4日目。母の病気のこととか。
さすがの三日坊主にはならないぞ! と、決意新たにnoteを開く朝(でも書き終わったら夕方になっていました。まじか)。ごきげんよう。私です。
まだまだ始まったばかりのnoteなので、色々と書けるネタはまだまだあるけど、さてどれから行こうか? となったら悩みますね。過去のやらかしとかいっぱいあるぞぅ! いっぱいない方が普通に良い人生だと思うんですが。現状ではまだまだ文体も統一されていないですね。丁寧語なのなんなの? 全体的にノープランでやってみようで始めちゃったからね、シカタナイネ。
いい思い出と悪い思い出だったら、悪い思い出の方が記憶に残りやすいのだと昔どこかで聞いたことがあります。なので、いい思い出は積極的に反芻しておかないと、この先もっと老いた時に思い出せなくなるんだろうなと思っていて。これは近年アルツハイマー病がめっきり進んだ母を見て、もしも自分がこうなったとしたら、悪い記憶ばかりに支配されて悲観して暮らすとしたら……やばない? と思ったりもしたからで。
だって現状で脳疾患になってもおかしくないなと思うわけです。多分遺伝的なものだと思うが脳の血管細いねって医者にも言われているんだもの。頸椎板間ヘルニアをやらかした時のMRIで判明したんですが。って、もうあれから5年くらい経ってない? 時が経つの早すぎィ!
さて。今500文字くらい書き進めてきたんですが、お察しの通り迷走中です。膨らませられるネタがいくつもある……。その中から、いずれここにも登場回数の増えるであろう母の話にしましょうか。長くなりそうなんだけど、アルツハイマー病、これが気になる人も多いのではないのかな?と思うので。初期のアルツハイマー病の母に初めて会った頃の話。
母のアルツハイマー病が発症したのは2019年11月頃かと思う。ちゃんと検査してわかった日付もメモ魔の父に聞けばはっきりするかもしれないんだけど、私の手元のメモには『11/25:母検査、2日後結果?』だけだった。多分これがアルツの検査だったんじゃないかなと思う。その頃は私も仕事のことでストレス溜めてる時期で、両親のことをあまり真剣に捉えられなかった時期だった。そんなに急激に悪化するもんでもないだろう、と。結果的に、この検査でアルツハイマー病だと確定した。
次に明確な日付で残っているメモは、2021年2月。2020年はすっ飛ばされているけど、この年は新型コロナが猛威を振るっていて。県をまたぐ移動なんてとてもできない年だった。思い返せば、母の病状が悪化したのはこの年だったのだとわかる。友人とお茶したり、婦人会で何やら集まりがあったり、何か習い事に出かけたりと、よくお出かけしていた母が、緊急事態で外出できないし友人も遊びに来れなくなってしまった。家の中で無口な典型的昭和親父の父と二人っきりで(ペットはいっぱいいるんだけど)、刺激の激減した生活の中で、母の脳はどんどん固まってしまっていた。
2021年2月4日、父の腎臓がんが再発したので、来月手術するという電話がかかってきて、その間母をまるっきり一人にはできないから何日か泊りがけて面倒を見に来てほしいというもの。ドネペジル錠を1日ひと粒飲んでいるらしい。2月23日には父がパンを買ってきてくれと頼んだが、何も買わずに帰って来たとある。このあたりで父はヤバイと感じているようだった。でも私も姉も、そうはいってもまだまだ大丈夫でしょ? と思っていた。
父の手術日も入院する日も決まったので、それまでに一度来て様子を見て欲しいとか言われたが、その頃の私は仕事的に詰まっていて、ちょっと今すぐには行けない感じだった。
『お前は行く言うてもちっとも来ぇへんやないか、心配ちゃうんやな!』と電話口で怒鳴られ、大変心外だったので電話で口喧嘩になったのは3月5日の23時過ぎ。この頃の母はまだまだ大丈夫そうで、電話で話をしている分には昔とほとんど変わらないように思えた。母は『こっちは大丈夫だから無理そうなら無理してこなくていいのよ?』と言っていた。
今思えば、父は自分の手術のことで、もしものことがあったらもう死ぬかもしれないと恐怖を感じていたし、母はまだらに発症している状態だったので、大丈夫だと言えたのだと思う。でもその時の私にはそれは見えていなかった。母が病に蝕まれているのを実感できないまま、手術入院当日の朝に私は電車に揺られて家族のいる病院へと向かった。
