あの頃飛び込み訪問販売をしていた小学生は私です
コンプライアンスそっちのけの題名なんか付けちゃってええのんかいなと思ったそこのあなた、大丈夫なんです。
いやむしろ的確と言えよう、
何しろおよそ半世紀前の話であり、コンプライアンス云々も騒がれなかった頃の、仮にそうだとしても時効に値する話なのです。
暮も押し迫ってくると巷の賑わいは一段と慌ただしさを増し、人々のボルテージも上がってくる。
人々の多くは正月の準備に余念が無く、時間に追われてまさに今が旬とばかりに 忙しそうである。
我が家においてもしかり、正月飾りの製作がピークをむかえようとしていた。
藁をベースにしめ縄等を型作りする。大小様々な品に装飾加工を施し製品化していく。これを一家で行なう。
力仕事なので子供は入れてもらえず、私はひとりで遊んでいたことを覚えている。
また日中子供達は山へシダ(ウラジロ科)を取りに行っていた。これも正月飾りになる。
そして、いよいよ製品が完成すると父と母はそれぞれ大きなケースに製品を積んで得意先に出かけて行っていた。
その頃小学生の私も近所の上級生がそうであったように見様見真似でシダ(ウラジロ科)を売りに行くことになっていった。
聞けば簡単そうだし、皆んながやるなら自分もやれるだろうと思った。見知らぬことへの興味も有るし、何しろお金の魅力には代えられないものがある。10才足らずにして訪問販売なる仕事に着手した。今では考えられないが、ゆるやかな良い時代だった。社会の一端を垣間見る 良い機会というのであろうか、労働の対価、報われる喜び、自らの手で利益を得ることの実感を齢10才にして早くも経験した。何のレクチャーもなく、いきなりの実践飛び込み訪問だったが、何の苦労もない。どちらかといえば、期待のほうが大きかった。未知への挑戦、ワクワクする気持、この頃からチャレンジャーだったのだ。そのうち兄と手分けして回ったりした。その後兄は当時親方日の丸の保険屋になった。
紅顔の美少年が縁起物を売りにくれば安いし、たいていのお宅で買ってもらえた。良い小遣い稼ぎであり、経験であった。
ある日気後れするような立派な邸宅の前に立った。
やり過ごすわけにもいかず
おそるおそる挨拶をし玄関を開けて家に入ると普段は奥様方に応対していただくことが多いがその時は違った。
御主人らしき人が興味ありそうに丹前姿に笑顔で話しかけてきた。
山に行って採ってきて束ねて売ってるのかと聞き、そうですと答えると良い金になるなと本音でズケズケ聞いてくるのだ。
その頃の私にはお客様を洞察する力は持ち合わせていなかった。若干タジタジとなりながらもやや辟易していた。すると終始笑顔の御主人は10枚100円のところを千円札をだし後はとっておいてと言うのだ。10件分の利益に相当する、小躍りして喜んだのは言うまでもない、嬉しかった。満面の笑顔でお礼をした。
少なくとも私は嫌われてはいなかったようだ。
あんなズケズケ言われて良い印象を持てなかった心の狭い自分を恥じた。あれはただ興味があっただけなのだ、私にも仕事にも。お眼鏡にかなったのかどうか分からないが、あの頃の私は何も知らないでいた。良い勉強になった。
大きな家だし子供心に立場のある立派な大人だと思い、あんな大人になりたいと思った。
それにしても、この経緯はよく考えさせられ感慨深いものがあった。可愛い子には旅をさせよに通じるものがある。
子供にはいろんな経験をさせたほうが良いと多くの人が言う。限度はあるが、純粋無垢な感性でどう感じるか、得るものは きっと 大きい。
時は移り10数年後、自動車販売会社に勤めていた。時には以前と似たようなことをしていた。お客だからと尊大な態度に出る人もあった。そういう人は思うところがあって秘めているものがあったりする。高い買い物をする高揚感とでもいうのか、結果良い関係性を持てたりする。
比べれば扱うものは違うが良くやってこれたのは、年季が違うせいか、あながち無縁でもあるまい。
思えばだいぶ経つが過ぎてしまえば皆良き思い出である。
光陰矢の如し、
実感している。
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