無条件の愛とはこれいかに?
機能不全家庭で育った私が回復して、なんとなく実感していること。
私には子が居ない。
故に、子育て経験とやらがない。
だから、世の親御さんが、子育ての何に悩み苦労していらっしゃるのか、本質的にはわかっていないんだと思う。
ただ、人育ては叱りつければ良いとか、褒めて育てれば良いとか、育児本とかには載っていない、正解が無いようなあるような、複雑なものなので、どの時代の親も子も、葛藤して悩み続けるんだと思う。
私は、猫を飼っていて、猫はニャーとは鳴くが、人間語を話せないし、キチンとは理解出来ないはず(?)なので、単に「可愛い可愛い」と褒めてばかりでも、全く問題は無いのだけれど、最近、なんとなく、ヒトのありのままをそれで良いんだと、育てることについてふと考えて、どういう言霊が、適切なのか?急に猫を使って練習するという、遊びをするようになった。(笑)
例えば、今までは
「雪(ウチの猫の名前)は、何をしても可愛いねー」「いい子だねー」(何をしても愛嬌がよく、可愛くていい子でないと受け入れられないと言ってしまってるような気がして)
と、言っていたが
最近は、猫なで声は変わらないが
「雪は、三角のお耳だねぇ」
「白ひげがピンとしてるねぇ」
「目がアーモンドみたいにおおきいねぇ」
と、可愛いとかそれが良いというような評価を用いない、事実のみ見たままで(見た目について似ているものの比喩を使いつつ)愛おしげに言うということをしている。
ま、そうしたところで、雪は猫なので、飼い主の顔色を伺って、良い子を演じなくなるとか、ありのままの自分を受け入れてもらって生きやすくなるとかはありませんので、(あくまで遊び…)何も変わることは無いのだが…。
私は、どうしても自分が条件付きの愛情の中で育ち、とても苦しかった経験を持っているので、「ありのままで愛されるとはどういうことか?」について、なんとなく考えてしまう。
条件付きの愛情というのは、簡単に言えば、「愛される為には愛して欲しい相手の欲求を満たすこと」を条件付けられることである。
例えば、自分が愛してもらうには、相手がお金を欲求すれば、それを支払わなければ、愛してもらえ無いのである。
1万円なら、1万円かそれ以上支払わなければもらえない。
それが、大人のビジネス的もので、お互いが了承し同意があれば、法律に違反しない限りにおいては問題は無いだろう。
けれども、自力でそんな対価を支払えない子供に、親がいつの間にか、金銭では無いものの、要求し、欲求し、支払わせてしまうことがある。
割と、日常茶飯事で、それは起こる。
「良い子にしてないと、ご飯あげないわよ」
とか
「お母さんの言うことをきいてて、エラいねぇ」
とか
「あなたは顔が可愛いからね、だから好きなのよ」
とかである
それの何が問題?!
と、思うかも知れない。
・でも、良い子にしていても、そうでなくても、生きるためにご飯をもらえてこそ、愛されてる気持ちが育つのである。
・お母さんの言うことをきいても、きかなくても、エラくともエラくなくとも、その子はその子らしく居る権利があるのである。
・その子の顔が他人から見て可愛くても、可愛くなくても、受け入れられる存在なのである。
無条件の愛を享受できるとは、ありのままを愛されるというのは、そういうことなのである。
だからといって、してはいけないことを叱らない訳では無いし、何も褒めないという訳でもない。
言う事をきかなくても、何となく人からは可愛く見られない顔でも、またその逆でも、
あなたが生きて、そこに居るだけで愛おしい。
ということを、大事な場面で伝えることが、重要なんじゃないかと思う。
子供では無いが、私はある時、夫との間で、どちらかが悪いという訳では無かった事だったけれど、「これは、付き合い切れない」という出来事があり、しばらく食卓を別にしたことがあった。
別に、夫を嫌いになった訳では無いのだけれど、私もクタクタであり、一定期間、冷静になり、1人で過ごしたい時が訪れた。
正直言うと、もっと夫がこうであれば、私はこんなに疲れないのに…と、相手に対する欲求不満が募ってはいた。
けれども、私の思う通りにならないからといって、それをぶつけても、相手はそうしたところですぐには変わることが出来ないことだった。
だから距離が欲しかった。
でも、愛が冷めたとか、そんなことでは無い。
自分が冷静になりたかっただけだった。
だけど、何の言い訳もせずに、
「じゃあ、距離を置きたいから、しばらく食卓は別々で」
と言うだけでは、向こうは私の条件を飲まないと許してもらえないと思い込みそうな出来事だった。
だから、私は夫に付け加えて、こう伝えた。
「私の言うことをきいてくれないから、距離を置きたいんじゃなくて、本当に今は疲れて1人になりたいだけなの、あなたのことは、本当に本当に大切だから、1週間だけ、自由に1人で過ごさせてね。愛してるからね」
そうしたら、夫はホッとしたように
「わかった、疲れてたんだね、俺もあなたの立場を理解していなかった、俺も愛しているよ」
というようなことを、返してくれた。
どんなことがあってもなくても、私はあなたを大切だと肝心な所で伝え合わないでいると、「条件が満たされなければ、自分は愛されない」と、すれ違い合ったり、距離が離れていくのが、愛のようなものなんだと思う。
全部受け入れるとか、そういうのが無条件の愛では無い。
全部は、受け入れられなくても、愛することは可能なのだ。
それは、親と子の間でも、そうなんだと思う。
親は大人だから、子供のなんでもを受け入れなければいけないと、思いがちだが、子供の欲求に対して、
「それは、私は出来ない、でも、愛している」
と、表現する方法は、いくらでもあるんじゃ無いだろうか?
とりあえず、まずは、ウチの猫に私がしているように、普段から愛おしげに、
「あなたの顔は丸いねぇ」
「黒い髪だねぇ」
と、事実のみ愛おしく見つめてあげてはいかがでしょうか?
お互いに、愛の深さが芽生えるかも??