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91‐心を磨く便所掃除 モントレーの山奥から心の叫けび
”便所を美しくする娘は、美しい子供を生むと言った母親を思い出します。僕は男です、美しい妻に巡り会えるかもしれません”と書いた有名な詩を読んだことがありますが、まだやる気にはなりませんでした。
ところが、あの有名映画監督、タレントの北野武のことを何かで読んでから、やる気になりました。彼が映画監督で成功しているのも、タレント業で成功しているのも「便所掃除のお陰」だと書いている。
彼はどこで便所を使っても、時間の許す限り、きれいに掃除をしてから出るそうです。
あの有名な彼が、便所掃除をしている姿はどうしても想像できません。
あの忙しい人がそんなことをするとは夢にも想像できませんでした。
私は驚き、考え直し、真似をして便所掃除をやるようになりました。
濃い青空みたいな色の液体洗浄剤を便器の中に入れて、柄のついタワシで、丸い円を書くを描くように上から下へゴシゴシと磨きます。
真下の穴もタワシをぐるぐる回わしながら磨きたおします。
その次は雑巾をぬらして、絞り、蓋を丹念に磨き、水のタンクの回りも、タンクの蓋も磨き上げます。
たまには便器と床の付け根の黄色くなったダップ(グルー)を剥いで真っ白いダップに塗り替えます。
「ああ、きれいな便所」と言う言葉が使う人の口から思わず出るのを想像しながらやります。
俺は便器の掃除をしているんじゃない、便器という人間の顔の化粧をしているんだと、思いながらやる時もあります。
トイレボールの中についた茶色の線、水タンクの中の茶色になった汚れの線も消しとります。
でも茶色の線はなかなかとれません。
ハウスクリーニングを専門にしている嫁はんが教えてくれました。
軽石で根気よく、ゆっくり柔らかく、擦ってとるのです。
次は雑巾を洗いなおして、絞り、便器の外回りを拭いて終わりです。
たまにはきれいに掃除した便器に座って、腿にひじを当て、右手でこぶしを握り、あごを支えて、ロダンの考える人の真似をします。
そうしていると、なかなか思い出せなかった、昨日食べた昼ごはんが思い出せそうです。
その次はパンも、ご飯も、肉もどうしてこんな黄色い色になるのだろうかと思ったら、これは黄色い色ではない、黄金の色や、便所は黄金を作る機械でもある。
こういう時は便器のまん前に大きな姿見の鏡が欲しいです。
また、南サンフランシスコに住んでいた頃、両足の膝が像の足のように腫れて、身動きできなくなり、治療のため、朝の一番絞りの小便を便器に放つ前に、コップに入れ、悩み悩み、それこそ歯を食いしばって、苦労して呑んだことも思い出します。
便器というのは不思議なものです。
便器に落ちるまでの小便は飲めるが、便器に落ちた小便はこのフリムンの私でも飲めそうにおまへん。
人間を育ててくれている栄養の残り糟で出来た黄金の塊を捨てる所がきれい、清潔であるのは気持ちのいいものです。
何年か前に、ユタ州の山の上で、友人の井手尾さんとキャンプに行った時は便所のあまりの綺麗さに驚きました。
用を済ませて、手を洗ってから便所の入り口にテーブルを置いて食事をしてもいいなあと思えたものです。
もう一度行きたい便所です。
ところがうちの嫁はんがあまりの汚さに吐き出しそうになって、用を足さずに辛抱して出てきた便所もあります。
それはサンフランシスコのあの有名なゴールデン・ゲイト・ブリッジを北側から入る前のビューポイントの便所でした。
世界中から来た見物人の多くはきれいな偉大なゴールデン•ゲイト・ブリッジを見たら、圧倒されて、感激して、まともに便所の穴を目がけてストライクじゃなく、ファウルにするのでしょうか。
私にはわかりません。
サービスの悪い、レストランは行った後、もう絶対に行くまいと心に決めながら、忘れた頃また行くが、汚い便所だけは忘れても二度と行く気はしない。
掃除ができない便所もある。
私の住んでいるカリフォニア・モントレーの山奥の山の砂漠と呼ばれるブラッドレーは昔はほとんど牧場ばかりの村であった。
今は、ブドウ畑が進出しだしている。
そのカーボーイ時代の便所は掃除をしないで済む便所だったらしい。
家から少し離れた畑の隅に、人間がまたげる幅に2枚の板をおく。
その板と板の間を鍬で少し掘る。
用を足したら、鍬で埋めて、明日の分の用を足すために、2枚の板を少し前へ進める。
板を前へ進めるのが面白い。
名前をつけるとしたら、”前進する便所”。
雪国の人達がスキーをはいたまま、用を足しているような気がしてならない。
日本のある小学校の先生が小学校生数十名に、もし、駅のトイレを汚したら、綺麗にして出るか」とアンケート“をとったら、半数以上の生徒が「そのまま出てくる」と答えたそうです。
自分だけよければいい」という今の日本の姿が便所に、はっきりと現れている。
その人のこと、その家のこと、その会社のこと、そのレストランのこと、その国のこと、便所へ行けばわかるような気がします。
でも世の中教育の仕方だと思います。
アンケートをとったその先生が、その小学生達に、ある有名な詩を読ませました。
その詩は浜口国雄の「便所掃除」です。
「便所掃除」
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気も臭くします
掃除がいっぺんに嫌になります
むかつくようなババ糞がかけてあります
どうして落着いてしてくれないのでしょう
ケツの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
怒ったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう
唇を噛みしめ 戸の桟に足をかけます
静かに水を流します
ババ糞におそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壺に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
落とすたびに糞がはね上がって弱ります
かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
唇にもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落とします 朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシの裏まで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちで座ってみます
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は美しい子供を産むといった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
この詩を読んだ後の生徒の感想は「私は、駅のトイレは、自分で汚しても知らんふりしていました。
でも、この詩を読んでから、これからは汚さないようにしたいです。」
これで日本の将来は安心です。
ただ教育が行き届いていないだけですと、この先生は書いていました。
フリムン徳さんは便所掃除をした後が、皿洗いをした時よりも、窓ガラス拭きをした時よりも、風呂掃除した時よりも特別に清らかな気持ちになります。
いつか目の前にええことが現れる様な気持ちもします。
どうしてでしょうか。
今まで便所掃除をしていた嫁はんもこの清らかな気持ちを楽しんでいたと思うと、どうしてこんないいことを私に言ってくれなかったろうか。
汚い汚れた便所で用を足すのは辛いことです。
でも、使う人がいい気持ちになることを想像しながら、やる便所掃除は神々しい美しい気持になるものです。
元酔っ払いの大工の私でも便所を美しくすれば、立派なエッセイ が書けるような気がします。 "便所の神様”が応援しているような気がします。
鼻歌歌いながら便所掃除に頑張りたいと思います。