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占領指令によって失われた国家への忠誠義務を求める -言論の自由と国家秘密- 江藤淳氏

江藤淳(東京工業大学教授)
<プロフィール>
昭和7年生れ。慶應義塾大学在学中に「夏目漱石」を発表、一躍脚光を浴び、文芸評論家として立つ。以後、ロックフェラー財団の招きで米プリンストン大学研究員、客員助教授を経る。「1946年憲法その拘束」(文芸春秋)、「占領史録・全四巻」(講談社)など、占領政策と検閲問題を中心に戦後史の正確な掘り起こしを行っている。「終戦史録」復刻解説により第7回吉田茂賞受賞。(著書〉「江藤淳著作集(全6巻)」「同続(全5巻)」(講談社)、他多数。


1985年(昭和60年)4月23日スパイ防止のための法律制定促進議員・有識者懇談会(会長 岸信介)における記念講演 <文責:スパイ防止法制定促進国民会議事務局>

合衆国憲法修正第1条


 スパイ防止法が問題になりますと、現行憲法第21条で保障された言論・表現の自由、検閲の禁止、親書の秘密の不可侵等との関連で批判がましい議論がでてきます。無論、これらは基本的人権の要件として大変重要なことであります。旧帝国憲法下においても法律の定めるところという限定はあるものの基本的人権に係る配慮は当然払われていました。しかし現行憲法第21条に関する限り、これには種本があります。
 その種本は、実は合衆国憲法修正第1条であり、現行憲法の草案はこれを基にGHQ民政局25人の軍人たちによって六日六晩でつくり上げられたものであります。これはもちろん英語であり、日本語の体裁になるよう整え、政府原案として発表したものが今日の憲法の基になっています。
 そこで合衆国憲法修正第1条をみると、次のように書いてあります。「連邦議会は法律により国教の樹立を規定し、若しくは、宗教の自由なる礼拝を禁止することを得ない。言論及び出版の自由を制限し、あるいは人民の平穏に集会し、また苦痛等の救済に関し政府に請願する権利を制限しない」。
これをみますと、米国ではあたかも言論の自由が無制限に保障されているような印象を与えられる。
 そしてそれがそのまま昭和21年2月初め、占領軍の総司令部による現行憲法草案に転移されて日本に輸入されたかのような印象を与えられます。
  しかし、このような憲法の規定をもっている米国人は果たして完全なる無条件な言論の自由を享受できたでありましょうか。
  修正第1条が制定されたのは1790年のことでありますが、それ以後に限って考えてみましても、これはそんな生易しいものではなかったというのが歴史の示すところであります。
 特に、第1次世界大戦に米国が参戦した時、非常に大きな政策の転換を余儀なくされた。日本の歴史に例えれば、ペリーの来航により鎖国をやめた時のような大転換だったと考えられる。
 それ以前、アメリカは建国以来モンロー・ドクトリンによって独立独歩の立場を保っていた。しかし、そうした中でも内乱ではあるけれども、南北戦争というようなそれまで人類が経験した最大の戦争で、自由を守り、奴隷解放の旗印を掲げた北軍の側で非常な言論の自由の弾圧が行われた。「早く内乱を止めろ」と社説を書いた新聞社は破壊され、軍事検閲も行われたりした。しかし、これはまだアメリカ国内のことであってさほど問題にはならなかった。それが、ウィルソン大統領の決断によって第1次世界大戦に参戦することとなり、その途端にアメリカ人の言論の自由を取り囲んでいた空間がガラリと一変してしまいました。
 南北戦争では、アメリカ人同士のことであったことが、今度はドイツの宣伝工作にも晒されることになったわけであります。
当時のドイツの参謀総長は、ルーデンドルフという有名な将軍でありましたが、彼は「第1次世界大戦は大砲と塹壕によってのみで戦われるのではない。実に銃後において市民の間で戦われる」という名言を吐きました。それは要するに、敵国にスパイを放って情報を収集し、かつ宣伝をし、敵国の戦意を失わしめることにより自ら勝利を収めるというのが、新しい戦争のやり方であると喝破したわけであります。
 そしてその如くにイギリスを中心とする連合国側とドイツとの間ではなばなしいスパイ合戦が闘われました。憲法修正第1条によれば、一切の言論・表現・報道の自由等に対する規制はないことになっているかのように見える。しかし現実にアメリカの安全を保障しようとするならば、ここに何らかの規制措置をとらなくてはならないということになったわけであります。

