心地よい嘘
「努力は必ず報われる」
「人間は全て平等だ」
「…」
そのような心地よい嘘は度々不幸な誤解を生んでしまう。
それはしばしば「だったらいいな」っていう願望がいつしかそうに違いない。と思われてしまっているケースが多い。
残念ながら努力は必ず報われない。
但し努力をしなければ報われようがない。
努力という切符を買わなければ、
報われた約束の地に辿り着かない。
必ずしも切符があることと辿り着くことはイコールではない。
まあまあ早い段階で皆それに気がついているはずなんだけど…
逆上がりがすぐ出来る人と、
練習すると出来る人、
いくら練習しても出来ない人。
時間はコストだとすると、逆上がりの練習にかけるコストを他の何かにかけた方が良い人もいる。
遺伝子検査にて子供にどんな努力、習い事を優先でやらせたら効率が良いかを調べる時代だ。
何事も為せばなる。
では出遅れるのが現実なのではないか。
と、そのようなことは実は分別ある大人は殆どが知っている。
知っているけど「努力は必ず報われる」って響きが心地よい。
心地よい上に道徳的に正しい事を言っている感がある。
向き不向きあるんだから効率よくやれよ。…は不道徳な感じするもんね。
残念ながら気持ち良いだけじゃ生きてゆけません。
仕事一つとったって、
「おかれたところで咲きなさい」
「我慢する時間がもったいないからどんどん天職のための転職しよう」
どっちも正しく聞こえるよね。
前者が保守本道、後者がリベラルだと思うんだけど正直その時に都合のいい方で考えれば良いと思うのです。
自分の年齢や経験値で聞こえ方や信憑性が変わってくる類のことだし。
占いは信じたいタイミングで信じたい部分だけ信じたらいいと極論思うし、
「それは綺麗事でしょ」
ってことだって自分を奮い立たせるためのスローガンとして必要な時はある。
そういうのは「方便」という。
仏教を突き詰め救済を求めていた人たちの中で自らどころか全ての人、生き物を救うために祈る人が現れ、
自利利他を是として世界の救済を目指すと、今までの仏教徒を「小乗」と見下す。
今までの仏教徒は「あいつら綺麗事言って…先ず自分を救わないと他人は救えないだろう」と。
説明すると長くなるけど、キリスト教も漏れなく保守とリベラルに別れてしまう。
心地よい嘘が暴かれて、更に心地よい嘘が上書きされていく。
話は横に逸れたけど、そういう誰も真実ど真ん中をはぐらかしている状況
だからこそ、その時々にフィットした言葉が自分に入ってきやすいし、
ことの本質を理解していれば転身も軽やかに出来るはず。
倒れそうな時はしょうがない。
でも、一つのことに頼りすぎるな、寄りかかりすぎるな。
殉教者になってはいけない。
手放す勇気、逆方向から覗き込める柔軟性を持とう。
心地よい言葉ほど用心しなくちゃ。