サッカー日本代表東京五輪からメキシコシティ五輪へ
画像は左から故デットマール・クラマー(西ドイツ)、故ジャウマ・サントス(ブラジル)、ベルティ・フォクツ(西ドイツ)
ついメキシコ五輪と言ってしまうが、五輪は国ではなく都市が開催するものであるからメキシコシティ五輪が正しい。
資料によると、サッカーの日本代表(特記なき場合は男子)が最初に五輪に出場したのは1936年であり、2回戦敗退でベスト8というので参加国は16(以下)だったのであろう。次が1956年で1回戦敗退。1960年はアジア予選で敗退している。1964年第18回五輪は東京で開催され、予選免除の日本は奇跡的に予選リーグを勝ち抜いたが、準々決勝=決勝トーナメント1回戦で敗退する。次の1968年メキシコシティ大会で銅メダルを獲得した後は6大会連続でアジア予選で敗退し、ようやく1996年アトランタ大会に出場すると、今年4月に出場権を獲得した2024年パリ五輪まで8大会連続出場となった。2021年は自国開催であるから、それを挟んで7大会連続でアジア予選を勝ち抜いた訳であり、ようやく完全に暗黒の時代を脱した感がある。
参加資格は1980年まではアマチュア限定、その後1988年までは条件付きでプロも参加可能となり、1992年からはプロの制限が無くなる代わりに年齢が23歳以下に限定となり、1996年からオーバーエイジ規定が追加になった。
このあたりの経緯はつい最近の記事に詳しく書かれている。
祝日本代表! でも何かヘンだよ、五輪サッカー (msn.com)
参加資格のみ考えるとアマチュア限定だった時代の方が出場しやすそうであるが、それだけ日本の低迷が深刻だったのである。そして1993年に始まったJリーグが日本選手の強化に果たした貢献が絶大だったことがわかる。
日本サッカー協会は自国開催となる1964年五輪を見据えて1960年に当時35歳だった西ドイツのデットマール・クラマーをコーチとして招聘する。クラマーは後に日本サッカーの父と呼ばれるほど多くのものを日本にもたらした。Wikipediaを読むだけでも感動的なエピソードがいくつか書かれている。当時の選手が「本場ドイツからやって来てどんな高度な練習をしてくれるかと思ったら、インサイドキックの繰り返しで当惑した。」と回想するように、徹底的に基礎から鍛え上げたという。クラマーはコーチ兼通訳として関係の深かった6歳下の岡野俊一郎と日本を離れても生涯を通じて交流していたという。
さて、1964年東京五輪を率いた監督は長沼健34歳、コーチは岡野33歳であった。協会は思い切った若手登用をしたものだ。長沼は現役の選手であり東京五輪のメンバーではないが五輪後も古河電工の選手として日本リーグに出場している。東京大会の選手19人の内4年後のメキシコシティ五輪にも選出されているのが横山、鎌田。宮本(征)、鈴木、片山、小城、森、富沢、山口、八重樫、渡辺、宮本(輝)、杉山、釜本と実に14人もいて、その内6人は東京五輪時は大学生だった。メキシコシティ大会での銅メダルはそこそこ若くて経験も積んでいる選手が多数いた事も大きな要因であろう。
東京五輪時は私はまだボールを蹴った事もなくサッカーは全く興味の対象外だった。アルゼンチンを破ってベスト8に進出したという事は後年新聞・雑誌等で知っていたが、今回調べてみるとベスト8は棚からぼた餅だったことがわかる。本来16チームが4チームずつの予選を戦うはずだったが、日本と同グループのイタリアにプロ選手がいることが発覚しイタリアは棄権したのだ。アルゼンチンは初戦でガーナと引き分け、中1日で元気満々の日本と対戦したのだ。日本は2回先行されたが、3-2で逆転勝利した。2点目を記録したのは古河電工所属、後にJリーグ初代チェアマンを務め、バスケット界の内紛を収拾し、2021年東京五輪で選手村村長も務めた川淵三郎である。日本は中1日で中3日のガーナに2-3で敗れるが、よくやったと言うべきであろう。日本は準々決勝でチェコスロバキアに4-0で完敗する。いずれも中1日であり、時間的なハンデは無い。決勝でチェコスロバキアを2-1で下したハンガリーが金メダルを獲得する。
サッカー競技は東京以外に大宮と横浜でも行われたが、関西サッカー協会の尽力とIOC及びFIFAの同意により非公式の5位決定トーナメントが準々決勝で敗退した4チームによって大阪と京都で行われた。ここで日本はユーゴスラビアに1-6で敗れてガーナと共に非公式7, 8位に沈むが、この試合で2得点したのが、後に自国代表のみならずジェフ市原や日本代表の監督も務めたイビチャ・オシムである。
クラマーは東京五輪後任期を終えて帰国するまでに芝生のグランドの増設と維持、海外遠征を含めた強化試合の増加、コーチの養成などいくつもの提言をするが、中でも重要だったのが日本リーグの設立であろう。1965年に創立し早速同年からリーグ戦が開催された。当初参加したのは東洋工業(マツダ)[サンフレッチェ広島]、八幡製鉄(日本製鉄)、古河電工[ジェフ市原/千葉]、三菱重工[浦和レッズ]、日立製作所[柏レイソル]、豊田自動織機、ヤンマーディーゼル(ヤンマー)[セレッソ大阪]、名古屋相互銀行(名古屋銀行)の8チーム。( )内は現在の社名、[ ]内はそこが母体となったJリーグチーム名を示す。1966年にはサッカーマガジンが創刊され、小学生で普通に野球やドッジボールをしていた私が野球よりサッカーが好きになったのもこの頃である。これ以降は資料に頼らずに嘘を書いてしまう事もあると思う。
