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どんなに人間が嫌いでも人間は関係せずにはいられない

私たちは、遺伝子レベルで人間関係の檻に閉じ込められている。
もはや逃れられない。
仮に、逃れ逃れて、無人島で1人で暮らすとしても、木の実をとり、狩りをし、火を起こし…作業して間もなく、ふと気がつく…自分の中に取り込まれたこの生活力そのものが、人間関係を経て生まれた知識や行動だと。
そして、しばらく無人島で暮らせたとして、その無人島を所有している人物なり、団体なり、国なりに発見されれば、不法侵入だのと通報されたり、捕まったりして、罰せられたり、そこまではなくても、交渉しなければならなくなる。
途端に、人間関係が始まり、社会に引き戻される。
それ以前に、無人島に行くまでにいくつもの人間関係をクリアして行かなければ、そこへも辿り着かない。
許可を得て、無人島に1人で暮らせても、その許可をした相手に条件を出されて、自分に不利にならぬよう交渉しなければならなくなる。
無条件で、社会や人間関係を放棄することなど、おおよそ出来る仕組みには、殆どなっていない。

それぐらい、人は1人では生きていない。

だから、社会性というものが問われるし、自分勝手に生きるというのは、基本許されていないのだ。

両親や保護者から、名付けられた時から、否、生まれる以前から、祖先がコミュニティを作り出した段階で、私たちは関係せずにはいられなくなった。

私は、人間関係を檻だと表現したが、本当は保護柵であり、巣であり、家のはずだった人間関係。
いつしか、人間関係の中で、悩むことが多いにつれ、安心安全を築いたはずの囲いは、鉄条網となり、自分の自由を閉じ込める鉄の檻に変わってしまった。
私たちは、多分、この事の根本を忘れつつある。
人は1人では生きていけない…それが、1人で無理をして生きる必要がないに再び変換される日は、ちゃんと来るのだろうか?
時々それぞれが、好きなタイミングで無人島に行き、孤独を嗜んで、再びコミュニティに戻り、人々と関係し、安心を得る。
そんな自由度が高くて、風通しの良い社会は、果たして来るのだろうか?
少数の位の高い、権力者の言うことを聞き従い、貴重で有限な時間と、体力、精神力をつぎ込み、搾取されてその代償に通貨をもらい、ものを買い、なんとか生活をやりくりして、労働に必要な分だけの充足でなんとか満たし…そのサイクルの繰り返しの中で、私たちは、本当の人間関係の意味というのを、見失いつつある。
互いの嫌な面ばかりに目が行き、批判ばかりする毎日は、面白いだろうか?
私は、自問自答する。
本来の人間関係のあるべき姿とは?自分にとって、私たちにとって、より快適にやり取りのできる関係性とは?
恐らく、人の数だけ応えがあり、永遠に正解が出ない疑問だろう。でも、その正解のない場所を、私たちは深める必要がある。何故だろう?
私たちが生きるためなのかも知れない。
しかし、これは私の考えであって、絶対の正解では無い。
ただ、人間関係をネガティブに捉えて、究極逃げ続ける行動を想像したとして、私の中に出た応えは『死』になってしまったことがある。
その先を失う結果を導き出してしまった。
繋がらない、繋がれないのだ…ブラックホールに身投げするしかない。
けれども、血の繋がりがあってもなくても、人はそんな人をそこからどうにか救い出そうとする生き物だ。どうしようもなく、遺伝子レベルで自分の『生』も他人の『生』も失くしたくないのだ。
だから、法律やルール、社会性という決まりが作られた。最初は、地位と権限がある者が奴隷を効率良く使うために作ったものかも知れなくても、民衆が主役になった国から、やはりお互いを守り合い、子孫を残し、国を繁栄させるためには?と、その国々で作る法律という仕組みが残っているのは、社会性そのもの、人間関係の構築そのものなのではないかなと思わざるを得ない。
どんな人も生命も、必要なのだ。
必要とされる世の中や社会でなくてはいけないと思う。
その自問自答は、全ての人が1人1人繰り返し行わなければならない。
人間は、より良く豊かに生きるためにこそ、未来に向かいたい衝動を抑えられないから。

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