短編|向日葵と銃弾【第五話】
罅が入っているコンクリート製の古びた家屋に身を潜ませ、フョードルは少しずつ荒くなる息を抑えていた。スカラーから貰った薬の効果は凄まじく、未だに痛みが再発する気配がない。しかし、体が興奮状態に陥り、冷静な思考を妨害していることが問題だった。
スカラーの元を去り、フョードルはすぐにレーナの安否を確認しに行った。幸いにもフョードルが気を失っていた半日の間に殺し屋による襲撃はなかったらしく、レーナの美しい姿は健在だった。レーナが生きていることを確認したフョードルは、周辺を警戒しつつ、やってくるであろう殺し屋を待ち伏せしている状態だ。
「寝てる間に半日も経ってたんだ、そろそろ……」
その瞬間、フョードルが今まで殺し屋として培ってきた経験と本能が警鐘を鳴らす。その男は堂々と街路を歩き、ターゲットであるレーナの元へ一直線に歩いていたのだ。その荒々しい歩き方から、殺し屋であるということを微塵も隠す気がうかがえない。当然、そのことに気づけるのはフョードルや殺し屋をしている者のように、死を身近においている人物だけではあるが。
身長は、ニメートルを超えているのではないかと思えるほどの巨体で、本革のレザーをパンパンにしている。肌が黒いので恐らく黒人だと推測する。すべての要素を考慮して、その黒人の男は間違いなくレーナの命を奪いに来た殺し屋だとフョードルは確信した。
先手必勝と言わんばかりに、路地裏に入り、フョードルは駆けた。先回りして初手で決着を着けるためだ。
しかし、街路で堂々と戦闘を行うのはまずいことにフョードルは気づく。
今まで殺した人間を背負い生きると決めた、それは人を殺すことへの開き直りのためではない。これ以上恨みを増やさない、人を殺さないための誓いなのだ。街路の真ん中で戦い、無関係な人を巻き込むなど言語道断である。
フョードルは黒人の男を路地裏に誘導するために、先手必勝の案を却下し、別の作戦へと切り替える。
「この先のお嬢さんに用かい?」
フョードルはその言葉をあえて軽々しく言い放ち、作戦の第一段階として、正面から黒人の男と相対した。ここで問題なのが、男をどうやって路地裏へと誘導するかである。
「なんだ、ボロ雑巾みたいなやつだな。俺のターゲットを横取りしようってか」
確かに今のフョードルは血の滲む包帯を身体中に巻いていて、傍から見ればボロ雑巾にでも見えていることだろう。
「それは違う。あなたに恨みはないが、あなたの目的と僕の目的が対立していてね」
「ん? なんか見たことあると思ったが、なるほど、お前ボグダーンのとこのガキか。処分されたと聞いていたが、まだ生きてたんだな」
フョードルの話はもはや裏の世界の住人全員知っていると思ったほうが良さそうだ。依頼を失敗した上に逃げてきた殺し屋の恥さらしとして話が広まっている事だろう。だが、フョードルにも黒人の正体に心当たりがあった。
「ジョンソン。武器を使わず腕力のみで人を殺す怪力」
「ほぉ、俺のことを知ってんのか。まあ、この業界にいて俺も長い。今や古株か」
この黒人、ジョンソンも業界では名の知れた殺し屋だ。古株ということもそうだが、武器を使わないという特徴が様々な伝説を残している。
「残念ながら、この先には行かせない」
レーナがいるこの先へ、ジョンソンを行かせるわけには行かない。最初に来る人物としては予想外で、運の悪いことにはなってしまったが、もとより誰が来ようとフョードルのやることは変わらない。
「なら、やってみなガキ」
トカレフに指をかけていたフョードルの横っ腹を、ジョンソンが得意の怪力で拳を使い、薙ぎ払った。肉を抉られるような痛みが襲い、フョードルの体は勢いに押され、路地裏へと吸い込まれていく。
「なんだ、手応えねえな」
しかし、これがフョードルの狙いであった。ジョンソンの間合いに入った時点で、初撃をもらうことは計算内。そして、どうせならそれを生かし、路地裏へと誘い込むという作戦だ。現に作戦は成功し、路地裏で痛みに悶えるフョードルの元へとジョンソンが歩み寄ってきていた。
「ぐっ……!」
ジョンソンが完全に路地裏に体を収めるまで、蹲り痛がることで誘い込む。右手だけはトカレフから離さず、反撃準備は整っている。
「猿芝居だな」
その言葉の意味をフョードルが理解するよりも早く、ジョンソンが素早く近づいてきた。そして、蹲る演技をするフョードルの体を力強く蹴り上げる。
「気づいていながら、あえて乗ってきたのか」
「いい反応速度だ。今のを防ぐとは」
ジョンソンの蹴りに、ギリギリ反射で反応できたものの、受けた両腕は骨まで衝撃が届きジンジンと音が鳴っていると錯覚するほどだ。フョードルの体重はあまり重いほうではないとはいえ、人ひとりを軽々しく持ち上げる怪力は噂が誇張でないことを証明している。
「いくら超人でも、体に銃弾は通る」
