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【短編小説・非日常】 にんげんっていいの? 3/4

”キュウウウウウ!”

 空が青白く校舎を照らし始めた明け方、分厚いゴムで地面を無理やり引きずるような音が犬たちの耳を打った。

「おい、なんだなんだ? 運動場の方でものすごくでかい音が聞こえたぞ」

 2匹は飛び起きると、一目散に音のした方へ走り出す。

 運動場が視界に入ると、先程まで元気に跳ね回っていた犬たちの四肢は急に固まった。

「何だよあれ……。おい、やばいぞ逃げよう」

「ちょっと待て。と、とりあえず状況を整理しよう。………………あれは人間が移動に使っている道具だ。しかし、普段こんなところ走ってないだろうに、なんで急に……」

 校舎に臨む運動場では、白の軽バンが勢いよくトラックを周っていた。
 
 ご丁寧にも、白線にかぶらないよう外側に大きくドリフトさせていて、今にも車体が転倒しそうである。

 還暦に行かないくらいの男が車窓から顔をのぞかせた。

「なんかやばくないか、早く逃げようぜ……、あれ、さっきから足が全く動かんぞ」

「気づかれてないから大丈夫だろ。今の俺たちはあれだ、トラやらライオンにマークされたときの草食ってるやつ。どうしようもねえと体が悟ってる」

 しばらくすると、異様な事態を察した近くの住人が通報したのだろうか、ぼんやりとサイレンの音が聞こえてきた。

 あっという間にサイレンの音が校舎を打ちはじめ、藍色の集団が慌ただしく校門からなだれ込んでくる。

「そこの白い軽バン、危険な運転はやめてすぐ停止しなさい!」

 警察官は、張り詰めた様子で拡声器を手にしており、矢継ぎ早に老人へ要求した。

 老人はアクセルを踏む足を緩める素振りをせず、警察官の言葉をただの自動音声案内程度としか受け取っていない。よもや、言葉として認識しているかも定かではない。

「もう放っておいてくれ! 俺はあ!! 死にに来たんだあああ!!! 誰にも迷惑なんかかけてねええ!」
 
 世に落ち出でて幾代に渡る、一切皆苦の修羅の道。この男、まさに一片の絆なし。

「死にたいだって? だったら、どうしてこんなことをするんだ! お前にも大切な人が居るだろう、その人たちを死んだ後まで悲しませるつもりか!」

「うるせえ! お前のような公務員に分かるものか! 俺はずっとまじめに働いてきたんだよ、コツコツと! それなのに給料は全然上がらず、挙げ句の果てにまだ40の俺を放逐しやがった! おかげで嫁はもうあんたとは暮らしていけないって、娘連れて出ていきやがったんだ。もう俺には何もない……、一人で孤独に死んでいくんだ! 死ぬしかないんだよ!!」

 男は苦悶の表情を浮かべており、半分ほど閉じられた目は、軽バンの行き先を見定めることすらできなくなっていた。

 老いにもまけず、警察官にもまけず、エンジン音にも、犬たちの冷たい視線にもまけぬ強い叫喚をもって、決して矛を収めることなく、さらにやかましく喚き散らしていた。

「なんだ、あの黒い服のやつらは……。あのじじい、さっきからなんか叫んでるし……。致命傷でも負ってるのか?」

「いや、分からんが血は流してないみたいだし、同種間の意思疎通も図れてるみたいだから、何か合図を送ってるんじゃないか?」

「あれは、図れてるのか? でも、確かに……、敵を追っ払うときに俺もやってるわ、意味のない発声」

 犬たちは、予測不可能な男の行動に対して、あれやこれやと思索を巡らしている。だが、どうにも理解しかねる部分があるようだ。

「待て、冷静になって考えてみろ! お前の親父さんやお袋さんは、お前が幸せになればいいなと思って、いつも陰ながら応援してくれているだろ! お前がそんなことをしている姿をみたら悲しむに違いない! まだ間に合う、さあ、車から降りるんだ!」

「お袋は病気でとっくに死んで、親父はぼけちまってるよ! 間に合うとか間に合わないとか、お前は神様にでもなったつもりか! 全く、お前らはいいよな、平日にムショ通ってたら、毎月給料が出るんだからな! そんなに説得したけりゃ、札束でもおいていきやがれ!」

