑えることができる一方、ERMからの離脱は、ヨーロッパ統合に対するイギリスのコミットメントを疑わせるものであり、政治的なリスクを伴いました。
ケース5,ソロス氏との交渉
ソロス氏と直接交渉し、何らかの妥協点を見出すという方法もありました。しかし、ソロス氏は、ポンドの過大評価を是正し、市場メカニズムに従って利益を得ようとしていました。政府との交渉によってポンドの価値が維持されれば、彼の目的は達成できません。また、政府が特定の投資家と交渉することは、市場の公平性を損ない、他の投資家からの信頼を失う可能性があります。
これらの選択肢は、いずれもメリットとデメリットがあり、どれが最適な選択だったのかは、状況によって異なります。
しかし、ブラックウェンズデーの教訓は、固定相場制が投機攻撃に対して脆弱であること、そして、市場の力に対して、国家が為替レートをコントロールすることの難しさを示しています。
イギリス政府は、ポンド防衛のためにあらゆる手段を講じましたが、最終的にはERMから離脱を余儀なくされました。
以上が回答ですが、私の方でも、注釈を足しています。
AIからしても、仕掛けられた時点で、勝つのは厳しい状況だったようです。被害を少なくするためには、ERMからの早期離脱。もしくはソロスに直談判、など上げられますが、時、既に遅しだったのではないでしょうか。
いかがでしたでしょうか。
今回は、ジョージソロス率いるクォンタムファンドが、イングランドに闘いを挑み、勝利したブラックウェンズデーを特集してみました。色々と本を読み、ネットで調べて、作成しました。ERMの説明に東西ドイツ統一の影響、ヨーロッパ各国の思案まで、広げるとそれはそれで1本の動画になりますので、今回は割愛しました。
また、今回、作成しての感想ですが、
現在、ソロスさん率いるクォンタムファンドで働いていた人が、今、独立して、世界中にいます。その人達が、各々にヘッジファンド等の投機投資をおこなっています。そんな人達と同じ市場で、私のような個人トレーダーが勝てるかと問われれば、素直に「無理です」と言えます。勇気と蛮勇は、違います。
絶対に相場に、逆らってはいけない。解らない時は何もしないと、より強く思うようになりました。これも、ファンダに順張りの教えのたまものです。
それと、スイスフランショック、ニクソンショックに続き、為替では、固定相場制には、限界があるようです。次に何かあるとしたら、その通貨は何になるのでしょうか?。
そんな感じです。
では、ここからは、小学生にも解る解説です。
みんな!こんにちは!Yan氏だよ。
今日は、ちょっとむかしの、イギリスという国のお金「ポンド」のお話です。
ポンドは、ヨーロッパの仲間たちと「仲良く同じくらいの値段でいようね!」って約束をしていました。
でも、イギリスはちょっと元気がなくて、ポンドの値段を高く保つのが難しくなっちゃったんだって。
そこに、ソロスさんというすごい人が現れて、「ポンドの値段は下がるぞ!」って言って、たくさんのポンドを売っちゃったんだ。
イギリスは「ポンドを守らなきゃ!」とがんばったけど、ソロスさんのパワーに負けて、ポンドの値段はドーンと下がってしまったんだ。
これが「ブラックウェンズデー」っていう、イギリスにとって悲しい出来事だよ。
でも、それからイギリスは、自分のやり方で経済を立て直すことにしたんだ。
ポンドの値段が下がったことで、外国の人がイギリスの商品をたくさん買ってくれるようになったんだって。
そのおかげで、イギリスは元気を取り戻して、今では世界で活躍しているんだ!
ソロスさんは、たくさんの情報を集めて、ポンドが下がるって見抜いたんだって。すごいよね!
ブラックウェンズデーは、お金の世界で起こった大きな事件で、世界中の人がお金についてもっと真剣に考えるようになったんだって。
ソロスさんみたいに、情報をたくさん集めて、賢く取引することが大切なんだね!
今日はここまで
バイバーイ!
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今回は、為替歴史事件簿第三弾として、1992年9月16日に起こった「ブラックウェンズデー」を解説しました。
ジョージ・ソロス氏率いるヘッジファンドがイギリスの通貨ポンドを大規模に空売りし、イギリス政府がポンド防衛に失敗、ERM(欧州為替相場メカニズム)からの離脱を余儀なくされた事件です。
当時の為替市場の状況、ソロス氏の戦略、イギリス政府の対応、そしてその後のイギリス経済への影響について、詳しく解説しています。
動画では、
ブラックウェンズデー当日の緊迫した状況を時系列で再現
ソロス氏の巧みな情報収集と大胆な投資戦略を分析
イギリス政府の政策決定の遅れやERM維持への固執を検証
ブラックウェンズデーがイギリス経済、そしてヨーロッパ統合に与えた影響を考察
AIシミュレーションを用いて、イギリスがソロス氏に勝つための選択肢を検討
など、多角的な視点からブラックウェンズデーを分析しています。
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