術前処置のために入院し、実際の手術は午後だからと、手術前の説明に同席するため戻ってくるが、昼前だし一旦家に戻ることになった。姉夫婦の車でスーパーに寄って買い物をして帰るプラン。店内での母は高い物を買いたがらず、PB商品のお菓子の大袋に『すごいやん!』とはしゃいで6~7個かごに入れる。今まで見たことがないわけがないだろうに。
これがアルツかと、ここで初めて母の病状を目の当たりにした。
今日の昼ごはんはお弁当を買って済ませることにして、他にも母が欲しいという納豆2パックや牛乳2本、バナナ2房、あんぱんなどをかごに入れ、4人で買い物を済ませて実家に着く。しかし車のドアの開け方がわからなくて出られない。普段乗り慣れない車だとしても、内側から開ける構造にそこまでの違いはないのだが。姉にドアを開けてもらって外に出られた母に、玄関のかぎを開けてくれと頼むと、鞄から鍵を出して開けてくれる。私と姉夫婦の中に、母の小さな違和感が積み重なっていく。
実家の冷蔵庫を開けると、そこには納豆3個パックがひとつ、牛乳1本と飲みかけ1本があった。棚からバナナが2房出てくる。何の食材が家に残っているのか把握できていないんだなとわかった。4房分合計約20本のバナナを1本ずつバラして軸にラップを巻いて追熟を防ぐ処理を施す私。その間の母は『お味噌汁がいるよね、すぐできるから』と作ってくれていた。姉が横について手伝い、少し薄味だったからもう少し味噌を足してもらって、うす揚げのお味噌汁とカツ弁当で昼食となった。いろんな種類のカツをトレードして食べる。楽しそうに食事をする母。『美味しいわ~こんなん初めて食べるわ~』と笑う母に笑いながら、心の中では「そんなわけないやろ……」と思っていた。
今ならわかる。母は大勢で楽しく食事することが楽しくて、美味しいねと言い合いながら食べるのがとても美味しく感じられたんじゃないか? コロナ禍前には多分友人たちと定期的に食べてたんじゃないかな? と。
そうして4人で食卓を囲み食べていると、室内放し飼いの大型犬が母の足元にスタンバイし、おこぼれにあずかろうとよだれを垂らしている。私は人間の食事中にそれを中断して犬に何かを与えることはしない主義で、姉もペットフード以外は与えない主義っぽく、上目遣いのわんこと目が合わないように食事を続けていた。だが、母は自分のお弁当の中から白米を一口分手に取って、わんこに食べさせる。『私こんなんしてやるから、パパにすぐ怒られるねん』といって母は笑う。うん、わんこ太ったよね。そして母はわんこの名前を一度だけ、先代ゴールデンレトリバーの名前で呼んだよね。記憶の掛け違いが随所にあるのがわかる。そういやさっきスーパーで買い物してる時も、姉の旦那様を『パパ』って呼んだよね。
ことあるごとに『パパは大丈夫やろか』『パパ可哀想やね、あんな切って』『大変やねパパ』と言う母だが、術前説明を聞きに再び病院へ向かう車中でマスクを忘れたことに気づいた時には『どうしよう~こうやっていつもパパに、お前何やってんねん! って怒られるんや~』と不安そうにしていた。姉宅に寄ってもらってマスクをもらい事なきを得たが、母は『このことパパには黙っといてな』と言ってくる。
医師から手術の説明を父母私の3人で聞く時には『もう全てお任せしているから、私パーなんでわからないんで』と笑って言う。
待合室で父と別れて、私と二人になった時には、父について色々聞いてくる。
『これでしばらく会えないの?』→うん、退院するまでね。
『毎日行かないと、あそこの奥さんちゃんとしてへんって思われへんかな?』→大丈夫、今は新型コロナで入れてもらえないから会えないんだよ。
『パパ可愛そうやな、なんか元気ないように見えたわ。しゅーんとしてたな』→そうやね、切るからね、不安なのかもね。
私が自分の生活を優先してしばらく会わない間に、母の世界の大半は父で占められていた。
その後、父が退院するまで、まるっきり母をひとりにしておくわけにもいかないと実感した娘たちは、近くに住んでいる姉をメインにできるだけ実家参りをすることになった。
私は帰宅後、アルツハイマー病とはどういうものか、どう接したらいいのか、してはいけないことは何かを知るべく、今更ながらネットの世界に漕ぎ出した。
