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ヴェネツィア共和国誕生の背景

ローマ帝国のその後

ヴェネツィア

ヨーロッパの様々な場所で、古代ローマの建造物(水道橋、円形闘技場、道路、城壁など)が残されていて、ローマ帝国(紀元前753~後476)の領土の広さがしのばれます。

ヴェネツィアのあるイタリア北東部にも、『ロミオとジュリエット』で有名なVerona(ヴェローナ)の円形闘技場、Ravenna(ラヴェンナ)のモザイク画のように間近に見られるものや、空からの写真で見えてくる、ローマ時代の均一な長方形の土地区画のようなものまでたくさんあります。

「ヴェネツィア」の語源となったVenetia(ヴェネティア)は、紀元前のローマ帝国の一地方だったことは判っているのですが、ラグーナに作られたこのヴェネツィアの街の起源については、解釈が二つに分かれています。

まず、多数派の、「4、5世紀のゴート族、フン族、ロンゴバルト族等の侵入により、ヴェネト地方の住民がラグーナ(沼沢地)の島々へ移住したのがはじまり。」という説。

次に少数派の、「ローマ帝国時代にはすでに、ラグーナの島々に文化的にも発達した街が存在していた。」という説。

多数意見が、今ではほぼ公式見解となっていて、地元ヴェネツィアの小学校で「ヴェネツィアの歴史」を学ぶときにも教えられるのは残念ながら、前者の説です。

ヴェネツィアの路地

この後者の説は少数派ながら以前より根強くあって、後に「地中海の女王」といわれるまでの海洋国家になりえたヴェネツィアのなりたちについてより説得力があると思っています。

実際、普通の開拓地以上に高度な技術を必要とする、ラグーナ(沼沢地)の土木建築をはじめ基礎工事のために大量に使用されるカラマツ等の木材、また大理石などの調達および物流システムだけを考えてみても、一時避難的な集落ではなく、都市計画のできる高度な組織の存在があったと考える方が、違和感がありません。

憎まれっ子ヴェネツィア

古代の歴史の見解というのは、決定打がないかぎり、仮説や人々の希望的解釈というものも加わって、統一するのは単純ではありません。
ましてイタリアのように、今でも都市間にとても根深いライバル意識があるような地域ではなおさらでしょう。

ヴェネツィアはその強大さゆえに、他国(ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノなど)やローマ教会から「憎まれっ子」であり続けたため、後の権力者に無意識にあるいは意識的に、ヴェネツィア起源の歴史がもみ消された可能性も全くないとは言えないと思います。

後者の説のなかで、トロイア戦争(紀元前1000年頃)の敗者たちの一部がローマに落ち延びて、ローマ帝国の基礎を築き、別の一部がヴェネト地方へ下ってヴェネツィア人となった、という見解もあります。後の、常に東方を目指したヴェネツィア人の『習性』のようなものを考えるときこれも、さもありなんと思うのです。


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