浮かされた空中でトカレフの照準をジョンソンの肩に合わせ、着地するまでに合計三弾の銃弾を放つ。その速さも超人並だが、ジョンソンにとっては初めて見る光景では無かった。
ジョンソンは路地裏に落ちていた鉄板を素早く拾い、それを盾にすることで窮地を脱した。
「銃を抜いて打つまでの速さだけは、ボグダーンの奴を超えてるな。だが、まだまだ甘い!」
そして、その鉄板を着地したばかりのフョードル目掛けて投げつける。防御に使用するものを飛び道具として使うと思っていなかったフョードルは、虚を突かれ反応が少し遅れる。頬を掠め、フョードルの赤い血が姿を現す。
「今のも躱すのか、気に入ったぞボグダーンのとこのガキ。いや、フョードル。久しぶりにちゃんとした殺し合いができそうだ」
「それは、どうも。全く光栄ではないが」
ジョンソン投げられた鉄板は当たれば頭蓋が粉砕し即死だっただろう。一つ一つの攻撃が致命傷になりうる程の強さ。確かに武器など荷物にしかならないだろうとフョードルは妙に納得する。
フョードルも様々な人間と戦ってきた。その中にはもちろん、常人とは程遠い人間もいたわけだが、その全ての人間に勝利している。フョードルの無敗記録も今となってはどうでも良いものだが、当時はそれが命に直結していた為に命懸けで挑んでいたのだ。策を弄し、技術を最大限に生かす。それができれば、ジョンソンにも勝利する事ができると踏んでいる。
「あなたは凄い。命を懸けたやりとりで最善を選び続ける人を、僕は今まで一人しか知らなかった。そこにあなたが加わったよ」
「弱音か? ボグダーンの奴と一緒にされるとは心外だが、称賛は素直に受け取ろう」
瞬間、フョードルの手から何かが宙へと放り出される。それは空を舞い、ジョンソンの頭上あたりに到達する。黒い塊が目に入ったジョンソンは、それを受け止めるために跳躍した。この判断は最善そのものだ。フョードルが手から放った黒い塊は手榴弾であり、取り出してからすぐに投げたことをジョンソンは理解している。つまり、ピンを抜いて爆発するまでに時間のかかる手榴弾は、手元で数秒持って相手に放るのが正解だ。フョードルがそれをしなかったので、即爆発の線をなくし、投げ返すという選択に出たのだ。場所も場所なので隠れるという択がないのも、要因の一つであった。
「その判断力、惚れ惚れします」
フョードルが銃を構え、ジョンソンに照準を合わせる。それと同時にジョンソンは空中にて手榴弾を受け止め、フョードルへと投げ返した。
これは賭けだった。ジョンソンが手榴弾を投げ返すという行動だけを狙ったギャンブル。だが、ジョンソンが空中に居る時でないといけない理由があったのだ。フョードルは誓ったのだ。もう、誰も殺さないと。ジョンソンは凄腕の殺し屋だ。急所を外して銃弾を当てなければ無力感できないと感じていた。そして、殺さずに無力化するために当てなければならない銃弾は、殺すだけの銃弾より何十倍も難しい。故に、身動きが取れない空中にてジョンソンを留める必要があったのだ。
フョードルの銃声よりも早くに、ジョンソンの手榴弾を放り投げる音が響く。腕を振るだけで風を切る音がするのも、怪力故の現象だ。そして、やや遅れてフョードルのトカレフの発砲音がなった。コンマ数秒だけ早く手榴弾がフョードルの胸を叩く。しかし、爆発は起きなかった。手榴弾は爆発しないようにフョードルが細工したものだったのだ。次の瞬間、爆発しないことの疑問が届く前に、銃弾がジョンソンの右肩と両足へと届く。
「なッ!!」
空中で銃弾を浴びたジョンソンは地に落ち、力なく倒れこむ。そしえ、その傍にフョードルは近づいた。
「あなたが、最善を選べる人で良かった」
「ふっ、やるじゃねえかフョードル。まさか不発弾だったとはな。さあ、早く殺せ」
ジョンソンは痛みをこらえながら、爽快に笑い声を漏らした。そして、命の終わりを催促する。
「殺さない。僕は、もう誰も殺さないんだ」
その言葉を最後に、フョードルはジョンソンの首に手刀を落とす。ジョンソンの意識は一瞬にして暗闇の中に包まれた。その後、すぐにジョンソンの右肩と両足から流れる血を止血して、人が行き交う街中まで運んだ。銃声を聞き、人がいなくなっていることが懸念点だったが、幸い街の人々には慣れた日常音のようで、人通りは健在だった。目についた人に全財産として持ち歩いている金の一部から適当な額を渡し、ジョンソンを病院まで運んでくれるように頼む。
ジョンソンは強い殺し屋だった。恐らく、ゼロ距離なら片腕だけで負けてしまうのと、大人しく手当させてくれるか分からなかったので気絶させたが、このまま病院まで行けば死にはしないだろう。後の報復が少し懸念点ではあるが、今は気にしてなどいられない。
フョードルは、自身の体にまだ薬の効き目があることを確認しつつ、レーナの安全を確認できる場所へと戻った。