多分10年くらい前から母の脳には薄い動脈瘤の気配があり、定期的に脳の検査をしなければならないと母本人から聞いていた。その後、もしかしたらアルツハイマー病を発症するかもしれない、その気配があるという診断は受けていた。しかし発症するかはわからないとも言われていた。だから私は舐めてかかって先送りにし、アルツハイマー病がどういう病気なのかといった基本的な事ですら検索してまで知ろうとはしていなかった。
知識として知っていたら、父の1回目の腎臓がん手術と前立腺がん処置後、男性ホルモンもなくなって更年期障害みたいにヒステリックになってる父と、最近よく口喧嘩になるのだと言う母が『自分はアホやから忘れちゃったわ~ごめんねってパパに言ってんのよ。そしたらパパもしゃーないって感じでちょっと落ち着くから』とか言ってた時に、「ええんちゃう?w」なんて笑っていられなかったんじゃないかという後悔はある。でもそれも今だから思う事。後悔って奴は先に立たないことで有名なんだよなあ……。
あの日から3年半が過ぎた。
母の病状は着実に進み、今では私が娘であることも、私の名前も思い出せない。そもそも子供を産んだことも覚えていない。
時折ふらっと出かけては迷子になって、父が首から下げたエアタグを頼りに探し回ったり警察にお世話になったりする。
この1年で自分からトイレに行けなくなって、おねしょすることも増えてオムツをしても失敗して汚したり汚れ物を隠したりするから、父ももう無理やと泣き言を言ってくる。
デイケアに通うことは嫌いではないようで、行きたくないとごねる事はほぼないと父は言う。しかし最近はデイケアで他の方にきつく言ったり喧嘩のようになってケアマネさんとかに仲裁に入ってもらうことが増えたそうだ。
こうやって書き出すだけでめっちゃ書けることがいっぱいある。同居せず電話で垣間見得るだけでも書ききれないくらいのことがある。きっと父は毎日大変なんだろうと思う。本当に苦労をしているんだと思う。
そうならないように、母には優しく接してねって話は父に何度もした。
何をやっても失敗しても間違えていたとしても絶対に否定せず、まず肯定する、ありがとうってお礼を言う、スキンシップして愛してる好きだよって毎日言って、母が忘れていくことで不安になって不安定になる情緒をケアしてあげてね、お母さんは自分に自信が持てなくなっているから、大丈夫だよって言ってあげてね、ダイジョウブは魔法の言葉だよ。多用してOK!
……何度も言ったんだけどなあ。父にはできなかったんだなあ。
もしも、認知症とかアルツハイマー病とかの検索とかにひょっこり引っかかって、ここにたどり着いてしまった方がいらっしゃったら。
これは我が家の場合の話で、必ずしもすべてのアルツハイマー病の方に当てはまるというものではありません。私も医者じゃないですし。単なる体験談で私個人の考えです。
でも私の母は、自分に自信が持てなくなって、症状が一気に進んだのは間違いないです。
子や孫が同居していないので面倒を見なければならない母としての自信を。
夫から甘えという名の罵倒をぶつけられてちゃんとした妻としての自信を。
年々老いていく自分の容姿に女としての自信を。
誰もが時と共に失いつつも、何かで補ったり自分だけじゃないと実感したりして自分の現状を受け入れていく、そういうことが母にはできませんでした。母として娘に頼ることもできなかったのかもしれません。
我が家の場合、父の愛情表現不足と歪な甘え方が拍車をかけました。
父も病気で不安になったりイライラしたりしたことがあったでしょう。前立腺がんなんて男としての不能宣言に等しいですもんね。腎臓がんも同時に見つかって、元から糖尿病で投薬人生に突入してもう10年以上だし、心中お察しはします。でもあの頃の母は電話で言ってました。
『お父さん、最近すぐ怒って、めちゃくちゃ言ってくるねん……私それが怖くって』
母には何を言っても大丈夫だと、父は自分のイライラを母にぶつけたんでしょうね。そんなに怒るようなことでもないことでも、例えばしまっておけと言ったものがまだ出しっぱなしだったりとか、些細なことでも一瞬でトサカにきて母を怒鳴りつけたのでしょう。そしてそれを後から悪かったなと思ったとしても、母にごめんななんて言ったりしなかったんでしょう。
『だって夫婦なんだし、もう50年も連れ添ってるんだから言わなくてもわかるだろう』そう思ったんじゃないかな?
