短編|向日葵と銃弾【第三話】
朦朧とする意識を無理やり奮い立たせ、フョードルは影のかかった路地裏を鈍い足取りで進む。
決してボグダーンを舐めていたわけではない。しかし、今まで積んできた殺し屋としての経験がここまで通用しないとは思っていなかった。
「くそっ……」
全身から血が噴出し、体は火傷で燃え上がるように熱い。それに、右足は最後の爆発によって機能を失っており、使い物にならない状態だ。これで生きているだけでも、既に人間の範疇を超越していると言っていいだろう。
命の危機に反しているからなのか、フョードルの頭の中には、先ほどの殺し合いの様子はもうほとんどない。レーナの鈴のような綺麗な声音と、あの時振り返った姿が、何度も頭の中を交差するのだ。
「まだ……死ね、ない」
先程まで辛うじて踏ん張っていた左足さえも力が抜けて、重力に従い、フョードルの体は地に伏せる。体が衝撃を感知し、激痛がフョードルを襲う。
自分はどうなってもいいと、フョードルは本心で思っていた。散々人を葬ってきたのだ。その殺してきた人間も、愛する人がいたに違いない。悪人であれ、善人であれ、その根本的な人間の本能は覆せないだろう。愛する人を失う悲しみとは一体どれほどのものなのか。今のフョードルには想像することさえできない。
自分の想い人だけには生きてほしいなんて望むことは、都合が良すぎるのは分かっている。死んだ後、地獄に行くことも分かっている。親に捨てられた、人を殺さないと生きていけなかった、そんなことは言い訳にすらならない。このことを、今の今まで何も思ってこなかったのが不思議なほどにフョードルの心は腐敗していたのだと理解する。
視界の外側を徐々に暗闇が侵食し始める。立とうと思っても、まったく体が言うことをきかない。依頼を失敗し、逃走。そして、路地裏での惨めな死。罪を犯した人間にとって、これ以上ない完璧なシチュエーションだ。
レーナの声をもう一度聞きたい。レーナにもう一度会いたい。レーナの笑う顔が見たい。レーナともっと話をしてみたい。レーナとデートというものに行ってみたい。レーナの書く字を見てみたい。レーナの仕事している姿を見てみたい。レーナの幼少期の話を聞いてみたい。レーナの好きな食べ物を知りたい。レーナの利き腕を知りたい。レーナの出身地を知りたい。レーナの嫌いなものを知りたい。レーナの趣味を知りたい。レーナの家族のことを知りたい。レーナの誕生日を知りたい。レーナの……レーナ……
ーーーーレーナを、守りたい。
狂気的なまでの愛を繰り返し繰り返し、想う。フョードルはすでに理解していた。自分がレーナという女性を愛してしまっていることに。一度しか姿を見ていないが、そんなことは関係ない。この溢れ出る感情こそが、フョードルの心を表しているのだ。
脳が死を感じる程に、レーナへの想いは増していく。頭の中でレーナへの想いが最高到達点へ届くと同時に、視界が完全に暗闇に包まれて、フョードルの意識はそこで途絶えた。