noteせなやな
noteせな。
こう思ったのは急じゃない。
感動を記録したい。
何度も感動を記録するというものの重要さはわかっていた。
甘く見ていた。
人生の目的は何か。
お金を稼ぐことではない。
1000万稼げば幸福度は頭打ちだ。
人のためになる仕事をすることでもない。
人が人を救うことが目的の人生は何か腑に落ちない。
結婚して幸せな家庭を持つこと?
結婚が幸せかという議論から必要であるが、そもそも幸せな家庭とは何か?
幸せな家庭を持つ目的は何か。
人生の目的がわかる人はいるのだろうか。
わかるものではないのではないか。
自分で決めればいいのだろうか。
人生の目的は、
永遠に忘れることのできない感動を積み重ねて
蓄えることなんじゃないかと思っている。
勝利の瞬間、喜びの瞬間、助かった瞬間。
またこの考えも変わるかもしれないけど。
何を達成したって、人は満足することはないのだろう。最近はそう思う。
お金を稼いだって人に奉仕したって
完全に満足する瞬間はない。
だけど、感動を味わうその瞬間は満たされている。
生きててよかったと思える。
これまで思い返してきて、鮮明に心に残っている瞬間がいくつかある。
いい時も悪い時もある。
きっとみんなある。
これを積み重ねていくことが生きがいなのではないかと思う。
何のために生きるかなんかわからないからそう思うしかないのだろうか。
家族を持てばそれを守ることが目的になるのだろうか。それはなんのために?
人類の繁栄のためだろうか。
人は、あの、涙が出るほど喜ぶ瞬間に出会うために生きているのではないか。
しかし感動のハードルはどんどん上がる。
お金や欲しいものが手に入るにつれて感動への閾値は高くなっていく。
あんなに手の届かないと思っていた高級ディナーも
慣れてしまえばもう
最初に感じた涙が出るほどの感動は味わえない。
初めて見たディズニーランドのエントランスの感動も
今では普通の楽しい門になってしまった。
それが奇跡ではなくなった時、感動は起こらなくなる。
下から上へのギャップが感動の大きさを増幅しているのだと思う。
このギャップが大きければ大きいほど感動は大きくなる。
練習でうまくいかなかったからこそ、勝利の感動は大きくなる。
ボロ家での暮らしをしてきたからこそ、綺麗な家に住む感動を味わえる。
耳が聞こえなかったからこそ、補聴器をつけた時に感動の涙が流せる。
これからたくさんの経験をしていくにつれて感動の閾値は上がっていくだろう。
そして初めの感動を忘れてしまうのだろう。
一方で経験があるからこその感動もあるだろう。
初めの純粋な感動を忘れた時に思い出せるように
ここに感動を残して生きたい。
いつでもその感覚を思い出せるように。
感動を積み重ねていく。
とまあこんなことを言っているが
心理師を目指す人間には感情を知ること、
表現することが大事らしいのでnoteを読み書く。