言わなきゃわからんのよ。何のために口がついてるのよ。言いなよ。
私も、お父さんがなんか理不尽に怒鳴るのなんていつものことくらいに思ってました。お母さんも慣れっこだろうと。でも、自分に自信が持てなくなりつつあった母にはダメージだったと思います。
新型コロナ対策のせいだとは思いません。未知の伝染病に対して警戒しすぎるほど警戒していて問題はない。時期が重なってしまったことはもう運が悪かったとしか言いようがない。
母の周辺症状が出るようになって、母の症状がひどくならないよう、出来るだけ現状を維持しつつ寿命を全うするにはどうしたらいいか。父とはよくそんな話を電話でしました。
でもその電話の最中に、向こうで母が何かをやらかすと、
『あかんあかん! もー何もするなって言ったやろ! たのむからせんといてくれ!! せ ん と い て ! じっとしとれ!! そこ座っとけ! ……あいつ明日食おうと思とった天ぷら冷蔵庫から出してきて鍋て煮ようとするんや。お前からもよぅ言い聞かせたってくれ、おい、ほらこれ、電話! 話せ! よぅ話聞いとけ!』
と、母を電話口に出します。電話口の母はしょぼくれた弱々しい声。
『これ? これに話すの? もしもし……私、ごめんなさい……』
私いま、脳内再生できるくらいほぼ忠実に書き出せたと自負しております。もうね、書いてて思い出し怒り呆れするわ。こんなん悪化しないわけがない。父も今はここまで酷い言い方はしないですむように少しはできてきてはいますが。いやぁ悪い記憶はこんなにも鮮明に思い出せる。あ、冒頭と繋がりましたね? 長くなったしそろそろ〆なきゃ。
ここまで読んでくださった方の中で、アルツハイマー病で軽度の周辺症状が出始めたご家族のケアをしなければならなくなった方、私の父のようにはならないでください。絶対にならないでください。
介護は大変です。終わりもないし、むくわれない。達成感も得にくいでしょう。世話してもありがとうなんて言ってもらえないのに、こっちはとんちんかんなことをしでかす相手に心にもないお礼を言わなきゃいけないなんて理不尽だ。わかります。なんで自分がこんなことをしなきゃいけないんだ。それもわかります。でも、病気になっちゃったんだから仕方ないんです。ままならないのは病気になった本人だって同じなんです。だからもう全部許して、全面降伏で、全て諦めて怒り自体を持たない方がいいと思います。
だって、こっちが怒ると悪化するんです。
イライラぶつけたって何の解決もしないんです。悪化するんです。
そうなったらどうなると思います? お世話が大変になっていくんです。
母の電話はないので、父にかけて代わってもらうのですが、こっちが明るい声で「元気~?」と母に電話をすると、『あら~あなたなのね~!』と明るい声が返ってきます。ほんと鏡なんだなあと実感します。
面倒見たくなかったら高い金を払って施設に放り込むという手段もあるでしょう。その方が当人にとって幸せな場合もあるかと思います。
でも母はまだまだらと言える範囲で、完全に忘れたわけでもないし、『私にはパパしかいない、この家にずっと住みたい』って言うんです。そう言っている間は、家に置いておいてあげて欲しい。
電話で父母のメンタルケアしかできていない娘はそう思うのです。