別れ際から学ぶ対人コミュニケーション
別れ際
「ああ、もっと気持ちの良い別れ文句があったのではないか」
私は友人と別れた後の電車のホームでそんなことを考える。
一人でいる時にそんなことを考えることは容易だ。
脳内で別れ際のシチュエーションを再生し、好き勝手に編集を加え、私が思い描くセリフをテキストで埋め込み、演者である我々に話させるだけでいい。
ただリアルな場面では私の場合、全くもって異なるものとなる。
大学の入学試験で、英単語の和訳が思うように浮かび上がってこないように、私は別れ際、なぜか思うように、気持ちよく別れることができる言葉を探し出すことができないのだ。
別れ際の会話は回顧と継承のようなものである
友人や恋人、家族と一日過ごし、それぞれの家に帰る別れ際、あなたたちはどのような言葉を交わしてその場を後にするだろうか。
大抵は「楽しかった」や「また会おう」といったいわゆるよく聞くフレーズを言い合うだろう。
しかし私はそうもいかない。
決して気まずい空気が流れるわけではないのだが、どうもうまく言葉が出てこないのだ。
そんなことで悩むことが多々ある。
なぜそんなちっぽけなことで頭を悩ませているのか、ともう一人の私が問いかける。
「別れ際に催される会話は、普段の会話とは全くもって異なるものだからだ」と私は答える。
そして、こう続ける。
「別れ際の会話は回顧と継承のようなものなのだ。」
そう、私にとっては別れ際の会話とは、もはや会話ではない。
その日あったことを脳内で振り返り、それらに見合ったまとめ文句を見つけ出し、何か誤ったことをした自覚があるのであれば姿勢を正し、正す言葉を探す。
私はそういった意味を含むものとして、別れ際の会話を位置付けている。
一方で、別れ際には別れた後に相手が清々しく帰ることができるような気分にさせ、またすぐに会おうと思ってくれるような心持にさせるという、「継承」といった意味も含まれていると私は考えている。
こんなことを考え始めてしまってからは、(特に友人、恋人や家族に対して)伝えたいことを伝えたい意味合いで伝えるようことに努めている。
ただ、別れを言ってその場を後にする、ではなく、回顧を繰り返し、継承する。
この行動を繰り返すことによってこれまで見えるはずのなかった相手の良さが顕在化し、伝えることの意味も自ずと理解することができるだろう。
エピローグ
なぜ私がここまでに別れ際に焦点を当てて文章を連ねたのか。
私の体験を踏まえて改めてあなた方の周りの人に見つめあってみてはどうか、ということを提唱したいと感じただけである。
身近になればなるほど、人というものは言葉を介さずとも互いを理解しあうことができるようになる。
私は、我々人間は敢えてそうする方向に向かっていると強く感じる。
言葉を無しにしても分かち合うことができる関係が深く美しい、そういった考えが我々の思考の奥に根を張って息をしており、それに従っている節が少なからずあなた方にもあると思っている。
これまでそのまま通り過ぎていたものを、何かを見落とした気がして後戻りし、今一度見入るように、周りの人への自分の在り方や見方に見つめあってほしい。
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