【同潤会が凄かった件 -住宅政策から居住政策へ-】
住宅政策課に異動して、はや1ヶ月以上が経過しました。
いやぁ住宅政策は面白い。
なんと言っても衣食住の「住」。
老若男女すべての人間が生活するうえで必ず必要になる「住む」という行為がこんなに重要なことだったのか、と気付かされた1ヶ月でした。
そんな中、現在の住宅を取り巻く状況を学ぶのと同時に、過去の歴史にも目を向けてみました。
注目したのは昔の復興公営住宅。
有名なところで言うと「同潤会」でしょうか。
同潤会は大正13年に当時の内務省がつくった組織で、関東大震災からの復興を目的としていました。
建築を学んだ人で「同潤会アパート」を知らない人はまずいないですよね。
僕も学生時代に表参道まで見学に行きました。
同潤会は、鉄筋コンクリート造の集合住宅である同潤会アパートを都心部に15箇所整備しましたが、それ以外にも仮設住宅や工場労働者向けの職工住宅なども整備して、震災からの復興に大きな役割を果たしたとされています。
ただ、今回僕が注目したのは、同潤会がハコモノとして住宅を整備して被災者の住まいを確保した、ということではなくて、被災者の住まいを提供すると同時に働く場所や買い物をする場所を併せて造っていたという点です。
皆さんは「授産場」という施設のことを知っていますか?
僕は恥ずかしながらほとんど知りませんでした。
授産場とは、職業訓練・就労支援のようなことを行う施設のことです。
例えば、猿江裏町(江東区住吉あたり)にあった同潤会の住宅は、ゴザや畳を製造する工場があって、住宅の住民がここで働き給料を得て生活していました。
しかも、その製品を多くの住宅を管理する同潤会が管轄の住宅の改修工事に使用していたというのです。
すばらしき好循環。
さらに、このような復興住宅の多くは託児所や診療所、浴場なども整備されていたらしいです。
三浦展・編『ニュータウンに住み続ける』の中で、東京大学教授の大月敏雄さんは、当時の同潤会、内務省は「住宅ばかりでなく、福祉政策、そして経済政策を一つの事業で総合的に実施しているわけです。」と述べています。
当時は、単に公営住宅を供給する住宅政策ではなく、総合的に暮らしを支える「居住政策」を推進していたんですね。
残念ながら、現代の住宅政策は、戦後復興から高度経済成長にかけて急速な人口増に対応するための住宅大量供給政策の流れを汲んでしまっていますよね。
公営住宅といえば、コンクリート造の中層集合住宅が複数並んで建っているだけ。
住民の働く場所もなければ、託児所も買い物ができる場所もないことがほとんどです。
セーフティネットとしての住宅機能は必要であるとして、今後もし公営住宅の整備があるとすれば、その公営住宅に住む人の暮らしに目を向け、さらにその質を向上させるような仕組み・「居住政策」を考えていきたいですね。
また、公営住宅の敷地の中だけで事業を組み立てるのではなくて、その周辺エリアの持つ資源を最大限活かしながら、内と外での好循環が生まれるようにしていかないと、公共施設にかけられるコストが減少していく社会では持続的な公営住宅の運営は厳しいのではないかと思います。
ちなみに、同潤会よりずっと前、明治末期の吉原では、大火からの復興を目的に辛亥救済会という組織が玉姫公設長屋という住宅を整備しています。
これが日本初の復興公設住宅と言われています。
例によって、「商店」「託児所」「浴場」「職業紹介所」「宿泊所」などがありました。
本当に戦前の日本の政財界は、官民を問わず見習うべきことが多いですね。
https://www.kansai-u.ac.jp/ordist/ksdp/danchi/012.pdf
「住宅政策」から「居住政策」へ転換するには、僕らもハコモノとしての住宅をどうするか、を考える思考からどのように暮らしを支えるか、という視点で仕事をすべきなんだと思います。