大自在の妙境 -三宅唱・OMSB・Bim『THE COCKPIT』-

※筆者はビートメイキング未経験者です。用語の使い方等の違和感があると思いますがご了承願います。

 「この作品は『Curve Death Match』の製作過程を記録したものである」と言ってしまえば楽だがどうにもそんな言い方はしたくない。遊び。作ろうという気負いなどひとつもなく、飯を食いクソをして眠りにつく、その日常の動きとなんら変わりなく行われる創作。呼吸。サンプリングというのはただ曲を切り貼りして加工して、という借り物競争的音楽テクニックではない。弦を弾き鍵盤を叩くように、ビートメイカーはもとあった楽曲を楽器にして新たな楽曲を作り出す。

 ビートメイキングは「ネタ」の選定からすべてがはじまる。いい曲からいいビートが生まれるのは当然だが、できあがったビートがコンセプトに合致しない場合それがどんなにいいビートでも「お蔵入り」だ。今回で言えば、OMSBとBim(現:BIM)がラップをのせるのに適切なビートでなければいけないのである。様々な曲を試してみてようやく「ネタ」を決めたOMSBが次に試みるのがループだ。ネタをループさせた時(敢えて違和感を出そうとしていないかぎり)アタマとケツでうまくつながらないとビートにならない。OMSBはネタがちゃんとループするように何度もループ箇所の微調整をしていく。決めて、流して、止めて、また決めて、流して、止めて……を繰り返し、ようやくアタマとケツがつながる。この時点で既に「ネタ」がどんな曲だったかを思い出すことはほとんど困難だ。ループされた「ネタ」はもとあった楽曲までの記憶の復元の何の手がかりにもならない。そして最後にドラムを叩き込んでいく。これもまた、叩いたドラムがうまくループしないとビートにならない。叩いて、流して、止めて、また叩いて、流して……を再びOMSBは繰り返していく。もはやネタがループしているのかOMSBがループしているのかわからなくなっていく。元の曲があって、それの一部分をループさせて、ピッチを変えたりして、という多くの工程が「加工」だったこのビートの最終的決定が人力によるドラムの打ち込みにあるのだ。このギリギリで成立する手仕事のリズムがグルーヴを生み出し、我々の首を振らすのである。

 このビートメイキングの工程においてループを決めるシーンとドラムを入れていくシーンにはほとんど編集がない。OMSBが成功するまでの度重なるリトライを省略することなくじっくりと映しつづける。カメラの前でOMSBは黙々と延々とMPCを叩き続ける。気の遠くなるような試行回数を経てその音は一つまた一つ研ぎ澄まされていく。本来小休止を入れたっていい反復作業を一心不乱に続ける。並大抵の人間なら手が止まるはずだ。もっとイライラが表に出たりしそうなものである。OMSBはほとんど発話することなくMPCに向かい続けるのだ。

 『THE COCKPIT』は主に前半がビートメイキングで後半がラップという構成になっている。この前半のビートメイキングにおいて観客は何を思うか。おそらく「困惑」ではないか。観客の多くはビートを作ったことがない。OMSBがいつもの慣れた手つきでいつものようにしている作業が我々にとっては何をしているんだかさっぱりわからない。だが、その「何が何だかよくわからん作業」を丹念に観て/聴いていくと、いつの間にかある音が出来上がりつつあるのがぼんやりとわかってくる。ふと考えてみると、OMSB自身も自分が作り始めているビートがどこに着地するかわかっていないのではないか。ある程度のコンセプトやイメージはあるのだろうがこれを作ろう、という確固たるゴールは見えてないまま作っていると思う。でも、何か一つ辿り着く形がある、その事実だけは分かっている。OMSBは出口の見えないビート探しを続け、徐々にその輪郭を掴み、最後にはとうとう見つけ出してしまう。観客も、まったくわからないビートメイキングの様子を(スクリーンごしではあるが)観察し続けることでその作業の意味を後から掴んでいく。そうして観客とOMSBはビートが完成したところでようやく同じものを観る/聴く地点に到達するのだ。

 ここまで書いていてふと思い出した小説がある。夏目漱石『夢十夜』の「第六夜」。明治時代と鎌倉時代が混在する不思議な場面設定の中で「自分」が仁王像を彫っている運慶を目撃するという話だ。

運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた

私も早稲田松竹で『THE COCKPIT』をやってると評判だから行ってみたら、平日昼間にもかかわらずキャップ/ハットやらオーバーサイズのトップスやらスニーカーやらを纏った、ヘッズと一目でわかる人たちが大勢集まっていた。

へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。私ゃ又仁王はみんな古いのばかりかと思ってた

OMSBはブーンバップのビートを好んで作る。トラップやドリルが主流になって久しいシーンの中で自分が影響を受けた好きなスタイルを貫いてブーンバップを作り続ける。

さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴だ

OMSBがひたすらドラムを打ち込んでいたあの時間はたしかに「眼中に我々なし」だったはず。夢中でただMPCと対峙し続ける姿勢はまさにこれだった。

「あの鑿と槌の使い方を見給え。大自在の妙境に達している」……その刀の入れ方が如何にも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟んでおらん様に見えた……「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」

使うネタを決めてから完成までのほとんどの工程を中断することなく迷いなく続けていくOMSBの手つきはまさに「大自在の妙境」にあったと思う。そして完成したビートは、まるで最初からこうなるのがわかっていたかのように悠然と鳴り響いていた。この映画を観ていると「ネタ」の奥底に潜り込んでいたこの姿をOMSBは最初から知っていてそれに向かって邁進していたような気がしてくるのだ。

 ビートができたらあとはラップだ。ここでようやくただならぬ雰囲気を醸し出しつつ賑やかしに徹していたBimが本格的に参加する。とはいえビートメイキングでOMSBが悩んで一服しようと離席しかけた時にキーとなったアイデアを投げかけるという重要な役割を前半だけで既に果たしていた。本作におけるBimの貢献度の高さは見逃せない。ビートができた翌日、二人はリリックのテーマについて相談し始める。どうせならこの二人じゃないとできないことを、とBimの提案があり「無」について書いてみようとする。だがここでOMSBはひと言ぽつりと、ラップしたら「無」じゃねぇからなぁ(意訳)、とこぼす。そう、ラップはそれ自体が無になりようがないのだ。本来ビートで完結しているところに上乗せするのがラップのはずだ。こうして難航したコンセプト決めの末二人が辿り着いたのが、部屋に雑然と置かれたNIKEの靴箱だった。そこで二人は靴箱に得点や指示を書き、ボールを転がして通過した得点で競うゲームを即興で作り上げていく。そしてその架空のゲームに興じるプレイヤーの視点からリリックを作るという着想を得たのだった。リリックの技法のひとつとしてストーリーテリングというのがあり、ストリートでの悲劇から学生の与太話までどんな役割でも演じてみせる(リリックの主体をそのまま生きてみせる)のがラッパーだが今回ほど突飛なシチュエーションは珍しい。ゲームをプレイする人間をロールプレイする。プレイのためのプレイ。

 こうしてリリックを書き上げた二人はレコーディングに取りかかるのだがここでもOMSBは自分が書き上げたスキルフルなリリックを最後まで完璧に歌いきるべく何度もテイクを重ねていく。ここにおいても我々はOMSBのリリックの全貌がわからないまま延々失敗テイクを見続けることになる。ところが見ていくうちにOMSBが同じところ(「時期尚早」)で噛んだり、そこを無事通過したと思ったら直後にミスったりとビートメイキングの時と同様にだんだんリリックの輪郭とOMSBの思惑が見えてくるのだ。今回のOMSBのリリックは意味内容が小節を跨いでる一文が多くブレスの位置が難しいことがわかってくる。そして一小節一小節聴き進めていくたびにライミング、フロウ、意味のすべての完成度の高さに感嘆せずにはいられなくなる。こうして固唾を飲んで見守っているうちにOMSBは全ての難所を乗り越えレコーディングを終えるのだった。

 ようやくでき上がった『Curve Death Match』がラストに車窓からの見える景色とともに流れていく。私はこのシーンで完成した曲よりむしろ綺麗に晴れ渡った青空とその下に生きる無数の人たちが記憶に残った。我々観客はこの60分の映画でビートとラップの生成過程を目の当たりにした。黙って見てたらただの「地味なドキュメンタリー」でしかないがOMSBたちがカメラの前で何をしているのかをこちらから積極的に掴みに行くことで彼らの挑戦を多少なりとも追体験できると思うのだ。何よりビートがあまりに良すぎるから黙って座ってなどいられない。自然と首を振ってしまう。その振った首の勢いそのままにスクリーンに映される瞬間にのめり込んでみたらきっと分かるはずだ。観客が能動的に参加し、映画と観客が共犯関係を結び、自分とスクリーンだけの世界に入り込む。最初は何が何だかよくわからないように思えても、劇場を出る頃には最初からそうなることがわかり切っていたかのように確かな充足感、活力を手にしているはずだ。『THE COCKPIT』のラストシーンである車窓からの景色は、一晩中踊り明かした朝に帰りの電車から見る光景とどことなく似ていた。この作品は2023年7月現在配信・ソフト化されていないはずで、どこかの映画館で上映された時に観に行くしかない。近隣でまた上映があったら、私は間違いなくまた観に行くだろう。



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