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本当に『言葉なんていらない』か?
ーあくまで、私の主観ではある
“言葉なんていらない”
とか
“〇〇に国境は無い”
とか…
恋や愛や音楽など…壁を越えて繋がれる的な表現は、とても多い。
それも、どこかでは、確かに真実なのだろうと思う。
けれども、私はそれは人類皆共通で、老いも若きも男も女も…全部では無いと思う。
たまたま、そこの場に居る人たちがそこで演出されたグルーブに酔いしれて、そういう気分になったに過ぎなくて、あとでその“酔い”がおさまり冷めたときには、「はて?」と。
けれども、生きることは忙しい、一々「はて?」のその先に寄り道しようという変わり者は、そう、多く無い。
私も、なんとなくそういう気分になったりしたことは、少なからずある。
私は、どうしても変わり者だから、寄り道を本気でしてしまう。
“言葉なんていらない”と、思うときもあるけど、恋や愛や音楽に粗方でも説明がないと、その本質は見えてこないし、感じる(感情が動く?)のにも、きっと経験値とかが働かないと、染み込んでこないものがある。
“〇〇に国境は無い”とかも、だって文化とか違うのだから、やはり人それぞれの部分もある訳で…。
立ち止まる。
そもそも、言葉を交わし合わなければ、生まれない関係性は多い。国境も、その境があることを先ずは意識して、認め無ければ、ただの無謀な人になる。
理屈抜きに…というけれど、やっぱり、勘違いしてはいけないと思う。
肝心な時は、言葉を尽くしてこそだと思う。
“言葉なんていらない”は、言葉そのものをいらないって言っていない。言葉を尽くした先に、それがあるということを忘れてはいけない。
だから、自分の思いを押し付けたりするために“言葉なんていらない”を使ってはいけない。
互いが言葉を尽くして信頼しあってこその“言葉なんていらない”だから。
“〇〇に国境は無い”も、似たようなことだと思う。互いの国の文化や言語の違いを分かち合って、認め合ってこその、“国境は無い”だから。
言葉・議論を尽くさないまま、それらの言葉を使うことは、とても危険だと思う。
そんな境地に至る前に、やることやすることが沢山ある。
-知ること-
知ろうともせずに、そんな乱暴な言葉で、わかったような気にならない方が良い。
特に、日本文化は「空気読み」ばかりに翻弄されて、察することを美徳としているところがある。
それは、確かに悪いことではない。
けれども、その「空気読み」というスキルは、どれだけの人とどんな風に関係してきたか?という経験値に基づく為、上手くできる人は、相当なコミュニケーション能力の高い人物に限られる。
だから、日本人は常識というものや、流行りの何々、今でいうトレンドとかに、敏感で過敏な節がある。
誰かと少しでもズレると、指摘されるし、空気が悪くなるから…はみ出して、悪目立ちしたく無い…そういう裏の心理が透けて見える。
そして、酷く孤独を恐れる。それなのに、酷く人間関係に疲れている。だから、1人で過ごす時間も欲しくなる。という、なんだか複雑な状況に陥っている。
スルースキル(聞き流し)とかも、そこから派生したものだろう。流していないと、まともに受けて、回避もせずにいると、精神疾患に陥りやすくなるから。
何かに真面目で真剣な人は放り出される世界に、本当に希望はあるだろうか?
そもそも「空気読み」こそ、勘違いしてはいけないことだと思う。
例えば、空気を読んで何も言わないというのは、「相手を思うからこそ、何か余計な失言をして、相手の気持ちを害さない気遣い」であって、全てに当てはまるものではない。
相手との関係性の構築や場数を踏んでの経験が先で、「空気読み」は後からついてくるものだ。
それが無いと、最初から雰囲気だけ掴んだつもりになっても、お互いに思い違いをして、誤解が生まれて、すれ違う一方だ。
話すべきときと、黙って様子を伺うときとの判断あってこそだ。
それには先ず、知り合う必要がある。知りもせずに、わかったふりをすることこそが、一番失礼な行為だ。
だからって、根掘り葉掘り直接相手を質問攻めにするのも、不信感をかうことになるため、ある程度の知識や学びは必要だと思う。
そうやって、ひとつひとつ時間をかけて、つくりあげることが、最近は特に足りて無いような気がする。
コスパやタイパに代表されることは、日本人は大好きなのはわかるのだが、そういうものにしがみつき過ぎて、大事なことを見落としてしまわないと良いなと、自分にも思ったりする。
だから、私は忙しいを言い訳に、消費してばかりで、本当に大切な何かを見失わない様に、言葉を尽くしていこうと思う。