1次大戦と修正1条


 こうして米国の防諜法(Espionager Act)は第1次大戦中に制定され、戦争継続中に改正されて罰金1万ドル、禁固10年と罰則がさらに厳しくなった。この防諜法によって合衆国市民のうち25万人にのぼる人々がスパイ、あるいはスパイと接触をもっているかも知れない要注意人物としてウオッチ・リストに載せられるようになりました。
 それのみならず、フリー・プレスをもってうたい文句としているアメリカの報道機関、新聞、雑誌が大統領直属の検閲会議の下に置かれ、相当広範囲に検閲を受けるようになった。その結果、戦争が終了してみますと、防諜法によって訴追されている事件、あるいはそれから生じた民事訴訟事件など、合衆国憲法修正第1条と背馳しているではないかという民事、刑事の訴訟事件が1900件も起こりました。アメリカは、つまり建国の基礎をなしているかのような言論、表現の自由と、そして世界国家として国際社会に積極的に参入したウィルソン大統領治下の新しき合衆国の現状との矛盾をこの1900件の刑事、民事の訴訟事件が象徴することになったわけであります。
 しかしここに一人の若き俊秀が現れました。彼はハーバード大学の法学教授に任命されたばかりのゼカリア・チャフィー・ジュニアという法律学者であります。この人は1920年、第1次大戦が終わってすぐに「言論の自由」(Freedom of Speech)という本を書きました。この本は日本ではあまり知られておりませんが、アメリカでは大変に著名な書物であります。

言論の自由の限界線


 チャフィーはこの中で一見無条件に許されているかのような米国における表現・言論の自由と、国家の安全保障との折り合いをどのようにつけたらよいのかという問題を専門に考慮し、次のように結論付けたのであります。「憲法修正第1条の真の限界は次のような状況においてのみ初めて決定され得る。それは連邦議会と下級裁判所が言論を合法とし、また非合法とする原則は二つの極めて重要な社会的利益、即ち公共の安全と真実の探求とをお互いはかりにかけてみた時にのみ導き出されるということを自覚した時である」。
 要するに、今日先進国で一般に採用されております公共の安全という法理を前面に出し、それと個人の真実を求めようという欲求とのバランス。この問題こそ憲法修正第1条と国家秘密保持との接点であるというわけであります。
 従って戦時についてもチャフィーは次のように言っております。「それが戦争遂行に直接危険な妨害を及ぼしかねないことが明瞭でない限り、言論は検閲によっても、また罰則によっても規制されるべきものではない。かくして言論の自由の限界をどこに設けるのかという我々の問題は解決をみた。その限界線は、言論が非合法行為を触発させる臨界点の一歩手前に設けられることになる。我々は憲法修正第1条が単に有害な傾向を有するという理由だけで処罰することを禁じていることを確信できるのである」。
 彼の意見は非常に穏健、中正でありますが、ここで私が申し上げたいのは、一見無制限に言論の自由を保障しているかのように言われているアメリカが、実は第1次世界大戦時に言論の自由と国家秘密の保持という矛盾に直面して大変悩み、その結果チャフィーのような代表的な法学者が真剣な検討を経てかかる公共の安全ということも考えなければならないと打ち出したということであります。
 今日の自民党のスパイ防止法案を拝見いたしますと、その第14条で「法律の適用に当っては、これを拡張して解釈して国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならない」と明文をもって規定しております。それはあたかもチャフィーが指摘しましたバランスの感覚がこの法案に正確に生かされていると考えてよいと思われます。

