まずは自分が変わろうとすることだった
私は初めて依存症外来にいました。
依存症?その時私は、夫も息子も確かに病んではいるが、依存症という意識は全くありませんでした。
まずは個室に呼ばれ、相談員さんに30分ほど詳しいことを聞かれ、その中で、息子の市販薬の過剰摂取のこと、その薬代を私が出したことがあることを話すと、相談員さんは少し怪訝な顔をしていました。
その後は、医師による診察。
待ち時間はさほど長くはなかったのですが、その間に色々なことが頭を過ぎりました。
やはり薬代を出してあげたことは良くなかったのだろうか?
私は家族としてここに来たのになぜ診察を受けるのだろうか?
診察室に呼ばれ、中に入ると、60代から70代くらいの男性医師がいて、この病院の院長先生ということでした。
先生はしばらくカルテを見ながら、深いため息を漏らし私の方を見つめ言いました。
「こりゃ大変だ」
私は自分のことを、よく言えば楽観的で、悪く言えば危機感のない人間だと自覚しています。
だからその時(あなたは今大変な状況なんですよ!)と改めて気づかせてもらったような、今まであまり経験したことのないような感情に、胸が締め付けられるような思いでした。
先生は「薬代出してあげたりしたらダメだよ」と少し厳しい表情。
その後、主に息子のことについて話を進めると、ある1冊の本を紹介してくれました。
女性医師でテレビにも度々出演している、おおたわ史絵さんの著書でした。
虐待と薬物依存を続ける母親との関係に苦しんできた、著者おおたわさんの体験記なのですが、著書の中で、その院長先生が登場して、実際におおたわさんが乗り越えるきっかけになったということでした。
私は、事の重大さと少しの希望で自然と涙が止まりませんでした。
この時初めて気が付いたのです。
自分がもう限界なのだと。
その日は、毎週その病院で開いている教育プログラムや家族会の説明を受け、帰宅しました。
その時点では、家族会出席については半信半疑でしたが、まずはおおたわ史絵さんの著書をネットで注文して、一気にに読み終えました。
一番心に残っているのが「溺れる人と浮き輪の話」でした。
少し長いですが・・
依存症患者を、荒波を漂流する一人の人間に置き換え、大勢の人間が集まって乗っている狭いボートは、人付き合いが難しくて生きづらい。
だから彼は思わずボートから飛び降りてしまった。
海にポツンと浮かんだ彼は面倒なことから解放されて自由になれた。
でもその代わり孤独になった。
たった一人で海を泳がなくてはならない不安も生まれた。
泳ぎ続けるのも段々としんどくなってきた。
そんな時目の前に浮き輪が流れてきた。
彼はそれを迷わずつかむ。
一人ぼっちの彼にとって浮き輪だけが頼みの綱だ。
溺れないため、死なないために、しっかりと両手でしがみつく
いつしか浮き輪は絶対に手放せない何よりも特別なものになっていった。
ボートの上の人間たちは、そんな彼を見て嘲笑った。
その浮き輪を力ずくで取り上げようとするものまでいた。
たった一つの味方の浮き輪は、ダメだと言われれば言われるほどどんどん離しがたい大事なものになっていった。
ボートは社会生活を表し、浮き輪は依存対象、アルコールや薬、ギャンブル、自傷行為。
何とか見つけ出した生きる秘薬だ。
そして浮き輪を奪い取ろうとする恐ろしい人たちは、彼にとって敵以外のなにものでもない。
そんな奴らの言いなりに浮き輪を手放すなんてありえない。
でも実は彼は知っていた。
もう浮き輪があっても安心でも快適でもないことを。
ただ失ってしまったら死んでしまうかもしれないくらいに恐いから、どうしても手が離せないのだ。
他に生き方がわからないのだ。
そこへある人が声をかけてきた。ボートの上からとても優しく。
でも本当に信じていいのか、浮き輪を話して大丈夫なのか、どうすればよいのかわからなくてものすごく辛かった。
彼は長い浮き輪の漂流生活で心も体もボロボロだった。
「助けて、助けて」彼は生まれて初めて心の底から叫んだ。
その人は優しくボートに彼を引き上げた。
ボートの上の人たちはみんな優しく、温かった。
何度も死んでしまいたいと思ったのに、あんなに孤独だったのにこうして生き延びた。
少しずつだけど人を信じられるようになった。
もう彼の手に浮き輪は握られていない。
この話は、依存症の脱却に必要なのは、制裁でも圧力でも論破でもない。
浮き輪に変わるものを周囲の人間が与えられるかどうかにかかっている。
彼に勇気を持たせ自信を与え、他人を信用するという変化を起こさせるだけの情熱と根気と敬意と愛情を私たち自身が持っているかなのだ。
次の週、私は教育プログラムを受けるため、車で1時間40分の道のりを走らせていた。