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人知れず消えてゆく

人の死に触れた話。

突然の訃報

先日、中学校のときの担任だった先生が亡くなったと連絡がありました。
享年55歳、病気で亡くなったとのこと。
まだ自分の親とも変わらない年齢で、しかも記憶の中ではまったく死を感じさせない元気な姿の先生が亡くなったというのは、あまりにも衝撃的な出来事でした。

急だったものの実母に娘を預け、お通夜に参列することに。
中学を卒業してからは、一度だけ高校の制服を見せに行って以来会うことがないままでした。
私が進学した高校にはこの担任の先生の友人がいたので、高校の様子や教育実習をやっていることなどを間接的に伝わっていたようです。

中学校のときは3年間変わらず担任を受け持ってもらったのに、まったく会うことがないままでお通夜に参列することになるとは思いませんでした。

学校の先生だったこともあってかお通夜にはたくさんの人が参列しており
、式場には入れませんでした。
新型コロナの影響もあってか、式場に入れなかった人は待合室で順番を待ち、案内があったらご焼香をしに式場へ行くという流れになっていました。

「純粋に学校の先生をしていたから関わった人数も多いし、そうだよなぁ」と漠然と思いましたが、おそらくそれだけではないのでしょう。
先生の人柄の表れなのだと思います。

先生のこと

先ほど少し触れましたが、この先生は中学3年間ずっと変わらず担任の先生でした。
私が通っていた中学は人数が少なく、1学年2クラスずつだったのでクラス替えがあってもほとんど変わらない状態でした。
しかもクラス替えは1年生から2年生に上がるときに一度だけ。
つまり、中学2年生で担任になった先生は卒業までずっと変わらなかったのです。

私たちの学年を受け持つのは本当に大変だったと思います。
複雑な家庭環境の子も多かったですし、不登校の子もいました。
さらには水筒にお酒を入れて持ってきた生徒がいたとか、たばこの吸い殻が落ちていたとか…
私たちより上の先輩は本当に真面目な生徒ばかりで、こんなに手がかかった学年は私たちだけだったようです。

私もいじめを受けてリストカットを繰り返しており、この先生にはかなり心配をかけていました。
今思えば私たちの学年はよく全員そろって卒業できたなと思います。

そしてそんな大変な学年を受け持った先生自身も、2人のお子さんを育てる母親でした。
私も母親になった今、中学の教師をしながら子どもを育てるのはどんなに大変なことかと想像もつきません。
しかも私たちが入学したとき、産後間もなかったとつい最近母親に聞かされました。
本当に大変な中、私たちを受け持ってくれてたんだなぁと改めて先生の素晴らしさを実感しました。

香典返しに付いていた挨拶状にも、仕事も家庭も手を抜くことがなかったと書いてあって、どちらも一生懸命だったんだなと思います。
私は学校の先生であるところしか見たことがないのですが、きっと母親としても素晴らしい方だったんでしょう。

人の死に触れるということ

少し話題が逸れますが、私は年齢の割にお通夜への参列の回数が多いかもしれません。
そして親族よりも知人のお通夜に参列した回数のほうが多いのです。

中学の同級生、中学の部活動の先輩、高校の部活動の後輩、友人のご家族…
若くして亡くなる方ばかり見てきました。

よく”安らかな顔で眠っている”という言葉を使いますよね。
私はあまり使いたくないのが本音です。
たしかに天寿を全うした方に使うのであればいいかもしれません。

しかし、若くして思いがけず亡くなった方は?
今日自分が死ぬと思っていなかったのに亡くなってしまった方は?
安らかな顔で眠っているなんて思えないのです。

もしかしたら、生きている私たちが亡くなった方とお別れをする折り合いをつけるために言葉にしているにすぎないのかもしれませんが…

「この人は安らかな顔で眠っているから、不幸ではないのだ」と、送り出してあげようとする精一杯の言葉なのかなぁ…とも思うのでした。

まとめ

人はいつか死ぬと頭ではわかっているものの、心の準備ができるものばかりではないですよね。

今回お通夜に参列した先生もご病気で亡くなったとのことでした。
もし私が先生の状況を知っていて心の準備ができていたとしても、何もこんなに早く亡くならなくても…と受け入れられるものではないでしょう。
ご家族の方は特にそうだと思います。

「人の命は有限だから、今日を精一杯生きよう。」
「いつ会えなくなるかわからないから、会えるときに会っておこう。」
など、これらはよく言われている言葉です。
そして私たちもなんとなくわかっていながら、今を生きるのに必死でつい後回しにしがちなことでもあります。

私も先生のお通夜に参列しましたが、家に帰ればいつも通りの日常がまた繰り返されます。
それでもまた、私はこのような機会があるたびに人の死について考え、自分が生きることや家族が生きていることについて思いを馳せるのでしょう。

存在がいなくなってもふとしたときに思い出せるような、そんな生き方を私もしてみたいものです。

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