2次大戦と検閲体制


 チャフィーは日米開戦の直後にこの世を去りましたが、大変皮肉なことに第2次大戦中、アメリカ国内においては恐らく世界で最も能率的かつ効果的な検閲体制が完備されるに至りました。
 フランクリン・ルーズベルト大統領は日米開戦直後、大統領直属の合衆国検閲局(US office of Censorship)を設け、その長官にAP通信の専務取締役編集主幹のバイロン・プライスを、さらに合衆国戦時情報局(US Office of War Information)を設置してエルマー・デービスという著名なジャーナリストを長官に任命したわけであります。
 一方で検閲という影の役割、また一方で宣伝(戦時情報局)、要するにこの双方を車の両輪としてアメリカの戦時言論統制は水も漏らさぬほどのものになりました。そうして新聞、雑誌、ラジオなど政府の意を受けたジャーナリストたちは、自主的に同僚たちを訪問し、あるいは集めて国家秘密をいかに守らなくてはならないか、いかに敵を利するような報道をしてはならないかを説いて歩いたのであります。
 検閲局長官に任ぜられたバイロン・プライスはその中で次のように語ったと伝えられています。「諸君が記事を書くに当たっては一つのことだけを考えてくれればいい。それはこれから書こうとしている記事が果たして敵の利益になるものかどうか、敵が読んで小躍りするような記事かどうかを一瞬考えてみてくれたまえ。もしそうであったら書かないでくれたまえ。そうでないという確信があったら書いてくれ」。
 アメリカは地方新聞の国ですから、福音伝道師のようにしてそのことを説いて回った。そのために、アメリカが原子爆弾を開発しもう実用化できるという情報は全く流れませんでしたし、あるいはカサブランカ会議が一体どこで行われているのか枢軸国側は全くわからなかったわけであります。
 これらは完全な情報封止、国家秘密の保持に対してあらゆる言論機関が完全に協力したからであります。ソ連やナチス・ドイツ、また悪名高い日本の情報局、あるいは戦前の内務省警保局による検閲は良く知られていますが、第2次大戦中、アメリカもまた検閲国家であったということはあまり知られていないようであります。
 これは憲法修正第1条と国家秘密の保持という問題においてチャフィーが下した穏健なる妥協を遙かに超えていたことは明らかであります。しかし逆から言えば、それだけアメリカは戦争遂行に真剣であったということになります。

ベトナム戦争の教訓


 昭和54年から55年にかけて私はこのようなことを調べるためワシントンのウィルソン研究所に出向していました。そこでベトナム戦争の功罪を論評するというシンポジウムが開かれたのですが、そこにかつてのラスク国務長官(現在ジョージア大学教授)が参加しており、次のような発言をいたしました。
 「ベトナム戦争で敗れた一つの原因は、第2次大戦の時のような効果的かつ徹底的な検閲を合衆国が採用しなかったことだ。もし硫黄島の戦いがテレビで放送されていたら、アメリカ国民は一刻も早くこの戦争をやめてくれとわめきたてただろう。もし沖縄戦が10分間でもテレビで報道されたらとても我々は絶えられなかっただろう。しかしベトナムの場合にはそれが行われたのだ。そして厭戦思想がアメリカ中に流れ、アメリカは敗れた。検閲をすべきだったのだ」
 あのリベラルな国務長官といわれたラスク氏から実に激しい言葉が出るのを見聞して私は非常に驚き、同時に感銘を覚えました。
 我々は、床の間に飾っておくような民主主義を社会科の教室で教わったような気がする。人生は社会科の教室ではない。我々が生きているのは現実の世の中であります。どこにスパイがいるかわからない世の中です。そういう中で生きているということをアメリカ人も戦後の繁栄の中で一時忘れてしまった。それを忘れたことがどんなに痛恨やむかたないことになってしまったか、時の政府の最高責任者の一人であるディーン・ラスク氏はその日の夜、我々の前で明言したのであります。傍らには、当時政府を批判してやまなかったニューヨーク・タイムズ紙の特派員ニール・シーハンという名ジャーナリストがいました。シーハンとラスクが同席するなどということは数年前には考えられなかったことなのですが、シーハン記者もこれには反発せずジッと下を向いて黙っていました。
 アメリカは、このように国家秘密と言論の自由という問題に関して非常に深刻に悩み、傷を負い、大きな経験をしてきている。しかし皮肉なことに、戦後、占領中の初期の段階でアメリカ国内において効果的に行われた検閲システムと宣伝システムとがそのまま日本に移植されたのです。