 拡声器はフル出力で警察官の声を何度も伝えたが、男の耳から先へ意味が伝達されることはなかった。

 説得を試みていた警官はついに拡声器を切ると、部下に機動隊の出動要請を伝令した。
 すでに待機していたのか、間髪をおかずに重装備の人間たちが警察官の前に整列する。

「俺さ、あいつらが何言ってるか全然わからないけどよ、どうして欲しいかはなんとなく理解できるんだよ。たぶんじじいのほうは何か欲しそうにしてる。たぶん餌と交換できる……、あいつらの価値になってるやつ。でも、あっちのやつらはそれをやれないんだろうな、理由は分からんけど」

「俺もなんとなくわかるぞ。が……、あのじじい以外の人間はあんな行動しないわけだろ、だったらじじいの自業自得じゃね? たぶんじじいが欲しいものって、俺たちの餌みたいに自力でとってこないといけないものなんだろ。餌を勝手に持ってきてくれるとか、親以外ありえねえからな」

「それにしても、人間なんておんなじ見た目して、年取って同じように死んでいくのに、いったい何の文句があるんだろうな。餓死するわけじゃあるまいし」

「頭がいい分、いろいろ考えないといけないことがあるんだろ」

 先程まで硬直して動けなくなった脚が軽くなってきたが、犬たちはそのままじっと様子を見ている。

 一方老人は、みるみるうちに増えた警察官の群れに目を丸くしていた。

 隠せない動揺は、生死を左右する緊張の糸を切れんばかりに弾き出す。

 警察官の言葉の連撃により、危うさを纏いながらも、運転技術によって保っていた安全が刹那、消失してしまった。

 遠心力の限界を超えようと、息まいて豪快な外滑りをする軽バン。
 
 地をえぐるようにカーブを曲がる間際、重厚な筋肉を搭載したプロレスラーが力任せに縦投げしたフリスビーのように鋭利な軌道を描き、車体が地面を何度も打ちつけた。
 横揺れにめっぽう弱そうな細いフォルムの特性が、見事に有効活用されたといえよう。

 前後上下をトラックに突っ込まれたように、車体がぐにゃりとへしゃげてしまった。

「あーあ、あんな硬いものに入ってゴロゴロ転げ回ったぞ。終わったな」

「本当、一体何やってんだ? 俺、あのじじいより絶対賢い自信があるわ」

 夜明け前の薄明かりが朝になってしまうのを惜しむように、校舎全体を照らしている。
 先程まで賑やかだった運動場は一転、ピタリと静寂に包まれた。

 警察官たちのかけ声で、時が止まっていたかのような雰囲気が息を吹き返す。

 いくつもの変わった工具で、ぐしゃぐしゃになった車体がみるみるうちに分解されていく。

「おい離せ、離せよ公僕!! こんな悪逆非道、ただですむと思ってんのかああ!! 俺を刑務所にぶち込む気か!? やれよ、やるならやってみろおお!!」

 警察官にがっちりと両腕を押さえられ、引きずり出された老人は、何かから逃げるようにもがき叫んでいる。ついさっきまで見せていた死を懇願する姿は、今や微塵も感じられない。

「暴れるな、じっとしとけ! 緊急搬送は必要なさそうだから先に事情聴取だ、早く歩け!」

「何言ってんだ、救急車を呼べよさっさと! もし俺が死んだらお前らただじゃおかねえからなああ!!」

 男は還暦間近だというのに、人間とは思えない生命力と躍動感をほとばしらせる。人生における有終の美を飾り終え、そのままパトカーへ押し込まれていった。

「おお……、まだぴんぴんしてるぞ。ゴムボールより耐久力あるじゃねえか。生ものじゃなけりゃ新しいおもちゃになったのに……」

「やっぱ人間の言葉の意味はわからないんだけどさ、あのじじい、さっきとは逆のことを要求しているように見えたな。結局、何を求めていたのかよく分からん……」

「たぶんあいつだけだろ、あんな人間は。普段あんだけ頭のいい生き物なんだから」

「まあ、やばいやつが消えて俺たちの生活が守られたんだ、じじいのことはどうでもいいか。……いやあ、でもすごいもんを見たよな。いい社会勉強になった」
 
 人間たちの賑わいが消えるまで、犬たちはのんきにぼうっと運動場を眺めていた。