長沼監督、岡野コーチを続投させ、東京五輪には選手として出場した平木隆三を新たにコーチとしたチームはメキシコシティ五輪へ向けて精力的に強化試合をこなした。当時は欧米の強豪国のナショナルチームが弱小日本のオファーに応じてくれるはずもなく、対戦相手は専らクラブチームである。中でもブラジルのパルメイラスは強豪だった。ペレス、サントス、バウドッチ、ドド、ダリオ、ツパンジーニョ、セザール、アデミール、リナルド・・・ブラジル人の名前ってこういうんだという初歩的な学びと共に華麗なプレーに釘付けになった。ブラジル代表でも活躍し、1958年、1962年W杯の優勝メンバーだった右SBのジャウマ・サントスは、当時“20万ドル(7200万円)の足”と言われた快足左ウィングの杉山隆一に仕事をさせなかった。それでも日本は3試合中の第2試合を2-1で勝利する。決勝点を挙げたのは釜本邦茂。前に書いたジョージ・ベストに比べるとだいぶぎこちないもののGKとの1対1を躱して左の角度の無い所から流し込んだ。
メキシコシティ五輪のアジア予選については別に述べるが、1967年にそれを勝ち抜いて出場権を得た後に対戦したのはソ連の中央陸軍という物騒な名前のチームとチェコスロバキアのデュクラ・プラハである。三国対抗と銘打った大会は後年キリンカップと呼ばれた大会方式の走りと言える。尚、今資料を見るとこの時のソ連のチーム名はCSKAモスクワとなっている。なんだ、後年本田圭佑や西村拓真が所属したチームではないか。いずれのチームも今はプロであるが、1967年当時はステートアマと呼ばれた共産主義国特有の身分の選手によって構成されていた。日本はどちらのチームとも2試合対戦しいずれも1敗1引き分けだった。
1968年になるとイングランドからアーセナルがやって来た。日本は3戦全敗で合計1得点8失点と歯が立たなかった。第1試合では開始1分足らずで先制を許している。「やあやあ、我こそは日本良足(ひのもとのよしたり)なるぞ。いざ、出合え!」などと挨拶している暇は無いのだ、そして“アーセナルゴール”という言葉が彼らの来日と共に紹介された。伝統的にサイド攻撃といえばゴールライン近くから山なりのクロスボール(当時はセンタリングと言いましたね)を上げ、中央又は逆サイドで“どっこいしょ”とシュートするイメージだったが、アーセナルゴールは速いクロスボールをニアサイドに走りこんでコースを変えてゴールに流し込むのである。クロスの出どころもゴールライン際とは限らず、角度のある所からシュート性の強いボールである事も多い。今では当たり前のシュートパターンでも当時の日本にとっては啓蒙的だったのだ。
メキシコシティ五輪後になってしまうが、1969年にやって来て日本代表と4試合戦った西ドイツのボルシア・メンヘングラートバッハも印象的だった。ゲームメーカーのギュンター・ネッツァーやDFのベルティ・フォクツは代表チームのメンバーでもあったが、“リベロ”がこのチームによって紹介され、それを務めたのはエコン・ミルダーという選手だった。日本には“スイーパー”がいた。大谷翔平の大きく曲がるスライダーではない。DF陣が相手のFWにマンツーマンでケアするのに加えて特定のマーク相手を持たず自陣の最後尾でGK以外の最後の砦となるポジションである。リベロは特定のマーク相手を持たないのに加えて、ポジションは自由でしばしば攻撃にも参加する。オフサイドのルールを考えればスイーパーが一段深い位置取りをする不都合は自明であり、日本のスイーパーが最後尾にこだわっていたわけではないが、それでも「リベロだから攻撃に参加しても良いんだ」というコロンブスの卵みたいな気付きが有ったと思う。語感もスイーパー(掃除人)よりリベロ(自由)の方が、スマートだ。もっとも私の高校のような弱小チームは守備が弱いからスイーパーを置くのであり、攻撃参加なんてもってのほかという感じではあった。「リベロ?うちのチームはスイーパーだよ」である。
尚、ボルシア・メンヘングラートバッハはボルシアMGと略される事もあり、当時はボルシアが地名でメンヘングラートバッハは何か一般名詞かと思っていた。ずっと後でボルシア・ドルトムントを知り、地図でメンヘングラートバッハが都市名であることを知り、今度はボルシアが一般名詞かと思っていたが、調べてみるとボルシアはプロイセン王国だった地域を指す固有名詞だそうである。例えてみればドルトムントとボルシアMGは”兵庫県神戸市“チームと”兵庫県姫路市“チームという感じか。
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