自分「軸」より、キレイなまんまるを持っていたい。
「今日の芸術」(岡本太郎)を読んでいる途中で、唐突に思った。
軸よりまんまるなんじゃないの。
というか、まんまるがいい。
いや、この本にそんなことが書いてあったわけじゃない。球体の芸術を思い描いたわけでもない。内容そのものとは関係が無いし、どこかに脈絡があるわけでもない。
でも、読みながらふいにそう思った。もしかしたら、読んでいる最中に、ずっと根底で鳴っていたのかもしれない。
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やたらあちこちで見聞きする「自分軸」。その言葉が、以前からしっくりきていなかった。意味合いは理解出来るし、自分軸で云々という話の内容も、もっともだとは思う。
でも自分には、その言葉がどこか体に沿わないという感覚がずっとあった。
単なる印象の話?たとえそうだとしても、印象って大事だ。「自分」という大枠を指しながら、軸って細くて心許ないような気がしてしまう。
幅とか奥行きとか深さとか、軸では作れなさそうというか、連想出来ないことも、しっくりこない理由かもしれない。
私、まんまるい感じがいい。
自分軸より、まんまるい形を持っておけばいいんだ、とふいに思った。
まんまるは折れない。浮力もありそうでいい。
しなやかなまんまるを持っていれば、へちゃげても弾力で戻れそうだし。
中心?重心?それがあれば、サザエさんのエンディングの、あっちにこっちに歪んで元に戻るあの家みたいに、戻れるだろう。(家は球体じゃないけど、比喩的に頭に浮かんだ!)
というより、まんまるの中心、芯の部分は絶対なくならない。
もしかしたら、何かに迷って、悩んで、破裂しそうな時もあるかもしれないけど・・・。だからこそ、しなやかなまんまるを持っていたい。
それでも破裂してしまったら。
そんな時は、すぐにはそう思えなくても、「はみ出したかったんだよね」と、思える時がくるといいなと思う。それこそ、岡本太郎の名言「芸術は爆発だ」みたいな感じかな。そしてまた、新しくてきれいなまんまるを持つんだ。
芸術とは生きることそのものだ、という岡本太郎の言葉を、この一冊を通して浴び続ける中で、なぜだかそんな事が頭に浮かんだ。