-わたしのこと、わたしたちのこと-
私の事・私の家族・これまでの軌跡①
私のこれまでと、私の家族や友人のことを少しお話します。長くなるので何回かに分けて記します。
私たち夫婦に子供は居ない。
私は精神障害者で夫は聴覚障害者(普段は“ろう者”と私たちは言っている)
子供が居ない理由は単純に、私が減薬を失敗したのと、妊娠や出産、子育てすることに強い不安を持ったからである。
私の精神的な問題と体調の調整が上手くいかなくて、年齢も上がってきたし、かつて実母はなんとなく“孫欲しい圧”をかけてきたけど、私はとくに子供好きでも無かったし、夫も“子供を産んでくれ”というふうには強くは言ってこなかったので、できれば自分たちの子だし欲しかったけど、変な無理をするより、諦めちゃった方が楽かなぁ…と、思い至って、葛藤しつつ段々と折り合いをつけた。
結婚はしたかった。私は私の原家族の苗字を出来れば名乗りたく無かったし、夫の籍に入ることに躊躇は無かった。
手続きは、面倒だったけど、その時は精神科のデイケアに通っていて、仕事はしてなかったから、結構暇だったし、時間もあったのでそこまで大変さを感じなかった。
それまでの人生が、苦労の連続で、(生活保護の申請やらなんやら)手続きの連続だったし、役所に赴くのは当たり前の生活が長かったせいで、慣れてしまっていたせいもある。
好きな人と、一緒になるためだったら、とくに式をあげようとかは考えなかったので、ちょっとくらいの面倒は、割と平気でこなせた。
精神疾患で、すぐにうつ状態になったり、人格が出てきたり、体に力が入りにくくなっていて、お酒も飲まないのに酔った人みたいだったりと、精神症状が邪魔して、不安定だったので、私のまわりの理解ある人たちが私のことを労わってくれたおかげで、無理な要求をされない為、私は彼と結婚すること=籍を入れること。にだけ、集中できた。
初めて知り合って、付き合ってから、3年経っての結婚だった。
彼と付き合って、割とすぐ、彼の父親とその兄(2人とも健常者。私たちは耳のきこえる人全般を“健聴”や“聴者”と呼ぶ)と対面した。
彼の母親は、彼が5歳の時に癌ですでに他界していた。(それは、もともときいてて知っていた)
彼の自宅(兼実家)で、彼の家族に会った。
“ろう者”の息子が“聴者“の彼女を連れてきたこと、話がスムーズに通じ合うことに、彼の父親は、喜んでいたようだった。
私は、理由は何にせよ、彼の家族に受け入れてもらえたようで、ホッとはした。
でも、“ろう者”の息子と手話はしないんだ…と、いう現実を見て、彼が妙にデカい声(自分の声はきこえないので、声のボリューム調整ができない)で、父親と兄に一生懸命何かを言っていて、けど発声した声は、発音が不明瞭で、私からすると犬の鳴き声みたいで、私の育った環境とは違う意味で、家族との壁が見えた気がして、胸がキュッとなったのを覚えている。
結婚前から、実はバタバタだった。
付き合ってしばらくした頃。
ある日、私たちは池袋でブラブラとしていた。
そしたら、突然、彼が自分の携帯メールを見せてきて、兄の電話に出てほしいという。
なんなんだろう?と不思議に思いながら、私の携帯に直接だったか?彼の携帯だったか忘れたけれど、かかってきた電話に出た記憶はある。
当時、彼の兄は仕事の関係で、海外にいた。
国際電話(?)で、急ぎの用だという。
きくと、彼の父親が突然倒れて、救急車で運ばれ、緊急に手術をしなければ、命に関わるらしかった。
手術には、家族の同意が必要で、弟を連れて、印鑑を持って運ばれた先の病院に向かって、そこで同意書を記入させて欲しいと言われた。
突然のことに、びっくりはしたが、急がないと彼の父親が危ないので、急いで彼の自宅に戻り、印鑑を持って病院に駆けつけた。
なんとか、病院に辿り着くと、彼の父は意識があって、病院の待合室の椅子に座っていた。
意識があって、びっくりしたのと同時に、少しだけホッとした。
「お父さん、大変でしたね。○○さん(彼の名前)連れてきましたよ」
と声をかけると、肩を丸めて、身体を小さくして、それからメソメソと泣き出した。
「大変だった、大変だった…」と、背中を擦ると、余計に、気が抜けてしまったようで弱々しく
「俺は息子2人をちゃんと育てられたのかなぁ…」
とポロっと零すので、
思わず
「何言ってるんですか?息子さん、お2人とも立派に育てたじゃないですか!」
こっちも涙目になりながら、励ましている自分がいた。
少しした頃、診察室に呼ばれ、医師と対面する。
兄が事前に、病院に事情を説明してた為、私と彼が一緒に入っても、医師も看護師も、違和感なく接してくれた。
ただ、私の手話レベルは中級程度という(恐らく今もその程度…夫とは毎日居るから通じるだけ…)中途半端さ、ましてや、難しい医療用語は専門外、モノに寄っては、噛み砕いて説明しなきゃいけない…のオンパレードになる事は、わかっていたので、
「簡単な通訳はできますが、主に筆談で説明お願いします」
と、頼んだ記憶がある。
彼は、私の手話や口の形、医師の走り書きのメモ用紙などの視覚情報を一心不乱に目で追いかけて、少ないその情報の中で、自分の父親の病気を理解し、手術を受けてもらうかどうかの判断をしなければならなかった。
とりあえず、兄からは手術をして欲しい旨を医師にも事前に伝えられていること、すぐにでも手術を受けなければ、命に関わることから、彼はとくに迷うことなく、書類を確認して必要事項を記入、印鑑を押した。
手術は成功したが、どうしても後遺症は残ってしまい、自宅に戻ることは出来ず、彼の父親はその後、介護施設の生活になる。
その事は、実際、私の心にも重くのしかかっては来た。
けれども、遅かれ早かれ、彼の親がそうなるであろうことは、覚悟の上だった。(続く)