占領指令による検閲


 合衆国の検閲局(終戦と同時に廃止)の代わりに、GHQの中のG2(参謀第2部)の下にCCD(民間検閲支隊)という組織が設けられた。これが全国の放送、新聞、雑誌、出版等の一切を検閲いたしました。東京・日比谷の市政会館、今の時事通信社のある所に新聞班のオフィスがあったことは知る人ぞ知る事実であります。
 またそれと同時に、戦時情報局に当たるものはCI&E(民間情報教育局)という総司令部の民政局の部局が担当して宣伝活動を行った。戦後の教科書、つまり現在の歴史記述のもとはこの民間情報教育局の強力な資料に拠っているのであります。
 さて、占領軍は日本の報道機関に対し日本政府との一切の結び付きを断つよう命令いたしました。つまり、日本政府による言論の統制、日本の国家機関による検閲、あるいはそれに類似した一切の行為は禁止されました。
   昭和20年9月24日、GHQから発せられた「新聞界の政府からの分離に関する指令」(SCAPIN51)、及びその3日後に発せられた「新聞と言論の自由に関する新措置の件」(SCAPIN66)によって日本の報道機関は、日本政府あるいは日本国民に対する忠誠の義務から完全に解放されたのであります。
 日本の悪口はいくら書いても構わない。日本政府に対しては糞味噌に言ってもいい。皇室に対してどんな不敬なことを書いてもいい。日本の軍隊がどんなに残虐であったか、あることないこと書いても一向に構わない。けれども占領軍の批判、ソ連、中国の批判だけは絶対にしてはならないといういけないづくしの検閲規定だったのですが、日本政府、日本国民、日本の歴史、日本の皇室に関しては悪口雑言いいたい放題というわけであります。
 しかしこの占領法令は、昭和27年の4月28日をもって連合国の日本占領は終了したのでありますから、当然無効になっているはずであります。ところが、無効のはずでありながら実は今日に至るまで、一部と申し上げたいが相当部分のマスコミは日本に対する忠誠はないかのような、日本国民に対する敬意は払わなくてもいいかのような、皇室に対しては一時のようなことはなくなりましたが、日本の歴史、特に近現代史についてはすべて日本人が罪悪の歩みをしたかのような論調が少しも影を潜めていないとはいえないでしょうか。日本国の報道機関は日本に対して、日本国民、日本の皇室に対し、日本の歴史に対する忠誠心を依然として一片も持たないかのように思われることがあります。
 このような異常な事態は、占領軍による強力な占領政策の結果が依然として40年を経た今日においても及んでいるためだとしても、一刻も早く改善しなくてはならないと思います。
 そこで、今日自民党が提出されましたスパイ防止法案の意味は、特定されている事項の重要性もさることながら、日本の言論人に対し、日本国民すべてに対して、昭和20年9月末の段階で我々が強制的に公に表明することをあたかも禁じられたかの如き、日本、日本の皇室、日本の歴史に対する忠誠心の根幹に立ち帰ることを言外に求め、また明文をもって求めた法律案であるという、この一点にあると思うのであります。


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